2021年2月27日土曜日

尹東柱の生涯(3)「恩真中学校のときの彼の趣味は多方面にわたっていた。サッカーの選手として駆け回り、夜は遅くまで校内雑誌をだすために謄写版で文字を書いたりもした。既製服を格好よく手なおしして、腰をくびらせたりラッパ・ズボンを作ったりするのに母の手を借りず、自分でミシンかけをしたりもした。」   

尹東柱の生涯(2)「尹東柱の徹底した民族主義志向の内面には、このように明東でむやみにおこなわれた共産テロが引き起こした恐怖と血のにおいが、追憶のように隠れているのである。」

より続く


1932年4月 尹東柱15歳

龍井のミッション系恩真ウンジン中学校に入学。宋夢奎も一緒。

この年、尹一家は明東から3里北の小都会、龍井ヨンジュンに転居。父・尹永錫は印刷所を設けたが、事業は不振。

この年、「満州国」建国。北間島もその一部となる。

詩人の弟尹一柱によれば、「一九三二年に尹東柱は明東から北へ三〇里〔約12キロ〕はなれた龍井という小都市のミッション系の学校、恩真中学校に入学した。それを機にわたしどもは農地や家を小作人にまかせて龍井に移った」(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン』23集、ウェソル会、一九七六年、一五三頁参照)と、尹一家の龍井移住を尹東柱が恩真中学校に入学した一九三二年四月ごろと記述している。(『評伝』)

恩真中学校のときの彼の趣味は多方面にわたっていた。サッカーの選手として駆け回り、夜は遅くまで校内雑誌をだすために謄写版で文字を書いたりもした。既製服を格好よく手なおしして、腰をくびらせたりラッパ・ズボンを作ったりするのに母の手を借りず、自分でミシンかけをしたりもした。彼の二年生のときだったか、校内弁論大会で「汗一滴」という題で一等をとったことがあり、賞としてもらったイエスの写真の額が我が家にいつもかけられていた。臼の上にみかん箱をのせて弁論の練習をしていた姿がありありと目に浮かぶ。しかし彼は、弁論調の人ではなかったし、大会での評価もおちついた語調と内容のおかげだということだった。その後彼はふたたび弁論に関心をもったことはない。彼は数学もよくした。とりわけ幾何学を好んだ。

(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン」23集、ウェソル会、一九七六年、一五三頁)

北間島には二つの求心点、龍井と延吉ヨンギル(別名・局子街クッジャガ)があった。龍井は朝鮮人が集中的に寄り合って暮らす都会で、中国側の最高行政官庁や公共機関はすべて延吉にあった。延吉は「中国人の都市」、龍井が「朝鮮人の都市」的な性格をもっていた。

この状況下で、日本の統治当局者は、中国の行政諸機関のある延吉ではなく、朝鮮人たちの土地・龍井に彼らの主要機関を設置した。統監部の間島派出所(1907年8月-1909年11月)とそれを廃したのちに設置した日本間島総領事館(1909年11月2日-1945年8月15日)は龍井にあった。

但し、統監部間島派出所は日本の内務省管轄であり、総領事館は外務省管轄である。日本の統治当局は間島に統監部派出所を置いた時期は、その地を大韓帝国の領土とみなしていた。しかし1909年9月締結の「間島協約」(清国と日本の間で、日本は安泰線〔安東-奉天間の鉄道路線〕改築問題などで利権を占有する代わりに、「間島は大韓帝国の領土」という従来の主張を撒回した)に従って、間島派出所を領事館に変え、その地が清国の領土だと認定する国際的な処置行為を行った。

「間島協約」によって、日本は北間島で「龍井に総領事館、局子街と頭道溝、白草溝に領事館分館」を設置した。

龍井には、一ヶ所だけ日本が絶対に手をつけられない特殊地域があった。そこは、キリスト教長老教会のカナダ宣教部があった東山地区で、龍井の東側丘陵の一帯だった。そこは「英国ドク」〔英国の丘、の意〕と呼ばれた。カナダは国際的には英国連邦の一つなので、「英国人たちの台地」という意味でつくられた別称であった。宣教部区域内には宣教師たちが設立し運営している学校、病院など各種の機関と彼らの住宅があった。尹東柱がかよった恩真中学校、女性教育機関である明信女学校、済昌病院(英語では「セント・アンドリュース・ボスピタル」)などは、すべてこの区域内で宣教師たちによって運営され、「治外法権」の特権を享受していた。

この「ヨングッドク」の治外法権は、当時さかんに帝国主義的野心を燃えたたせていた英国の国力に裏打ちされていたので、大変な威力をもっていた。宣教部所属の宣教師たちは独立運動に大きな理解を示し献身的に助けた。その功により、済昌病院の医師でもあるスタンリー・H・マーティン宣教師は北間島最大の独立運動団体である「北間島大韓国民会」から表彰を受けた。

宣教部区域内の諸学校では、日本側の干渉なしに熱烈な民族主義教育を受けることができた。済昌病院は朝鮮人たちの疾病の治療だけではなく、独立運動家たちの秘密会議や避難の場所としても活用された。1919年3月13日に龍井で開かれた大規模な独立万歳運動のさい、中国軍の発砲による死亡者と負傷者の全てがヨングッドクの済昌病院に移された。17名の死亡者は丁重に葬礼が執り行われ、負傷者たちは病院側の献身的な治癒と保護を受けた。

1933年4月

尹東柱弟の光柱ユンクァンジュ、出生。

東柱は恩真中学1、2年の頃「尹石重の童話、童詩に心酔していた」(文益煥の証言あり)。

1934(昭9)年12月24日 尹東柱17歳

「文藻」の最初に置かれた3つの詩 - 「ろうそく一本」「生と死」「明日はない」は、いずれも「昭和九年十二月二十四日」「昭和九、十二、二四」と、1934年ではなく昭和9年と記される。

尹東柱の自作詩の清書ノートとしては、1934年から1937年までの詩を集めた「わが習作期の詩ではない詩」と越された「文藻」と、1936年から1939年までの詩を載せた「原稿ノート窓」があり、どちらも完成した詩を清書し、完成時の年月日を付すのを基本としている。

なかには執筆時期を記入していないものもあるが、合わせて96篇もの詩が載せられたなかで、7篇の詩だけに何故か昭和年号が付されている。

ろうそく一本


ろうそく一本 -

ぼくの部屋に漂う香りをかぐ。


光明の祭壇が崩れる前に

ぼくは清らかな供物を見た。


山羊のあばら骨のようなその体。

命の芯まで

白玉の涙と血を流し

燃やしてしまう。


なおも 机の隅に揺らめきながら

天女のように 炎は舞う。


鷹を見た雉が逃げるように

闇が窓のすきまから逃げていった

ぼくの部屋に漂う

供物の偉大な香りを味わってみる。

(1934・12・24)


尹東柱の従兄弟であり、幼なじみでもあった宋夢奎が同時期に「東亜日報」の新春文芸に応募してコント部門で当選を果たし、1935年の1月1日に紙上掲載されたことが尹東柱を刺激したのである。宋夢奎の快挙を目のあたりにし、尹東柱も自身の詩をきちんと残してゆくことを決意した結果が、「文藻」誕生となった。

ひょっとすると、「文藻」冒頭の3つの詩は、宋夢奎と同じく、「東亜日報」 の新春文芸の詩部門に応募したものだったのかもしれない。


つづく

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