長寛元(1163)年
2月19日
・後白河院、熊野に御幸
3月29日
・「長寛」に改元。
3月29日
・延暦寺僧徒の訴えにより、園城寺僧に延暦寺で受戒することを命じ、武装を禁じる。
6月9日
・延暦寺僧徒、園城寺(三井寺)を攻め、堂搭・房舎を焼く。 正暦4年(993)以来四度目の襲撃
7月
・延暦寺の衆徒や日吉の神人が「出挙(すいこ)物の譴責」(借金の取り立て)と称して京中に入って乱暴するのを停止する宣旨が出される(『百錬抄』)。
7月25日
・興福寺衆徒、延暦寺衆徒との争いで別当恵信を追放。
11月
・この月の官宣旨案中に、①平泉寺僧徒が近隣の牛原荘に住し、荘園領主醍醐寺円光院の課する諸役を忌避、②平泉寺に篭もる夜討強盗の輩が牛原荘をひどい目にあわせるとある(「醍醐雑事記」巻12)。住僧統制に手を焼いている様相が見える。
11月27日
・地震あり。
12月14日
・後白河院、熊野に御幸。この年、二回目。
12月20日
・平宗盛、美作守に任じられる。
12月26日
・皇嘉門院聖子(42)、出家。
長寛2(1164)年
この年
・二条天皇の親政
長寛2年の頃、上皇側の政治力が後退し、二条天皇の意欲的な親政が行われた。、
サテ主上(二条院)、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマヰラセテ、押小路東洞院ニ皇居造リテヲハシマシテ、清盛ガ一家ノ者サナガラ其辺ニトノ居(宿直)所ドモ造リテ、朝夕ニ候ハセケリ。(『愚管抄』)
平清盛もまた天皇の政治を支える立場にいたことがうかがわれる。
・藤原俊成、「俊恵歌林苑歌合」判者を勤める。この頃から歌合判者の依頼を多く受けるようになる。
・藤原定家の妹、承明門院中納言誕生
・藤原忠良、誕生。
1月22日
・藤原経宗、大納言に還任。
1月28日
・紀伊国日前・国県社、焼失。
2月
・この月、平重衡、尾張守。平経盛、内蔵頭。重盛、正三位。平宗盛、正五位下。
2月19日
・元関白の藤原忠通、没。九条兼実(16)の父。8歳の時には母を亡くす。
2月27日
・地震あり。
4月10日
・平清盛、故藤原忠通長男の関白藤原基実(21)を娘の盛子(せいし、9)の婿として迎える。盛子は摂関家の北政所(摂関家の氏の長者の正妻)となり、ここに平氏と摂関家の緊密な関係が生まれた。
この年(長寛2年)6月の摂関家の政所下文(まんどころくだしぶん)に署判を加えている別当は、まだ大宰大弐の藤原永範(ながのり)や中宮亮藤原邦綱などの摂関家の旧来からの家司よりなっているが、翌3年5月の摂関家の政所下文では別当に美作守平宗盛と尾張守平重衡の二人の平氏一門が名を連ねている(『平安遺文」)。
4月26日
・後白河院、延暦寺へ御幸
つづく
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