2022年5月31日火曜日

〈藤原定家の時代011〉仁安2(1167)年 平重盛に諸道の海賊追討の宣旨 平清盛、太政大臣を辞任(但し、以降も直接政治に関与続ける) 平盛子(12、清盛娘、故摂政基実室)従二位

 


仁安2(1167)年

5月10日

・権大納言平重盛に諸道の海賊追討の宣旨が下る(「兵範記」同日条)。盗賊取締の権限で、郎等を宣旨の使いとして全国に派遣可能となる。

仁安二年五月十日 宣旨

聞くならく、近日東山の駅路(えきろ)に緑林(りよくりん)の景競ひ起き、西海の州渚(しゆうしよ)に白波の声静らず。或は運漕の租税を奪取し、或は往来の人民を殺害す。之を朝章(ちようしよう)に論ずるに、皇化無きがごとし。宜しく権大納言平卿に仰せて東山東海山陽南海道等賊徒を追討せしむべし。

                           蔵人頭権右中弁平信範奉


東国の駅路に出没する緑林(山賊)や、西海の州渚に出没する白波(海賊)が、運搬中の租税を奪い取ったり、往来中の人民を殺害しているという。これを朝廷の憲章に照らし合わせてみるに、天皇の威が全くないもののごときであるゆえ、「権大納言平卿」(重盛)に命じて、東山・東海両道の山賊、山陽・南海両道の海賊を追討するように命じる、という内容。

当時、諸国で賊徒の蜂起がとくに問題になっていた形跡はない。かつて清盛に与えられていたであろうものと同様な宣旨が、改めて重盛に宛てて出されたものと見られる。

国家軍制の統括責任者としての地位を、後継者重盛にとどこおりなく引き渡すためにとられた措置。

賊徒の追討は、12世紀初頭に正盛(清盛の父)が白河院に登用されて以来、平氏起用の伝統的な方式。しかし、これまでの賊徒追討が特定の対象や地域に限定されたものであったのに対し、今回は、「東山・東海・山陽・南海道等の賊徒」というかたちで、広域的に、かつ対象を特定しない追討権が認定された。

しかし一方、この後、寿永2年(1183)5月まで10次にわたって平氏の追討使・追捕使補任が知られるが、このような頻繁な補任の更新は、この段階において、国制上の軍事統率権が依然として院・天皇権力に掌握されていたこと、平氏の軍事・検断の権原(けんげん)が安定したものではなかったことを示している。とりわけ、その軍事・検断権行使が追討使・追捕使補任による国衙在庁指揮を内容としたとすれば、院・天皇権力との政治的提携が必要不可欠の条件であったことは否定できない。「よろしく権大納言平卿に仰せ」との宣旨の文言は、一面に成り上がりながら、他面で王朝国家の傭兵隊長としての性格を脱しきれぬ平氏権力の限界を示している。

この宣旨を契機として、平氏の軍制は、諸国大番役の制と結合して展開し、とくに東国に対しても平氏の家人組織化が進められた。

5月15日

・興福寺別当恵信、大僧都宗覚などを流罪とする。

前別当の恵信が別当の尋範(じんぱん)を殺害しようとして押しかけ、合戦の末に禅定院・大乗院・喜多院などの堂舎が焼き払われる。

5月17日

・平清盛、太政大臣を辞任。政界からの形式的な引退、重盛に清盛の地位を譲ることを意味している。大功田として播磨印南野以下の所領与えられる。藤原忠雅(長女婿・左大臣兼雅の父)が太政大臣となる。

翌年には病気で出家していることから、体力の衰えを自覚していたと思われ、白河天皇が早くに位を堀河に譲ったり、摂関家の忠通が早くに基実に摂関を譲ったように、自己の確立した立場を後継者に譲ろうとしたものと考えられる。

7月11日

・九条兼実、「近日天下天変怪異、勝計すべからず」と記す(『玉葉』)。

7月20日

・後白河上皇、新造の山科殿に移る。 遠江守平信業(のぶなり)に長門国を与えて造営させる。

閏7月14日

・後白河上皇、罹病。御かふれ事=腫物。

閏7月21日

・蔵人頭平信範、清盛邸を訪れる。

「院に参り、法勝寺(ほつしようじ)荘々訴えの事を奏す。次に大相国(だいしようこく)に参る」(『兵範記』)。

8月

・「太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合」、参加歌人24人、判者は太皇太后宮前大進藤原清輔。主催者平経盛は平清盛弟。

8月1日

・平宗盛(21、時子の長子)、参議に任命。その後右大将・権大納言などを経て、異腹の長兄重盛が没した治承3(1179)年には嫡子の地位を継承。

8月10日

・清盛の太政大臣の功労として、播磨国の印南野(いなみの)、肥前国の杵島(きじま)郡、肥後国御代郡の南郷・土比郷などを「大功田(こうでん)」として子孫に継続して知行することを認めており(『公卿補任』)

8月29日

・蔵人頭平信範、清盛邸を訪れる。

「内に参る。次に殿下に参る。次に大相国に参る。次に院に参る。所々において条々を申す」(『兵範記』)。

翌日条にも「大相国」(清盛)に意見を求め、五節舞姫を献ずべき公卿や受領などが決まっている。

9月3日

・平清盛、厳島参詣に向かう。

9月18日

この日付け宗盛の自筆書状

おほいとのの申せと候。なりつなの申候みののくにのおほみのまきのこと、いそぎ申させおはしまして、じけのくだしぶみ、なりつなにたぶべく候。なりつながりとこそうけたまはり候へと申せと候に候。あなかしく

(仁安二年)九月十八日                   宗盛

右兵衛督


この文書には「宰相中将 済綱(なりつな)申 麻続(おみ)牧事」という受信者のメモがあり、宰相中将宗盛が藤原済綱の訴える美濃国の麻続牧について右兵衛督(平時忠)に伝えた書状と知られる。

「おほいとのの申せと候」とあるのは、「おほいとの」(大臣殿)の命令によってこの書状が記されていることを語っており、宗盛に命令を与えうる大臣は清盛以外には考えられないことから清盛の御教書といえる。平時忠は院の伝奏を勤めているので、清盛が済綱の訴えを聞いて院に頼み込んだものと考えられる。

清盛は院を動かしたり、院からの要請に沿って動いている。"

9月21日

・後白河上皇・女御平滋子、熊野参詣へ出発。平重盛・宗盛・知盛ら供奉。10月12日、熊野より還御

9月26日

・地震あり。

9月27日

・五条内裏、焼失。

10月21日

・この日の新日吉社での競馬には清盛が上皇に扈従。

11月6日

・九条良通、誕生。兼実の長男、のち内大臣、母は藤原兼子、文治4年2月20日没(22)。

11月18日

・平盛子(12、清盛娘、故摂政基実室)、高倉天皇の准母とされ従二位叙任、准三后の宣下うける。

12月

・平重盛、「日来所労」「昨今不快」により、9日の東宮の御書始(ごしよはじめ)には東宮大夫(だいぶ)の身でありながら出席せず、18日には大乗会(だいじようえ)の上卿(しようけい)になっていたのを交替する。

12月13日

・平宗盛・平時忠(41)、従三位に叙任。

12月18日

・八十嶋祭。乳母藤原邦子(藤原邦綱娘)が使を務める。

12月23日

この日、清盛は除目・叙位・僧事について、法皇から意見を求められ、「御定」が決まる(『兵範記』)。

清盛は、朝廷の公事や行事そのものにも直接関わっており、「権門」としてその存在に重みをなしている。

12月24日

・正三位・前左京大夫藤原顕広(54、定家の父)、俊成と改名。


つづく

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