応保2(1162)年
7月17日
・平教盛(清盛の異母弟)が能登守
8月20日
・平清盛(45)、従二位叙任。1160年の正三位につづき異例の昇進。
9月3日
・後白河院(35)の第7皇子憲仁(のりひと、のちの高倉天皇、母は平滋子(建春門院)、安徳天皇・後鳥羽天皇らの父)誕生
9月15日
・平頼盛・時忠等、憲仁を皇太子とする事を謀るにより解官。
28日、上皇の近臣藤原信隆・成親等を解官
9月23日
・清盛(45)、検非違使別当を辞任。
9月28日
・平重盛(清盛嫡男、26)、右兵衛督となる。翌年正月5日に従三位に叙せられる。
12月
・平重衡、従五位下となる。
以後の官歴は尾張守・左馬頭、ついで左馬頭兼任のまま中宮亮・東宮亮を歴任、左馬頭を去って左近衛権中将に就任、治承4年蔵人頭。治承5年5月、従三位、いったん辞していた左近衛権中将に返り咲く。三位中将が2人同時にある時は、先任の者を本三位中将、新参の者を新三位中将と区別して呼ぶ。寿永2年7月、甥の資盛が従三位右近衛権中将となると、重衡は本三位中将と呼ばれる。
長寛元(1163)年
この年
北条義時、時政の次男として誕生
義時が誕生した当時の北条氏については、不明な点が多い。父の時政についても、大きく二つの考えが交錯する。その一つが、伊豆国の在庁宮人であったとするものであり、もう一つが対照的に、無位無冠の小規模な武士(団)のひとりであったとする指摘である。
病死したことを伝える『吾妻鏡』元仁元年(1224)6月13日条に、「御年六十二」とあることからの逆算である。ちなみに、伊豆国に配流された源頼朝は、義時より十七歳年長であるから、当時の社会的通念からいえば、親子ほどの年齢差ともいえる。
義時の父は北条時政であるが、その母についてはわからず、わずかに前田家本「平氏系図」に「母伊東入道の女」とあるにすぎない。伊東入道とは、延慶本『平家物語』にある「伊豆国住人、伊東入道祐親法師」のこと。
時政には少なくとも三人の妻が確認される。義時の母「伊東入道の女」が最初の妻と思われ、兄宗時や政子の母でもあった。次の妻は弟時房の母で、武蔵国の大族、足立還元の娘である(略)。そして、三人目の妻が、いわゆる牧方である。
1月5日
・平重盛(26,清盛嫡子)、従三位に叙任。
この時期の清盛の権力をよく物語るのは嫡子重盛の官位上昇。前年の応保2年(1162)10月28日に右兵衛督に任じられたばかり。清盛が公卿になったのは2年半前のことなので、この時期の平家勢力の伸長は目を見張るものがある。
また、この年、重盛の第四子の清経、誕生。清経は『平家物語』でも中院(なかのいん)本という語り本系テキストに、寿永2年秋、九州の海で入水した時が21歳とあり、この年の生まれと推測される。
清経は、重盛と成親の妹経子の間に生まれた長子で、同腹の弟に有盛(ありもり)・師盛(もろもり)・忠房がいる。
経子は左大臣経宗の猶子で高倉天皇の乳母でもある。承安元年には「大納言三位」と呼ばれており(『兵範記』12月26日条)、少なくとも従三位までは昇った有力な女性た。当時は母の門地がその子の嫡・庶を決定するので、清経は「当腹」、嫡妻の子と呼ばれている(『山槐記』治承3年6月4日条)。
1月24日
・平重衡が尾張守に、保盛が越前守に任じられる。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿