2022年5月21日土曜日

〈藤原定家の時代001〉応保2(1162)年 定家生まれる 1月 兼実(14)正二位 後白河院の第2回目の熊野詣 蓮華王院(三十三間堂)造営を決意 備前国を知行する清盛による蓮華王院の造営   


応保2(1162)年

この年

・久安年間(1145-1151)以後、沈静化していた寺院の大衆の動きが活発化。この年(応保2年)、延暦寺の僧が筑前国の安楽寺の末寺化を訴えた頃から延暦寺の僧の活動が盛んとなり、翌長寛元年(1163)6月には、園城寺の衆徒が大津の東浦を追捕して神人の首を斬ったことを理由に、延暦寺の大衆が園城寺の本堂を焼き払う。また7月25日には興福寺の衆徒が別当の恵信(えしん)を寺内から放逐し、住房を焼き払う。

この年

・藤原定家、誕生。父は正四位下左京大夫藤原顕広(49、のち俊成と改名)、母は藤原親忠女美福門院加賀。

〈御子左家(みこひだりけ)〉

藤原道長ー頼道ー長家(頼道六男、正二位大納言)ー忠家(正二位大納言)ー俊忠(従三位権中納言)ー俊成(正三位非参議)

初め長家は醍醐天皇皇子兼明親王の三条坊門南、大宮東の旧宅を譲りうけて住んだが、兼明親王は一時源姓を賜わり、左大臣になって御子左(みこのひだり)と号された。

長家以降、歌道で活躍し、社会的地位の低下とは反対に、御子左家は歌道において世人の注意を高めつつあった

院政期の歌道の家 主流は六条家(藤原顕季)

顕李の母、親子が白河天皇の乳母となったところから勢力を得、顕李は伊予・播麿など30余年にわたり数ヶ国の受領を歴任し、巨富をたくわえてその子長実・家保・顕輔らも受領として栄達し、長実は権中納言に上り、その女子得子はのち美福門院として鳥羽法皇に寵愛され近衛天皇を生むに及んで、長実に大臣従一位を追贈する。家保の妻も崇徳天皇の乳母となり、六条家は院の近臣として非常な羽振りをきかすに至る。また顕季・顕輔・清輔・顕昭ら一門から多数の歌人があらわれ、政治・経済・文化等多方面にその勢力を張るようになる。

定家の父俊成(永久2年1114年~元久元年1204年11月30日、享年91歳)

初め歌人藤原為忠と交わり、彼の家に出入りするうち、為忠の女を妻とし、覚長(法隆寺別当、興福寺法印権大僧都)・覚禅・快雲(阿闍梨、得長寿院の供僧)らの僧や後白河院京極局(後白河法皇に仕え、唯一人の祇候として御車の後にのり「近習奏者余人なし」と定家が記したほどの女性)といわれる女子をもうける。

為忠の女を妻として数年ののち、俊成は叔父顕良の女、ならびに藤原親忠の女の2人を妻とするが、何れが先かは不明。

顕長の女には、八条院権中納言・八条院坊門局(藤原成親の妻、離別後も八条院に仕える)の2女子が、親忠の女には、定家、成家・覚弁の2男子と八条院三条・高松院新大納言・八条院接察(あぜち)・八条院中納言・前斎院大納言・承明門院中納言の6女子があった。

定家の母(藤原親忠の女、美福門院加賀)は、はじめ為忠の子為隆(寂超)の妻で隆信(歌人、画家)を生み、自身も歌をよくし、『新古今』『新勅撰』にその作が入っている。父親忠は若狭・摂津・安芸・筑後の諸国を歴任した鳥羽院近臣の受領。その女は、上皇の寵姫美福門院に乳母として仕え加賀と呼ばれ、のち美福門院の女、八条院暲子(しようし)内親王に仕えて五条局と号した。俊成は為忠の家に出入するうち、彼女と恋愛関係を生じ、夫為隆が剃髪ののち、遂に夫婦となったが、美福門院との関係はその後もつづき、御子左家は一層その関係を深める結果となった。不安な政局下にあってこうした有力者につながりをもったことは俊成にとって大きな強味であったし、すぐれた女性を妻として定家の如き天才をつくったことは一層の幸いであった。

定家の兄成家は、定家より7歳年長、侍従右近少将を経て建仁3年(1203)従三位、承元4年(1210)正三位、建暦元年(1211)兵部卿とすすみ、建保3年(1215)出家、承久二年(1220)6月4日、66歳で没。正妻以外にも関係の女性があって家庭乱れ、建保元年秀康に召しとられた強盗中には、成家の家の進土(しんじ)成清・雑色自吉・童法寿・阿闍梨某らが交っていたほど。

覚弁は俊成19歳の時の子で、定家より30歳年長、正治元年10月権大僧都をもって興福寺権別当に補せられ、定家はこれを奈良僧都とよんでいた。正治元年、定家が春日祭使として参向したとき、八幡まで人をやってもてなし、奈良ではその住房に休息・入浴せしめ世話をやいた。詠歌各一首が『千載集』『新古今集』にある。

姉妹で筆頭の八条院三条は定家より14歳年長、五条尾上とよばれ、藤原成親の弟少将盛頼の妻となり2女を生み、一人は三位源具定の母で、俊成卿女といわれた有名な歌人。2女とも幼時より俊成の許に養われ、三条自身も俊成の許で生活した。正治2年2月没。俊成より播磨国越部荘上保を譲られている。

次の姉は高松院新大納言で12歳の年長、実名は祇王御前といい、定家によって六角尼上とも呼ばれた。八条院の妹で二条天皇皇后である高松院姝子(しゆし)内親王に仕え、御車の後に乗ったほど重要な地位にあった。のち左衛門督藤原家通に嫁して時通・敦通を生んだ。家通は従二位権大納言に至り文治3年11月45歳で没。家通の祖父は宗通で受領を歴任し、正二位権大納言まですすむ。当時非常な富者として聞え、4ヶ所に豪壮な邸宅を営んだ。彼女は、姉の八条院三条没後は同胞中から最も尊敬され、俊成も遺言を渡したほど重んじていた。俊成が没したとき、定家は彼女と最もよく相談し、七七日の仏事は彼女が引うけた。

三番目の姉は定家より8歳上の八条院按察で朱雀尼上と呼ばれた人。大納言藤原宗家の妻となり、文治5年閏4月宗家没後出家したと思われる。一時定家の九条の家にいたことがあり、定家の評によれば「本性甚だ廉直(れんちょく)之人」であった。

第四番目の八条院中納言は5歳上の姉、『明月記』に健御前の名でよくみえる。八条院坊門局に養われ、仁安3年(1169)12歳で建春門院に仕え、初め建春門院中納言とよばれた。安元2年(1176)7月、門院没後坊門局の許におり、門院の御子前斎宮亮子(りようし)内親王に仕えていたが、治承4年(1180)前斎宮が摂津へ下ったときは父の命にそむき同行する。寿永2年(1183)八条院へ出仕し、建永元年(1206)5月、九条邸で50歳を迎えたのを機に出家し、九条尼上と呼ばれた。一生結婚しなかったといわれていたが、藤原伊輔と関係があり一女をもうけたと推測される。伊輔は従三位右兵衛督で建永元年4月出家したとき彼女も出家し、建暦2年(1212)8月、危篤に際しては伊輔の女が卿二品藤原兼子の使として見舞いに来り、彼女のもっていた細河・讃良の両荘を卿二品へ譲るべき旨の書状を認めさせた。同時に定家に細河荘、成家に讃良荘を譲っている。その後、幸い平癒し、『建春門院中納言日記』を書き上げた。

1月

甲斐守藤原忠重の荘園整理(忠重の国司解任と『長寛勘文』)

この月に甲斐守になった藤原忠重は目代中原清弘と在庁官人三枝守政(さいぐさのもりまさ)に命じて荘園整理を行う。国衙に近い熊野山領八代(やつしろ)荘がその標的とされ、軍兵によって境の表示札が抜き取られ、年貢が奪われ、神人が搦め取られてその口が割かれる事件が起きる。熊野山は朝廷に訴え、八代荘は久安年中に鳥羽院庁下文によって立てられたものであり、保元の新制においても鳥羽院庁下文によって立てられた荘園は認めるとされているゆえ、荘園として復旧し、国司以下の任を解くように求める。

これに対して国司の側は、鳥羽院庁下文は出されていても、国司任初の時に太政官符を申請して寛徳以後の荘園は整理することが認められており、荘園の停廃は当然のことである、と反論。ここに院庁下文と太政官符のどちらが優越するのかという問題が起きるが、院庁下文が無視される結果になったのは、二条親政が進められた影響によるもの。

事件は忠重の国司解任で決着するが、その罪科の勘申(かんしん)を命じられた明法博士中原業倫(なりみち)が、「大社神御物」を盗む罪と規定し、その大社とは伊勢神宮のことであるが、熊野権現と伊勢神宮とは同体であると旧記に見えると主張。そのことから、この熊野・伊勢同体説をめぐって問題が生じ、刑部卿藤原範兼、大外記中原師光(もろみつ)、式部大輔藤原永範、文章博士藤原長光(ながみつ)、太政大臣の藤原伊通(これみち)らに次々に勘申が命じられ、これを纏めたのが『長寛勘文』として伝えられている書物。王権と神紙(じんぎ)との関係について議論がこのように行われたのも二条時代の特徴。

1月10日

・九条兼実(14)、正二位に昇任。

1月27日

・後白河院の第2回目の熊野詣。

21日より精進を始め27日発つ。2月9日本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智3山に3日ずつ籠り、その間、千手経を千巻(千回)転読。12日、新宮に参えい幣を奉る。夜更け、また社殿の前へ上り、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読んで奉る。暫くは人が居たが、片隅で眠るなどして人も見えない。経を巻き戻す役をする通家は居眠り。奉幣も終わり静まって夜半過ぎ、僅かの火の光に御神体の鏡が所々輝いて見え、しみじみ心が澄んで涙も止まらず。泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終え、明け方に礼殿に参りに来た。「今様が欲しいものだ。今ならきっと趣が出るよ」と資賢に勧めるが、畏まるだけなので、自ら歌う。繰り返し何度も歌うと、資賢・通家が和して歌い、いつもよりもすばらしく趣深い。覚讃法印が宮廻りを終えて、社殿前の松の木の下で通夜をしていた時、木の上で「心とけたる只今かなと」、神の歌う声がしたので、慌てて礼殿に報告しに来た。一心に心を澄ましていると、このような不思議なこともあるのだろうか。夜が開けるまで歌い明かした。

蓮華王院(三十三間堂)造営を決意

後白河が具体的に蓮華王院の造営を考えるようになったのは、この熊野詣の時。『梁塵秘抄口伝集』によれば、熊野三山に籠って千手観音経1000巻を読んだ折、熊野の御正体の鏡が輝いたので、次の今様を謡ったという。

万の仏の願よりも、千手の誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに、花咲き実なると説い給ふ、

こうした千手観音への強い信仰が蓮華王院の造営へと向かわせた。蓮華王とは千手観音の別称である。『今鏡』は「八巻の御法をうかばさせ給ひて、さまざま勤め行なはせ給ふなれば、昔の契りにおはしますなるべし。千体の千手観音の御堂たてさせ給ひて、天龍八部衆など、生きてはたらかすといふばかりこそ侍るなれ」と記している。『愚管抄』は、上皇が真言の師である三井寺の行慶に頼んで、気に入らない中尊の丈六(じようろく)観音の顔を直させたとも伝える。

備前国を知行する清盛による蓮華王院の造営

清盛の備前国知行を伝えるのが『愚管抄』の次の記述。

「後白河院ハ多年ノ宿願ニテ、千手観世音千体ノ御堂ヲツクラントオボシメシケルヲバ、清盛奉リテ備前国ニテ造リマイラセケレバ、長寛二年十二月十七日二供養アリケル、」







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