治承4(1180)
8月21日
・清盛、源通親らを伴い厳島と宇佐八幡参詣に赴く(宇佐八幡参詣は延期。10月初に参詣)。この頃、高倉上皇の病気は回復していない。福原の造都は軌道に乗り始める。
8月22日
・三浦義澄・和田義盛軍、三浦衣笠出発。
「三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
○義連(1125天治2~1203建仁3)
三浦義明の男。三浦十郎。
○義久(生没年未詳)。
三浦義明の男。大多和三郎。
○義成(生没年未詳)。大多和義久の男。大多和二(次)郎。
○義茂(生没年未詳)。杉本義宗の男。和田義盛の弟。和田次郎を称す。
○義実(生没年未詳)。杉本義宗の男。和田三郎を称す。
○重春(?~1180治承4)。多々良義春の男。頼朝挙兵に参じる。由比ケ浜の戦いで畠山重忠に討たれる。
○明宗(生没年未詳)。多々良義春の男。多々良四郎。
○義行(生没年未詳)。三浦義継の男。筑井次郎。
○和田義盛(1147久安三~1213建保元):
初代の鎌倉幕府侍所別当。和田義明の孫で義宗の子。頼朝挙兵に応じて軍功をたて、治承4年(1180)侍所別当に任じられる。源平合戦、奥州合戦にも武功をあげ、頼朝の信任を得る。頼朝没後も北条氏と連携して幕府政治に大きな影響力を保持し続けるが、北条義時が執権となると次第に対立を深める。義盛が上総国司に推挙されんことを将軍実朝に願い出た際に、北条政子は、「侍受領」は許可しないのが頼朝が定めた例としてこれを拒絶(「同」承元3年5月12日、23日条)。さらに北条氏排斥を企てた泉親衡の乱で甥の胤長が捕縛された際、義盛は一族98人を引き連れ赦免を願い出るが、義時はそれを拒否して義盛らの面前で胤長を縛り上げる(「同」建保元年3月9日条)。この義時の挑発に乗せられる形で和田氏は鎌倉で反北条氏の兵を挙げ、壮絶な市街戦の末に敗れ、義盛らは由比浜で戦死。
8月23日
・石橋山の合戦
源頼朝300、平家大庭景親3千余に石橋山の合戦で敗れる。三浦一族は遅参。
<平氏勢力>。相模地方は平氏の勢力が強い。大庭景親軍(長尾爲景・海老名季貞・曽我祐信・熊谷直実・渋谷重国・俣野景久・河村義秀・糟谷盛久・山内経俊・毛利景行・梶原景時・稲毛重成ら3千余)。伊東祐親、背後から300余。
<頼朝勢力>北条時政・安達盛長・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・佐奈田義忠(討死)・懐島景義・豊田景俊・中村景平ら300余。駿河水軍(国衙の水軍担当船所)、東湘三浦一族・西湘中村党(土肥・土屋・二宮)。
□「吾妻鏡」
「今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。・・・爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の五郎景久・河村の三郎義秀・渋谷庄司重国・糟屋権の守盛久・海老名の源三季員・曽我の太郎助信・瀧口の三郎経俊・毛利の太郎景行・長尾の新五為宗・同新六定景・原宗三郎景房・同四郎義行、並びに熊谷の次郎直實以下、平家被官の輩、三千余騎の精兵を率い、同じく石橋山の辺に在り。両陣の際一つの谷を隔つなり。景親が士卒の中、飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、景親が従軍道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。また伊東の二郎祐親法師三百余騎を率い、武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。
三浦の輩は、晩天に及ぶに依って、丸子河の辺に宿す。郎従等を遣わし景親が党類の家屋を焼失す。その烟半天に聳え、景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由を知りをはんぬ。相議して云く、今日すでに黄昏に臨むと雖も、合戦を遂ぐべし。明日を期せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて衰敗し難きかの由群議す。事訖わり、数千の強兵武衛の陣に襲攻す。而るに源家の従兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆旧好を重んずるに依って、ただ致死を乞う。然る間真田の余一義忠並びに武藤の三郎、及び郎従豊三家康等命を殞す。景親いよいよ勝ちに乗る。暁天に至り、武衛椙山の中に逃れしめ給う。時に疾風心を悩まし、暴雨身を労る。景親これを追い奉り、矢石を発つの処、家義景親が陣中に相交わりながら、武衛を遁し奉らんが為、我が衆六騎を引き分け景親に戦う。この隙を以て椙山に入らしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「癸卯。曇。夜になって降り注ぐように激しく雨が降った。今日の寅の刻に武衛が北条殿(時政)父子、(安達)盛長、(工藤)茂光、(土肥)実平以下の三百騎を率いて相模国石橋山に陣を構えられた。この間、かの令旨を(頼朝の)御旗の横上にお付けになられ、中四郎(中原)惟茂がそれを持っていた。(永江)頼隆が白い幣を上矢に付け、頼朝の後に控えていた。この頃、相模国の住人である大庭三郎景親、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司垂国、糟屋権守盛久、海老名源三季貞、曽我太郎助信、滝口三郎(山内首藤)経俊、毛利太郎景行、長尾新五為宗、同新六定景、原宗三郎厨房、同四郎義行、熊谷次郎直実をはじめ平家被官の者三千余騎が同じく石橋山の辺りに陣を構えていた。両陣の問は一つの谷で隔てられていた。景親の兵の中で飯田五郎家義は、志を頼朝に寄せていたので、馳せ参じようとしたが、景親の軍勢が道に列っていたため、心ならずも景親の陣にいた。また伊東祐親法師は三百余騎を率いて頼朝の陣の背後の山を宿とし、頼朝を襲おうとしていた。
三浦の者たちは、夜になったので丸子川の辺りを宿とし、郎従らを遣わして、景親の一党の家屋を焼失させた。その煙は空半分を覆うほど立ち上り、これを仰ぎ見た景親は三浦の者たちの仕業だと知るにいたった。そこで景親らは話し合い、「今日はすでに黄昏時になろうとしているが、合戦を行うべきである。明日になれば三浦の者共が(頼朝方に)加わり、おそらく破ることは難しいだろう。」と軍議した。そこで数千の強兵が頼朝の陣に襲いかかった。源家に従う兵の数は景親らの大軍とは比べものにならないほど少なかったが、みな、昔からのよしみを重んじて死を恐れなかった。そのため、佐那田余一義忠、武藤三郎、またその郎従である豊三家康らが命を落とした。景親はいよいよ勝ちに乗じた。明け方になって(頼朝は)杉山の中にお逃げになった。その時は疾風に心を悩ませ、暴雨に身を震わせた。景親が頼朝を追って矢を放ったところ、飯田家義は景親の軍に加わっていたのだが、頼朝を逃れさせるために自分の家来のうちの六人を景親の軍と戦わせ、その際に(頼朝は)杉山にお入りになったという。」
○景久。
大庭景忠の子で景親の弟。平家方として頼朝軍勢と戦う。石橋山の戦では、佐奈田与一と死闘。
○義秀。
河村秀高の男。頼朝挙兵時、大庭景親方として参戦し、相模国河村郷を没収され、大庭景能に預けられる。
○盛久。
糟谷光綱の男。糟谷権守を称す。平家方として頼朝軍勢と戦う。
○季貞。
海老名季兼の男。源八を称す。
○助信。
祐信。曽我太郎を称す。曽我十郎・五郎兄弟の継父。
○景行(?-1213建保元)。
毛利太郎を称す。相模国住人、頼朝挙兵時、平家方として参戦。
○為宗。
長尾景行の男。長尾新五郎。
○定景。
長尾景行の男。長尾新六。
○景房。
宗房とも。原宗三郎を称す。
○義行。
行能とも。原宗四郎と称す。
○家義。
飯田五郎を称す。現、横浜市戸塚区飯田郷の住人。石橋山の戦では大庭景親方に属するが、討たれそうになった頼朝を救う。
○熊谷直実(1141永治元~1208承元2)。
熊谷直貞の次男。通称次郎。父の時より武蔵国大里郡熊谷郷を名字の地とし、熊谷氏を称す。久下(クゲ)直光は姨母夫とされ、直実が直光の代官として京都大番役に勤仕中、傍輩等が直美に対し無礼をはたらいたことを理由に、平知盛に属し、石橋山合戦でも平家方につく。その後、源氏に仕えたびたび勲功をあげ、とくに佐竹秀義討伐では活躍。寿永元年(1182)勲功により、久下直光の押領が停止され、武蔵国旧領熊谷郷が直実に安堵される。寿永3年2月一ノ谷合戦の際、義経鵯越に従い、平山季重と先陣を争い、合戦で若年の平敦盛を討ったことが、後の出家の一因という(「平家物語」巻9)。文治3年(1187)、鶴岡放生会の流鏑馬の的立役を辞退したことで所領を減封される(「吾妻鏡」文治3年8月4日条)。建久3年(1192)熊谷郷と久下郷の境相論で、熊谷直実と久下直光が頼朝御前で対決。直実は、「武勇においては一人当千の名を馳すといえども、対決に至りては再往知十の才に足ら」ないことによって訴訟に敗北すると、証拠の調度文書等を御壷のうちへ投げ、自ら髻(モトドリ)を切り逐電(「吾妻鏡」建久3年11月25日条)。その後、上洛、法然に帰依。法名蓮生。法然と共に九条兼実を訪ねるが、自分は邸内に入れないことに怒り「極楽にはかかる差別はあるまじきものを」(「法然上人絵伝」巻27)と不満を述べたといわれる。建久6年(1195)頼朝に参上、「身今法体すといえども、心なお真俗を兼ぬ」と積年の思いを語り合い、頼朝が引き留めると、後日参上を約して退出したという(「吾妻鏡」建久6年8月10日条)。承元2年(1208)9月14日、東山の麓でかねての予告どおり、「端坐合掌し、高声念仏を唱え」ながら没(68)(「吾妻鏡」承元2年10月21日条)。なお、「法然上人絵伝」では武蔵国で果てたとある。
三浦・和田軍、丸子宿到着。丸子川(酒匂川)増水の為渡河不能。間に合わず、源頼朝軍敗北見届け撤退。(「源平盛衰記」21)
○伊東祐親(?~1182寿永元)。
伊東祐家の男。曽我兄弟の祖父。伊豆伊東周辺に勢力を持つ豪族、頼朝方の中村・三浦・北条氏と親戚関係を持つ。祐親は頼朝を自分の館に招き7年間面倒を見るが、大番役で不在の2年間に娘八重姫が頼朝の子を産み育てていたことに怒る。反頼朝方につき、後、捕虜となり娘婿三浦氏に預けられるが、赦免され自害。八重姫と頼朝を結びつけた祐親息子の祐清も、平家に味方し木曽義仲軍と戦い北陸で戦死。
つづく
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