文治4(1188)年
3月9日
・急逝した九条良通(兼実の子)の弟・良経の夢に、亡き良通が顕われ、六韻の詩を示した。夢中わずかにその一句を覚えて、兼実に語った。この頃、かつて以仁王の愛人で若宮と姫宮の母となった八条院三位局は、兼実の恋人となっていて、その間に良輔が生れていたが、19日、その三位も嵯峨で良通のために阿弥陀経を供養した。(『玉葉』)
3月10日
・重源、初めて頼朝に書状を寄せる。結縁の志のない衆庶をも奉加させる「御権威」として頼朝の勧進に期待する。
「東大寺重源上人の書状到着す。当寺修造の事、諸檀那の合力を恃まずんば曽て成り難し。尤も御奉加を仰ぐ所なり。早く諸国に勧進せしめ給うべし。衆庶縦え結縁の志無しと雖も、定めて奉加は御権威の重さに順わんか。且つはこの事奏聞先にをはんぬてえり。この事未だ仰せ下されず。所詮東国の分に於いては、地頭等に仰せ沙汰を致せしむべきの由仰せ遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
3月15日
・鶴岡大般若経供養に、供養人として足利義兼・山名義範が、随兵として里見義成・佐貫成綱の名が見える(「吾妻鏡」)。
「鶴岡宮の道場に於いて大法会を遂行す。景時宿願の大般若経供養なり。・・・先陣の随兵八人 小山兵衛の尉朝政 葛西の三郎清重 河内の五郎義長 里見の冠者義成 千葉の小次郎師胤 秩父の三郎重清 下河邊庄司行平 工藤左衛門の尉祐経 御後二十二人(各々布衣) 参河の守 信濃の守 越後の守 上総の介 駿河の守 伊豆の守 豊後の守 関瀬修理の亮 村上判官代 安房判官代 籐判官代 新田蔵人 大舎人の助 千葉の介 三浦の介 畠山の次郎 足立右馬の允 八田右衛門の尉 籐九郎 比企の四郎 梶原刑部の丞 同兵衛の尉 後陣の随兵八人 佐貫大夫廣綱 千葉大夫胤頼 新田の四郎忠常 大井の次郎實治 小山田の三郎重成 梶原源太左衛門の尉景季 三浦の十郎義連 同平六義村 路次の随兵三十人(各々郎等三人を相具す)・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
3月22日
・義経追討の院宣を持った勅使(官史生国光・院廰官景弘等)、平泉に下向。
4月9日鎌倉着。(「吾妻鏡」同日条)。
3月26日
・「諸国に四天王像を造立し奉るべきの由宣下せらる。東国分の事、今日施行せらる。大夫屬入道これを奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月9日
・義経追討を命じる宣旨と院庁下文を帯し、3月22日に奥州に向けて京都を発った、官史生(かんのししよう)国光と院庁官(いんのちようかん)景弘が鎌倉に到着、頼朝は宣旨と院庁下文を内覧した(『吾妻鏡』文治4年4月9日条)。両人が奥州に下向することは、一条能保から2月29日に鎌倉に知らされていた(『吾妻鏡』2月29日条)。
この使者の接待は、稲毛重成・畠山重忠・江戸重長らが命ぜられた。
「奥州に下向するの官史生国光・院の廰官景弘等、去る月二十二日出京す。これ泰衡に仰せ、豫州を搦め進すべきの由なり。彼の両人宣旨並びに廰の御下文等を帯し、今日すでに鎌倉に参着す。宿次の雑事等、官の宛文有り。仍つてその旨を守り、懈緩無きの儀沙汰を致すべきの由、重成・重忠・重長等に仰せらると。宣旨状等、二品内々これを覧玉う。」(『吾妻鏡』2月29日条)
宣旨は2月21日付で、事書(ことがき、文書の冒頭に「~の事」として記される、文書の内容の要点)は、
出羽守藤原保房、東海・東山両道の国司ならびに武勇の輩に仰せ、その身を追討せらるるを言上す、源義経および同意の者等当国に乱入し、毀破(きは)の旧符(きゆうふ)をもつて、偽りて当時の宣旨と号し、謀叛を致す事、
とある。出羽守藤原保房の要請に答えるかたちで、義経の追討を東海・東山両道の国司と武勇の輩に命じている。「毀被の旧符」とは、文治元年(1185)に義経・行家に与えられた頼朝追討宣旨のことであり、これによれば、義経はその宣旨をいまだ自分の行動の大義名分としていることになる。宣旨本文では、頼朝追討宣旨が無効であることを強調し、泰衡・基成に義経を差し出すことを命じている。
一方、院庁下文は2月26日付で、事書は、
院庁下す、陸奥・出羽両国司等、まさに宣旨の状に任せ、前民部少輔藤原基成ならびに秀衡法師男泰衡等をして、かつは義経の身を召し進め、かつは国司および庄役(牧ヵ)使等を受用すべき事、
とある。泰衡・基成主体に書かれているが、下文本文では宣旨の内容をなぞっている。
つまりは両状ともに、泰衡・基成に対して義経を差し出せと命じている。
4月12日
「院宣等到来す。・・・造東大寺材木引夫の事、・・・良弘の事、・・・諸国庄園の地頭等、国は宰吏に随わしめ、庄は領家に随うべきの由、或いは下文を成し進し、或いは下知を加うべきの旨、再三申せしめ給いをはんぬ。然れども所々より申し訴えしむる如きは、ただ地頭を補すと云うを以て、偏に庄家を押領する如し。貴賤上下徒に愁歎に疲れ、神社仏寺鎮に訴訟を抱く。兆民の歎き、猶天責を為さん。何ぞ況や仏神に於いてをや。神領は神事の違例を恐れ、定めて咎に成すこと出来せんか。寺領は仏事の陵遅を悲しみ、罪業を謝し難からんか。倩々天下の擾乱を思うに、豈地頭の濫妨に非ざるか。衆庶の愁いを散ぜられば、定めて落居の基たらんか。但し地頭の中、その性の好悪に依ってその勤めの軽重有りと。然れば能く子細を尋ね捜し、勤否に随い、勤め無き者を改易し、勤め有る輩を抽賞せば、偏に奸謀を恣にするも、盍ぞ勤節を表わさざらんや。一向領家を用いざるの輩に於いては、尤も罪科に処せらるべきなり。兼ねてまた去々年以後、庄々の年貢已下領家の得分等委しく尋ね進し、未だその済否に随わざれば、賞罰を加えらるべきか。逐年領家の返妙を召し取り、且つは進覧せしめ、且つは本家に付けしめ給うべきか。家人の不当たりと雖も、すでに一身の不当に如かず。積もる所尤もその恐事有らんか。去り難く思し食すの余り、此の如く仰せ遣わさるる所なり。就中、近曽天変地妖連々奏聞有り。これ則ち人の愁い重疊するが故か。妖は徳に勝らず、徳政に如くべからず。徳政と謂うは、人の愁いを散ずるを以て先と為すべきなり。この旨を存じ、殊に沙汰を致せしめ給わば、四海静謐し、万人仁に帰さんか。てえれば、院宣此の如し。仍って執達件の如し。 三月二十八日 太宰権の師籐経房(奉る) 謹上 源二位殿」(「吾妻鏡」同日条)。
4月13日
・院の御所六条殿(もと平業忠屋敷、法性殿焼失後、御所となる)、焼失。頼朝は造営請負いを申請し認められる。
4月22日
・「千載和歌集」、後白河に奏覧。
24日、選者(俊成)の歌が10首と少ないので追加を命じられ、25首を追加し5月22日に改めて奏覧。(「親宗卿記」)
「月二十二日。戊子。晴。巳ノ刻許リニ、入道殿院ニ参ゼシメ給フ。勅撰集総覧ノ為メナリ。日来自筆ニテ清書。白キ色紙、紫檀ノ軸(貝ノ鶴丸)、羅ノ表紙、紈ノ紐、外題、中務少輔伊経之ヲ書ク。筥ニ納ム。筥ノ蒔絵、自ラ御葦手ニ新歌アリ。未斜ニ出デシメ給フ。御前ニ於テ叡感アリト云々。自ラ読ミ申サシメ給フ。叉蒔絵ノ歌、神筆ノ本ヲ以テ留メオハシマスト云々」(『明月記』)
この「千載集」選集の4年間(1183~88)が、藤原定家が和歌に励み始めた時期に一致。定家の8首が入集される。
納められた女流歌人:式子内親王(後白河院皇女)、二条院讃岐(源三位頼政女・のち宜秋門院に仕う)、殷富門院大輔(藤原信成女・菅原在良外孫)、小侍従(石清水検校光清女)、宜秋門院丹後(源頼行女・二条院讃岐と従姉妹)、二条院三河(為業女・侍従公仲母)、皇嘉門院別当(崇徳院皇后聖子女房)、八条院六条(権中納言源師仲女・八条院女房)、皇后宮大進(皇太后宮若水)。
俊成が『千載和歌集』(1188)、定家が『新古今和歌集』(1205)、為家が『続御撰集』(1251)と三代にわたり勅撰集の撰者となる。更に、為家の長男為氏も『続拾遺和歌集』(1278)、その子為世は『新後撰和歌集』(1302)と、その後も続いて撰者となっている。
4月25日
・「今暁千手の前(年二十四)卒去す。その性太だ穏便、人々惜しむ所なり。前の故三位中将重衡参向するの時、不慮に相馴れ、彼の上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。憶念の積もる所、若くは発病の因たるかの由人これを疑うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿