文治6/建久元(1190)年
2月4日
・頼朝、諸国御家人に10月上洛予定である旨を通知し、随兵その他の準備をするよう指示。
「来十月御上洛有るべきに依って、随兵以下の事、諸国の御家人等に触れらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月11日
・足利義兼が辞任した上総介の後任として、平親長が任ぜられ、目代等国務を行う。
「上総の国は、関東御管領九箇国の内たり。源義兼を以て国司に補任せらるるの処、去年御辞退の間、正月二十六日、遠江の国と同日国司(平親長)に任ぜらる。仍って今日目代等国務すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月12日
・足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される。
「各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と。仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、多宇末井の梯有り。件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。」(「吾妻鏡」同日条)。
「大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと。」(「吾妻鏡」3月10日条)。
2月22日
・「造伊勢太神宮役夫工米の事、諸国の地頭等未済有るの旨、去年十二月師中納言の奉書到着するの間、日者沙汰を経られ、今日御請文を奉らると。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月26日
・西行(73)、河内の弘川寺にて没。辞世「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
藤原定家(29)、西行逝去を悲しみ良経・公衝と贈答歌一首
2月23日
・千葉胤正・葛西清重・堀親家ら、奥州平定の旨を鎌倉に発す。
3月2日
・「五位蔵人光綱を召し、前の大僧正公顕を以て、天台座主に補すべき事、御燈斎を過ぎ、明後日(四日)宣下すべし。予め上卿已下催し儲くべきの由仰すなり。」(「玉葉」同日条)。
「この僧正は二品御帰依の僧なり。八十一の老後この慶賀有りと。」(「吾妻鏡」同10日条)。
3月9日
・「法金剛院領怡土庄の事、地頭職を去り進せしめ給うべきの由、度々院宣を下されをはんぬ。而るに奥州征伐の後仰せに随うべきの趣、先日御請文を献らるるの間、義経・泰衡滅亡しをはんぬ。然れども猶能盛法師知行し難きかの由御沙汰有り。院宣を下され今日到来すと。 ・・・是非を云わず、地頭を止めしめ給わば宜しかるべき事か・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
3月15日
・「左近将監家景(伊澤と号す)、陸奥の国留守職たるべきの由を定めらる。彼の国に住し、民庶の愁訴を聞き申し達すべきの旨、仰せ付けらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
3月16日
・藤原定家(29)、石清水臨時祭舞人家隆と和歌を贈答。
3月20日
・大江広元、鎌倉に帰参。
「去年冬、御使として上洛するところなり。二品(にほん)申さしめ給う条々、ことごとくもって勅答あり。つぶさにその趣を言上(ごんじよう)す」(『吾妻鏡』)。
「頼朝の戦争」を朝廷に追認させるために働いた広元の功に報いるため、頼朝は新たな占領地の中から、出羽国置賜(おきたま)郡・成島(なるしま)荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を広元に与える。
つづく
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