芳艶(よしつや)『文治三年奥州高館合戦自衣川白竜昇天』
文治5(1189)年
閏4月1日
「右武衛の使者参着す。申さるる條々、去る月二十日大内修造の事始めなり。籐中納言兼光・左少弁棟範・大夫史廣房等これを奉行す。御管領の八箇国、その役に宛てしめ給うべきか。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
「武衛の御返事を献ぜらる。造内裏の事、早く沙汰を致すべし。」(「吾妻鏡」同4日条)。
閏4月8日
「晩頭五位蔵人家實天王寺より帰参す。余廉前に召し子細を問う。家實條々の事を仰す。奥州追討の事、仰せに云く、追討の事本より然るべきの由思し食すの上、此の如く申せしめ尤も神妙なり。早く宣旨を成し賜うべく思し食す。来六月塔供養の由聞こし食す。もし彼の間を過ぎ遣わすべきか。将に今明遣わすべきか。申せしむに随うべし。且つまた官使出立の間、自ずと日数を経るか。仍って且つは用意の為仰せ遣わす所なり。抑も伊勢遷宮、並びに造東大寺は、我が朝第一の大事なり。而るに征伐に赴くの間、諸国定めて静かならざるか。然れば彼の両事の妨げと成るべし。件の條殊に召し仰せ造宮造寺の害を致すべからず。公の為私の為、これを以て追討の祈祷に用ゆべきなりてえり。この趣を以て経房卿御教書を頼朝卿の許に書き遣わすべしてえり。・・・」(「玉葉」同日条)。
閏4月15日
・忠快(前権律師、伊豆国)、全真(前権少僧都、安芸国)、行命(法眼前熊野別当、常陸国)、能円(法眼前法勝寺執行)の4僧、および時実(前左近衛中将、周防国→上総国)、信基(前内蔵頭、備後国)、尹明(前兵部権少輔、出雲国)の3廷臣について召喚(流人召)の官符が下される。
〈能円のその後;能円、妻範子、源通親〉
能円と妻・範子との間に、承安元年(1171)に娘・在子が生れていた。治承4年(1180)7月、高倉天皇の第四皇子の尊成(たかひら)が生れると、範子は皇子の乳母に選ばれた。範子と妹の兼子は早くに父を喪い、叔父の範季を父代りとしていた。
寿永2年(1183)7月、能円法印は、妻子や皇子・尊成を都に残したまま平家一門に随いて西海へ走った。ところが翌8月、皇子・尊成は図らずも皇位を継承し、鳥羽天皇となった。やがて、平家は没落し能円は配流の身となった。
野心家の権中納言・源通親は、範子に言い寄り彼女を本妻に迎えた。範子は、文治3年(1187)に通親の三男・通光を産んでいるので、彼女が通親の妻になったのは文治元年後半か2年前半と臆測される。
更に、範子は、文治4年に定通、翌5年には通方を出産した。従って文治5年5月頃に能円が帰洛した時、彼は妻の範子が娘を連れて通親の許に走り、すでに通親の息子2人を産み、あまつさえ懐妊中であることを知ったことになる。
ただ僧籍に入った彼の息子たちは健在であったから、彼が路頭に迷うようなことはなかったと思われる。まして建久9年(1198)正月、皇太子・為仁親王が践祚すると(土御門天皇)、彼は事実上の外祖父であったから、然るべき待遇を受けたと思われる。しかし、その頃から彼は病床に臥し、正治元年(1199)8月、失意のうちに60年の生涯を閉じた。
一方、後鳥羽天皇の乳母を妻とした源通親は、その立場と政治的才腕とによってめざましい昇進を遂げる。通親は、建久4年に中納言、同6年(1195)に権大納言に昇任。彼は妻の連れ子の在子を自分の猶子として宮仕えに出した。宰相局と呼ばれていた在子が後鳥羽天皇の第一皇子・為仁を産むと、通親の地位も堅固なものとなった。
関白・兼実の娘の任子は中宮であったが、皇女1人しか産まず、兼実は、天皇の外祖父となる可能性を欠いていた。建久年間後半、幕府の勢威に退潮の萌しが見受けられ、急速に歩武を固めつつあった通親は、この動向に乗じて親幕派の関白・兼実を辞任に追い込んだ(建久7年11月)。そして正治元年(1199)6月、右大臣藤原頼実を太政大臣に祭り上げて内大臣の地位を開け、自らこれに任じ、後鳥羽上皇の随一の権臣として政治の実権を掌握した。
閏4月20日
・藤原国衡、出羽方面へ出張。藤原忠衡、胆沢へ狩に出る。
閏4月21日
・頼朝、母の追善供養(6月9日)が済めば奥州征伐開始すると奏上。
頼朝が再度、朝廷に泰衡追討の許可を求めたのに対し、朝廷は、攻めて泰衡に宣旨を遣わして返事を待つべきか、また頼朝が征討に出発するとすればいつのことかと鎌倉に問い合わせてきていた。
「泰衡義経を容隠する事、公家爭か宥めの御沙汰有るべきや。先々申請の旨に任せ、早く追討の宣旨を下さるれば、塔供養の後、宿意を遂げしむべきの由、重ねて御書を師中納言に遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
閏4月22日
・定家の姉八条院按察の夫藤原宗家(51)没
閏4月30日
・衣川の合戦(義経の最期)
藤原泰衡、大将長崎太郎・軍勢500で義経の居館高館を急襲。義経軍は、武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・片岡弘経・鷲尾経春・増尾兼房・杉目行信ら20数名。
義経(31)、持仏堂で北の方(22)と女児(4)刺殺後、火を放ち自害。泰衡は義経の首を新田高平という使者に持たせて鎌倉に送る。
藤原基成一族はその後も「衣河館」に居住しているので、大きな火災などは生じなかったように見える。奥州藤原氏の庇護を受けていた義経は、激しい抵抗をしなかったようだ。
「今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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