建久2(1191)年
・栄西、天台宗教学を学んだ後に入宋、臨済禅を学び、この年帰国。「興禅護国論」を著す。建仁2年(1202)建仁寺建立。
翌年香椎宮の側に建久報恩寺を建立、ついで聖福寺及び筥箱に興徳寺を建立。聖福寺は源頼朝や後鳥羽天皇の外護を寺伝にもつが、「興禅護国諭」にみられる宋人張安国などの人的関係や聖福寺の立地条件、出土遺物などからみて、実情は、大陸との貿易にかかわった有力武士・宋商らが同寺を支えたとみられる。博多海浜に禅と戒を基調とする宋風の伽藍が現出し、都市的景観に変化をもたらす端緒をつくる。
1月1日
・千葉常胤の沙汰する垸飯(おうばん、有力御家人による鎌倉殿への供応儀式)が威儀を刷新して行われる。頼朝の上洛と昇進によるものという。垸飯は5日間行われ、5日目に弓始(ゆみはじめ、的始ともいう)が行われた。
「千葉の介常胤垸飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。・・・御劔は千葉の介常胤、御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎大夫胤頼。」(「吾妻鏡」同日条)。
「御垸飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能員。」(「吾妻鏡」同2日条)。
「小山右衛門の尉朝政垸飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持す。」(「吾妻鏡」同3日条)。
「宇都宮左衛門の尉垸飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。一番 下河邊庄司行平 榛谷の四郎重朝 二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親」(「吾妻鏡」同5日条)。
垸飯は有力御家人が御所において将軍を饗応する行事。このうち正月三が日に行なうものを、特に正月垸飯(歳首垸飯)といい、有力御家人が日替わりでこれを担当し、将軍を饗応する。
正嘉2年(1258)正月1日の北条時頼による垸飯では、執権・連署が大庇(おおひさし)に座り、その他の184人の御家人は東西に分かれ庭に着座した。これは御家人の政治的順位を視覚的に示すものであった。
建久2年(1191)正月1日は下総の千葉一族による垸飯であった。将軍に献上する御剣を千葉介常胤、弓箭(きゆうぜん)を嫡男新介胤正、行膝(むかばき)を二郎師常、砂金を三郎胤盛、鷲羽を六郎大夫胤頼が進上し、馬四頭も一族が献上した。翌2日は三浦義澄、3日は下野の大名小山朝政が垸飯の沙汰人となった。しかし、時代と共に次第に千葉氏のような大名は外れていき、北条氏が独占していく傾向が見られ、幕府政治史にも直結する結果となっている。
このような将軍と御家人の共同飲食に使用されているモノとしては、養和元年(1183)正月1日には3尺(90cm)の鯉が掲げられている。
この垸飯行事に臨席できた御家人は、続く御行始に同行することができる。
御行始も、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行事であるが、鎌倉時代の後半には垸飯への返礼という形になる。ここでもまた引き出物が出され、主従での共同飲食が行われる。例えば、三代将軍実朝が誕生して初めて行われた建久3年(1192)11月5日の御行始では、引出物として、剣、砂金、鷲の羽、馬が進呈され、同行の随兵たちへも色革(なめし皮)各一枚の引き出物があった。延長5年(1153)正月三日、将軍宗尊親王の時頼亭への御成りに際しては、菓子・瓶子・鯉・色革・羽が用意されている。
こうした贈答慣行は将軍が外出している場合も同様で、その場合は「駄餉」と呼ばれる。その際沙汰人は外出地の領主が行うのが通例であった。これらの行事は主従関係を再確認するもので、共同で飲食を行うことにより補強されていたのである
1月11日
「前の右大将家鶴岡の若宮に御参り。」(「吾妻鏡」同日条) 。
1月12日
・賀茂重保(73)没
1月15日
・政所吉書始(きっしょはじめ)。
政所の家司(別当・令など)、問注所の執事(長官)、侍所の別当(長官)・所司(しょし、次官)、公事奉行人や京都守護、鎮西奉行人が改めて補任される。
この日、頼朝は新しい方針を御家人に示す。これ以前、御家人に対しての安堵、新恩の沙汰は頼朝の御判(奥上署判や袖判)を据えた文書で行ったが、このたびそれを召し返し、源家(源頼朝家)の政所下文で行うとした。
東国の武士が鎌倉殿(頼朝)と主従関係を結んだのは、ほとんどが挙兵後間もなくであり、実際には見参を行って口頭の安堵を受けた例もあれば、文書を下付することによる恩沢の例(本領安堵)もあった。後者の多くは頼朝の花押を据えた奥上署判の下文であった。寿永2年(1183)10月宣旨以降は、袖判下文に変更されるが、頼朝の花押は据えられていた。頼朝はこうした文書を返却させ、源家(源頼朝家)の出す政所下文に変更すると方針を示した。
頼朝は、これまでの鎌倉殿と御家人との御恩と奉公という直接の関係を重視した政策から、源家の家政機関(政所)を挟んだ間接的な関係にしようと方針を変えた。上洛して任官したことを画期に、鎌倉政権の組織を改編するとともに、主従制の根幹となる各家に代々伝えられる文書の企画化を目指したと考えらる。
しかし、御家人の抵抗もあってこの政策は進まなかった。御家人にとっては、頼朝の御判のある下文が重要だった。『吾妻鏡』建久3年6月3日条に「あるいは新恩を加えられ、あるいは以前の御下文を成し改めらる」とあり、徐々に進められたようだ。挙兵以来の功臣、千葉常胤や小山朝政も納得しない御家人であった。頼朝は彼らの要求に応じ、古い文書(安堵状)を提出する代わりに、政所下文だけではなく、袖判下文も与えるようにしたが、袖判下文は徐々になくなり、多くは政所下文が下されるようになった。
「政所 別当 前の因幡の守中原朝臣廣元 令 主計の允藤原朝臣行政 案主 藤井俊長(鎌田の新籐次) 知家事 中原光家(岩手の小中太) 問注所 執事 中宮大夫屬三善康信法師(法名善信) 侍所 別当 左衛門少尉平朝臣義盛(治承四年十一月この職を奉る) 所司 平景時(梶原の平三) 公事奉行人 前の掃部の頭藤原朝臣親能 筑後権の守同朝臣俊兼 前の隼人の佐三善朝臣康清 文章生同朝臣宣衡 民部の丞平朝臣盛時 左京の進中原朝臣仲業 前の豊前の介清原眞人實俊 京都守護 右兵衛の督(能保卿) 鎮西奉行人 内舎人藤原朝臣遠景(天野の籐内と号す。左兵衛の尉)」(「吾妻鏡」同日条)。
1月17日
「民部の丞盛時・武藤の次郎資頼等仰せを奉り、使者を伊勢・志摩両国に遣わす。また出納和泉の掾国守これを相副ゆと。これ平家没官地、未だ地頭を補せられざる所々相交るの由聞こし食し及ぶに依って、これを巡検せんが為なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月22日
・藤原俊経(78)没
1月23日
・頼朝の庶子(のちの貞暁)を生んだ大進の局、恩賞にあずかり、上洛させられ、近いからと伊勢の国に所領を与えられる。
「女房大進の局恩沢に浴す。これ伊達常陸入道念西の息女、幕下の御寵なり。若公を生み奉るの後縡露顕し、御台所殊に怨み思い給うの間、在京せしむべきの由内々仰せ含めらる。仍って近国の便宜に就いて、伊勢の国を宛らるるかと。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月28日
・頼朝、二所詣の精進の為に由比の浦に出御、足利義兼ら50人、従う(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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