2023年2月22日水曜日

〈藤原定家の時代279〉文治6/建久元(1190)年7月12日~9月27日 頼朝上洛の準備整う(宿所は旧頼盛邸跡) 鎌倉や京都で大雨洪水 「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) より続く

文治6/建久元(1190)年

7月12日

・昌寛(しょうかん)、頼朝上洛のための宿所新造の奉行として上洛。昌寛は、治承4年(1180)の挙兵以来頼朝に従い、京都への使者などを務めており、おそらく頼朝の推挙で京都六勝寺のひとつ成勝寺の執行(寺務責任者)になっていた。

後日、昌寛からの報告で、京都の宿所は平頼盛の旧跡(六波羅)に決まった。

「法橋昌寛使節として上洛す。これ来十月御上洛有るべきの間、六波羅に於いて、当時御亭を新造せらるべし。仍って奉行たるなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月15日

・頼朝、勝長寿院で万灯会を修し平氏の冥福を祈る。

「今日孟蘭盆の間、二品勝長寿院に参りたまひ、万燈会を勤修せらる。これ平氏滅亡の衆等の黄泉を照らさんがためなりと云々」(「吾妻鏡」同日条)

7月17日

・藤原実房が左大臣、藤原兼雅が右大臣、藤原兼房が内大臣となる。

7月17日

源(久我)通親、中納言に進む。翌日、兼左衛門督・検非違使別当(翌年2月1日、別当を辞任)に就任。

8月3日

・河内の地頭の横領、及び糠屋有季の狼藉の件で、足利義兼等その行方を探すことを下知される(「吾妻鏡」同日条)。

8月3日

・源雅頼(64)没

8月17日

「甚だ雨。夜の入り暴風人屋を穿(うが)ち、洪水河岸を頽(くず)す。相摸河の邊の民家一宇(いちう)河尻に流れ寄る。宅内の男女八人 皆以て存命す。各(おのおの)、棟の上に居たと云々。奇特な事也」(「吾妻鏡」同日条)。

「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと。」(「玉葉」同日条)。

8月19日

・板垣兼信(甲斐武田党武田信義の子)、所領没収、隠岐島配流。遠江質侶荘で不当を働いた為(「吾妻鏡」同日条)。

8月28日

「院の廰官康貞、内々宿意有るに依ってか。民部卿経房・右大弁宰相定長等の事を二品に訴え申すなり。戸部は希有の讒臣なり。諸人彼の為損亡すべし。右大弁はまた大蔵卿泰経朝臣に同意するの凶臣なり。三河の守範頼これを執り申す。二品更に承引し給わず。両人共良臣の聞こえ有るの上、関東の事連々伝奏するの間、未だその不可を知らず。努々この事口外に及ぶべからざるの由、参州に諾せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月14日

・藤原定家(29)と左大将良経、良経第にて「花月百首」披講。慈円がこれをきく。

「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫」は、『新古今集』に入集

9月15日

・頼朝上洛のため「御路次の間の事、諸事奉行人を定めらる」。先陣隨兵は和田義盛(小太郎)が奉行し、後陣隨兵奉行は梶原景時(平三)。御厩奉行は、千葉常胤四男「千葉四郎胤信」、八田知家(前右衛門尉)が任じられる。大江広元は、中原親能とともに「六波羅御亭(ぎよてい)事」ならびに「諸方贈物事」を担当する。

その他、「一、御物具の事 三浦の十郎義連 九郎籐次 一、御宿の事 葛西の三郎清重 一、御中持の事 堀の籐次親家 堀の籐次親家 梶原左衛門の尉景季 同平次景高 一、六波羅御亭の事、並びに諸方贈物の事 掃部の頭親能 因幡の前司廣元」(「吾妻鏡」同日条)。

9月16日

・畠山重忠(次郎)、頼朝上洛の供奉のために武蔵より鎌倉に到着。10月2日、上洛の先陣を申し付けられる。

9月16日

「この日伊勢太神宮、新造宮に遷御の日なり。」(「玉葉」同日条)。

9月20日

「・・・御上洛の事、内々思い企てると雖も、諸国洪水の折に依って、右大弁宰相の奉書有り。・・・洪水の事誠に驚き聞こし食す。一国もこの難を免がれざらんか。凡そ左右に能わず。但し上洛に於いては、更にこの事に依るべからず。今に上洛せざれば、朝暮待ち思し食すの処、今年また空しく止めをはんぬるは返す々々遺恨なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月21日

・大江広元、「(頼朝の)御入洛以前、京都において沙汰を致すべく」頼朝に先立って鎌倉を発ち京へ向かう(広元、四回目の上洛)

9月14日

・定家と左大将良経、良経第にて「花月百首」の中から十首ずつ撰んで歌合。.俊成が勝負を判じ、兼実は慈円とともに簾中でこれをきく。

9月27日

「院より定長の奉行として仰せ下されて云く、流人三人(兼信・重隆・重家)、未だ配所に赴かず。二位卿上洛以前に、慥に追い下すべきの由沙汰を致すべしてえり。官並びに使の廰に仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

「巳の刻、重ねて院宣到来す。流人の事、殊に沙汰を致すべし。件の流人配所に赴くの後、参洛すべきの由、頼朝卿申せしむと。・・・」(「玉葉」同28日条)。

つづく

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