2023年2月5日日曜日

〈藤原定家の時代262〉文治5(1189)年1月5日~2月30日 頼朝、源通親、正二位叙任 奥州合戦のため南九州にまで動員をかける 泰衝、末弟錦戸頼衝(親義経派)を討つ 

 


〈藤原定家の時代261〉文治4(1188)年10月12日~12月30日 再び義経追討を命じる宣旨と院庁下文が下される 後白河院(62)、新造六条殿に移徒 より続く

文治5(1189)年

1月5日

・頼朝、正二位。

1月7日

・源(久我)通親、正二位。

1月9日

「今日、若君の御方弓始めなり。射手十人、小御所の南面に於いてこの儀有りと。 一番 下河邊庄司行平 曽我の太郎祐信 二番 小山の七郎朝光 和田の三郎宗實 三番 藤澤の次郎清近 橘次公成 四番 三浦の十郎義連 海野の小太郎幸氏 五番 榛谷の四郎重朝 和田の小太郎義盛」(「吾妻鏡」同日条)。

1月13日

・義経の協力者の比叡山の僧・千光房七郎(帰京する意思を記した義経の消息を持つ)、北条時定に捕われる。

「兵衛の尉時定参上す。申して云く、手光の七郎を搦め取りをはんぬ。九郎京都に還るの消息等有り。即ちこれを持ち来たる。実に不可思議の事なり。」(「玉葉」同日条)。

1月19日

・源頼家の為の擬大臣の饗礼の儀式。後に出羽大泉荘地頭となる囚人武藤小次郎資頼が用いられる。

「平胡箙の差し様、丸緒の付け様分明ならざるの処、三浦の介の預かる囚人武藤の小次郎資頼(平氏家人、監物太郎頼方弟)、彼の箭の事故実を得るの由発言す。義澄次いでを求め御気色を伺いて曰く、内々これを召し仰すべしと雖も、若君の御吉事なり。囚人をして爭かこれに役せんやと。仰せに云く、早く厚免する所なり。これを沙汰せしむべしてえり。資頼愁眉を開き、これを調進すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月3日

「また頭の弁定長朝臣を召す。大内修造の国々、所詮関東に仰すべき事を仰す。」(「玉葉」同日条)。

2月9日

・頼朝下文。南九州の島津荘地頭惟宗忠久に対して下文を発給し、武装能力のある島津荘荘官を引き連れて7月10日以前に鎌倉に参着するよう命じる(島津家文書)。奥州での合戦であるにもかかわらず、九州南端の武士まで召集する全国的動員体制がとられている。

「下す 嶋津庄地頭忠久 早く庄官等を召し進らしむべき事 右件の庄官中、武器に足るの輩は、兵杖を帯び、来たる七月十日以前に、関東に参着すべきなり。且つは見参に入らんが為、各々忠節を存ずべきの状件の如し。 文治五年二月九日」(源頼朝下文(東京大学史料編纂所蔵))。

2月12日

「右武衛の使者参着す。源豫州に與するの族、猶所存有るかの由、内々これを申さるるに依ってなり。また大内修造の事、すでに御沙汰に及ぶ。治承の注文を以て関東に下さるべきの由その聞こえ有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月15日

・藤原泰衝、末弟錦戸頼衝(親義経派)を討つ。

2月17日

・頼朝(43)に内裏修造の院宣下る(「吾妻鏡」)。

2月22日

・頼朝、命に応じない藤原泰衡の追討とこれに同調する公卿・比叡山僧たちの解官・処罰を、法皇に奏請。

また、年初に後白河が幕府に諮った「御夢想に依りて平家縁坐の流人を召返される」ことに対し、勅定によって召返されたらよい旨を奉答。

「御使(雑色時澤)を京都に発せらる。伊豫の守逐電の後、御沙汰の次第頗る以て寛宥の間、人猶凶悪を事とすべし。尤も急速の御沙汰に及ぶべきの趣これを申さると。 一、奥州住人藤原泰衡、義顕を容隠せしむの上、謀叛に與同すること疑う所無きか。御免を蒙り誅罰を加えんと欲する事。 一、頼経卿は義顕に同意するの臣なり。解官追放せらるべきの由、先度言上しをはんぬ。而るに勅勘の号有りと雖も、今に在京す。欝訴相貽る事。 一、按察大納言(朝方卿)・左少将宗長・出雲侍従朝経・出雲目代兵衛の尉政綱・前の兵衛の尉為孝、この輩義顕に同意するの科に依って、見任を解却せらるべき事。 一、山僧等兵具を構え、義顕に同意する事、結構の至り、御誡め有るべきの由、先日言上するの間、その旨宣下をはんぬるの趣、勅答有りと雖も、なお弓箭・太刀・刀山上に繁昌するの由、風聞有る事。 一、上皇の御夢想に依って、平家縁坐の流人召し返さるべき事、僧並びに時實・信基等朝臣が如き、何事か有らんや。召し返さるる條勅定有るべき事。 一、崇敬の六條若宮は御所の近辺たり。祭祠等の事に就いて、定めて狼藉の事相交るか。殊に恐れ存ずる事。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月24日

平時忠(62)、能登の配所で没(「吾妻鏡」3月5日条)。

輪島市町野町の両時国家(上時国家・下時国家)、珠洲郡大谷町則貞の則貞家は、時忠が配流先で儲けた息子2人(時国、時康)の末裔と云われる。

2月25日

・頼朝、雑色里長を遣わし奥州を探る(「吾妻鏡」同日条)。

2月26日

・官吏守康、奥州から戻り、泰衡の請文「予州の在所露見す。早く召し進すべし」をもたらす。頼朝は一旦の嫌疑をそらす妄言として、朝廷に泰衡追討宣旨を出す様要求。

「去年奥州に下さるる所の官使守康すでに上洛す。今日鎌倉に逗留す。・・・守康の申す如きは、與州の在所露顕す。早く召し進すべきの由、泰衡請文に載せ言上すと。仰せに曰く、この事、泰衡の心中猶測り難し。固く義顕に同意するの間、先日勅定に背きこれを召し進せず。而るに今一旦の害を遁れんが為、その趣を載すと雖も、大略謀言か。殆ど信用に能わずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月28日

・藤原経宗(71)没

2月30日

「長門の国阿武郡は、没官領の内たるの間、勧賞として土肥の彌太郎遠平に賜うと雖も、御造作の杣取りの為地頭職を去り進すべきの由、勅定有るに依って、退出すべきの由仰せらるるの処、遠平代官今に居住するの由遠聞に及ぶの間、重ねて御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく



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