文治6/建久元(1190)年
11月8日
「早旦、伊賀の前司仲教六波羅に参る。御直衣を持参する所なり。これ日来整え置くと。御馬を給うと。左武衛(能保)参り給う。御参内以下の事御談合と。明日御院参有るべきの由、民部卿(経房)に触れ遣わさると。またその間辻々を警固すべきの旨、佐々木左衛門の尉定綱に仰せ下され、辻々を注し申す。義盛・景時目録を取り、御家人等に触れ仰すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「院より家實の奉行として、頼朝の賞の間の事を仰せらる。所存を申しをはんぬ。尤も大将に任ぜらるべきか。而るに忽ち沙汰無きか。右大臣避くべきの由を申すと。而るにまた思い返すか。」(「玉葉」同日条)。
11月9日
・頼朝、参院(六条殿)し後白河法皇と会見。後白河法皇は頼朝の勲功賞により権大納言に補任することとした。この権大納言補任は、予定されていたものである。ついで参内(閑院内裏)し後鳥羽天皇、摂政兼実に謁し六波羅に帰る。自らの地位を「百王」守護、「朝の大将軍」と語る(「玉葉」)。軍事権門としての幕府の性格規定。
1ヵ月余の在京中、頼朝は後白河と8回の会談を行っている。
後白河が、秘蔵の絵巻物を見せようとすると、頼朝は「君の御秘蔵さふらふ御物にいかでか頼朝が眼をあてさふらふべき」と丁重に謝絶(「古今著聞集」)。頼朝の政道への厳しさと後白河の稚気・破天荒の逸話。しかし、頼朝には後白河の王権と文化の危険な結合を理解できず。後白河の頼朝への復讐・軽蔑といえる。
兼実とは清涼殿の鬼間で対面。頼朝は、「自分は八幡(源氏の氏神)の託宣によって全面的に天皇に服従し、百王(ひゃくおう、百代の天皇)をお守りすることにしました。現在の天皇のことは並ぶ者がないほどに仰ぎ奉っています。しかし、現在は法皇が天下の政(まつりごと)を執っておられます。そこでまず萱に服従したのです」と語る。
兼実のことについて、「外から見れば疎遠のように見えるかもしれませんが、実際は疎略にしているわけではありません。深く思うことがあり、また、院を恐れたために疎略のように示していただけなのです」と語る。
これに続けて「現在の天皇は幼年でいらっしゃる。あなたにはこれからの人生がまだはるか残っています。頼朝にまた運があるならば、政治はどうしてもとのあるべき姿に戻らないことがあるでしょうか。現在はすべて法皇にお任せしているので、すべてが叶わないのです」と述べる。兼実も「はなはだ深甚(奥深い)なり」と記す。現在は後白河が政務を牛耳っており、どうにもならないが、後白河が亡くなれば、頼朝は兼実を支持して改革を進めるつもりがある、という。頼朝は兼実の今後に期待を持たせた。
「二品院内に参らしめ給う。御家人等辻々を警固すと。・・・申の刻六波羅より御出で。先ず仙洞(六條殿、追前せず)に御参り。直衣・網代車(大八葉文)。・・・六條殿に於いて、中門廊に昇り、公卿の座の端に候し給う。戸部兼ねて奥の座に候す。即ちこれを奏せらる(子息権の弁定経朝臣を以て伝奏す)。法皇(御浄衣を着す)常の御所に出御す。南面廣廂の縁に畳を敷く。戸部の引導に依ってその座に参り給う。勅語刻を移す。理世の御沙汰に及ぶか。他人この座に候せず。昏黒に臨み御退出。爰に暫く御祇候有るべし。仰せらるべき事有るの旨戸部示し申す。然れども後日参るべきの由を称し御退出をはんぬ。戸部この旨を奏すの処、大納言に任ずべきの由仰せ遣わすべし。定めて謙退せしむか。請文を待つべからず。今夜除書を行わるべきの旨勅定有り。また勅授の事、同じく宣下せらるべしと。次いで御参内(閑院)。弓場殿方より鬼の間の辺に候し給う。頭中宮亮宗頼朝臣事の由を奏す。主上(御引直衣)昼の御座に出御(摂政殿御座の北に候し給う)す。召しに依って簀子(圓座を敷く)に御参り。小時入御す。次いで鬼の間に於いて殿下御対面。子の一刻六波羅に帰らしめ給う。
次いで戸部院宣を下されて云く、 勲功の賞に依って、権大納言に任ぜらるる所なり。・・・この状六波羅に到着す。御請文を進せらる。・・・権大納言を拝任する事、恐れ悦び申し候。但し関東に候すの時、任官の事仰せ下され候と雖も、存旨候て辞退申し候いをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
「この夜小除目を行われ、頼朝大納言に任ぜらるるなり。辞すと雖も推してこれに任ずと。九日、頼朝卿に謁す。示す所の事等、八幡の御託宣に依って、一向君に帰し奉る事、百王を守るべしと。これ帝王を指すなり。・・・義朝の逆罪、これ王命を恐れるに依ってなり。逆に依ってその身を亡ぼすと雖も、彼の忠また空しからず。仍って頼朝すでに朝の大将軍たるなりと。」(「玉葉」同日条)。
「天下遂に直立すべし。当今(後鳥羽天皇)幼年にましまし、尊下(兼実)また余算なほ遥かなり。頼朝また運あらば、政何ぞ淳素(簡素)にかへらざらん哉。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うふべからず」(「玉葉」同日条)。
「淳素」でない政治状況を云い法皇の政治の弊害を匂わせ、天皇も若く当面は法皇にに一任せざるを得ないと語り、没後の政治刷新を匂わせる。
「その後、院の内へ参りなんどして、院には左右なき者になりにけり。先ず権大納言に任ず。参議中納言をもへず直に大納言に任ずるなり。さて内裏にまいりありて、殿下と世の政の作べきやうはなどふかく申承けり。」(「愚管抄」)。
11月11日
・頼朝、河内源氏の崇拝する六条若宮、ついで石清水八幡宮に参詣、一泊して翌日六波羅に帰る。北条義時(28)、頼朝に供奉して六条若宮・石清水八幡宮に社参。
11月13日
・頼朝の院と内裏に献上品。「砂金 八百両 鷲羽 二櫃 御馬 百疋」。
11月15日
・頼朝、諸社に馬を進上。
11月16日
・頼朝、後白河の寵姫丹後局(たんごのつぼね、高階栄子へ土産。桑糸2百・紺絹百・蒔鶴の唐櫃2合
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿