文治5(1189)年
3月
・藤原定家(28)、慈円「早率露胆百首」に和して「重奉和早率百首」を詠む
3月9日
・藤原奏衡、義経追捕の請文を鎌倉に送り、この日、鎌倉から京都に届く。天王寺にいた後白河に奏上したところ、天皇に知らせて後、早く義経を差し出すように、重ねて宣旨を出すように、兼実に申し付けたという(『吾妻鏡』3月20日条)
3月10日
・「片岡の次郎常春奇謀の聞こえ有るに依って、領所等(下総の国三崎庄・舟木・横根)を召し放たると雖も、元の如く返し付けらるるの処、沙汰人等、日者の融を以て忽緒せしむの由訴え申すの間、停止すべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
3月12日
・藤原頼経を伊豆に配流、その子宗長を解官。
4月13日、藤原朝方・同朝経ら解官。
3月13日
・「・・・去る十一日の院宣の御請文を整えらる。・・・ 一、大内殿舎の門・廻廊、及び築垣の事 ・・・閑院の御修理と云い、六條殿の経営と云い、連々勤仕にては候へども、その事を勤めて候へばとて、この事をば更に辞退の思い無く候。朝家の御大事と云い、御所中の雑事と云い、何箇度候と雖も、頼朝こそ勤仕すべき事にて候へば、愚力の及び候程は奔走せしむべく候。但し諸国日を遂って、庄園は増加仕り候。国領は減少し候へば、受領の力も皆察せられ候。定めて計略無く候か。尤も以て不便に思い給い候。然れども頼朝知行の国々は、縦え然る如き仰せにても、全く善悪を顧みるべからず候。方々の公事、堪に随い相営み候なり。 一、熊野御領播磨の国浦上庄の事 ・・・彼の御庄一所は、枉げて地頭職を停止せしむべきの由、修理権大夫の奉書、同じく拝見し給い候いをはんぬ。御評定の趣左右に及ぶべからず候。早く景時の地頭職を停止せしむべきの由、直に庄家に仰せ下さるべく候なり。・・・それも先ず以て直に仰せ下され、次いで下知を加えしめ候き。また鎮西三猪庄の地頭義盛を停止せしめ候ひし次第も此の如く候き。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
3月20日
・「亥の刻、右武衛の使者参着し、消息(去る十三日の状)を献らる。去る九日、奥州の基成朝臣並びに泰衡等の請文到来す。義顕を尋ね進すべきの由これを載す。而るに法皇この間御仏事の為天王寺に御坐す(去る月二十二日御幸)。件の請文叡覧に備うの後、早く召し進すべきの由、重ねて仰せらるべきの旨、彼の寺より態と以て殿下に申さる。・・・師中納言定めて具にこれを申せらるるか。てえれば、彼の卿の奉書に云く、 去る月二十二日の御消息、今日到来す。條々申せしめ給うの趣、委しく聞こし召しをはんぬ。・・・奥州貢金の事、明年の御元服料と云い、院中の御用と云い、旁々所用等有り。而るに泰衡空しく以て懈怠す。尤も奇怪の事なり。早く催促せしめ給うべし。且つはまた国司に仰せられをはんぬ。・・・三月十日 太宰権の師籐」(「吾妻鏡」同日条)。
3月21日
・高野山隠遁中に石清水別当に補任された成清、高野山蓮華谷に私財を投じ再建した随心院を寄進、高野山を出て石清水に帰る。
3月22日
・頼朝、泰衝の請文は不信とし、僧昌寛(成勝寺執行法橋)を京に遣わし、泰衝追討の宣旨を請う(「吾妻鏡」同日条)。
4月3日
・兼実の娘任子の入内が裁可される。
「今日戌の刻、天王寺より定能卿院宣を伝う。余が女子入内の事聞こし食しをはんぬ。また宸筆の勅報有り。その趣惟同じ。歓喜の思い、千廻万廻なり。」(「玉葉」同日条)。
4月4日
・「夜に入り天王寺より帰り来たる。頼朝卿申す、朝方卿行家に同意するの間の事、仰せ下さるる所なり。」(「玉葉」同日条)。
「卯の刻、定長朝臣来たり。頼朝卿重ねて朝方卿の事を申す。件の消息去る夜半師卿の許より遣わす所なり。只今天王寺に参り、先ず内覧する所なりと。」(「玉葉」同6日条)。
「定長朝臣帰参す。朝方卿の事、所職を解かるべし、また国を停らるべしと。」(「玉葉」同9日条)。
4月18日
・北条時政3男北条時連(ときつら、15、義時(27)の弟、のちの北条時房)の元服式。新田義兼、千葉常胤(嫡孫・成胤とともに)列席。
儀式は御所内の西侍において、武蔵守大内義信、駿河守源広綱、遠江守安田義定、三河守源範頼、新田義兼、千葉介常胤、三浦介義澄、畠山重忠ら、源家一族のみならず幕府草創期の重鎮が参列し、頼朝までもが着座して挙行されたのである。その様子は、建久5年(1194)2月、幕府西侍において行われた泰時の元服に匹敵する。・・・・・
こうした時房に対する盛大な元服の儀式は、かれが北条氏の後継者としての披露であったことを暗示させる。
「武州・駿河の守廣綱・遠江の守義定・参河の守範頼・江間殿・新田蔵人義兼・千葉の介常胤・三浦の介義澄・同十郎義連・畠山の次郎重忠・小山田の三郎重成・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元・工藤庄司景光・梶原平三景時・和田の太郎義盛・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・宇佐美の三郎祐茂等着座す(東上)。二品出御す。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月19日
・さきに頼朝が提出した6ヵ条の要請に対する回答を知らせる吉田経房の書状が、鎌倉に届く。しかし、奥州征伐に関しては、兼実以下の諸卿と協議のうえ、いずれ勅答があるだろうという曖味なものであった(『吾妻鏡』4月19日条)
「梶原平三景時の在京の郎従飛脚として到着す。師中納言(経房卿)去る八日の消息を持参す。その趣、頼経卿父子・朝方卿父子の事、申請せしめ給うの旨に任せ沙汰し切られをはんぬ。且つは彼の政綱、義顕に通すの状、早く進覧すべし。次いで山上兵具の事、禁制すべきの旨座主に仰せらるる事またをはんぬ。奥州の事、摂政以下諸卿に仰せ合わされ、追って勅答有るべきの旨院宣を蒙るてえり。また昌寛注し申して云く、去る月十九日、按察大納言並びに侍従朝経籠居す。同十三日、彼の父子及び左兵衛の尉政綱等見任を解却せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月22日
・頼朝が提出した6ヵ条の要請に対する、後白河からの正式な回答が届いたが、奥州征伐のことはやんわりと拒否された(『吾妻鏡』4月22日条)。
朝廷が奥州征伐を拒否した理由は、後白河の意見として、頼朝の言い分ももっともで、早く奥州追討の宣旨を出すべきであるが、頼朝にも6月の鶴岡八幡宮での塔供養という大切な行事が控え、一方、朝廷では伊勢神宮の遷宮と東大寺再建という国家第一の大事業も控えている。征伐に赴けばそうした事業の妨げになる。だから、今は控えるべきだというものであった(『玉葉』閏4月8日条)。
4月22日
・「奥州追討の事、法皇天王寺に御坐すと雖も、蔵人大輔定経の奉行として、去る九日、禁裏に於いてその沙汰有り。仍って師中納言その仰せの詞を得て、御教書を書き下さるる所なり。 奥州追討の事、朝の大事たるの間、且つは人々に仰せ合わされ、且つはその間御祈りの事なんど沙汰の間、今に遅々す。左右無く官符を遣わさるべきの由、仰せ遣わさんと欲するの処、遮って言上尤も神妙なり。泰衡の申状前後相違し、返す々々奇怪なり。官使出立の間、左右無く下されず。且つまた発向、一定何比ぞや。宣旨を成し儲け、重ねて申状を待たるべきか。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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