文治4(1188)年
10月12日
・再び義経追討を命じる宣旨と院庁下文が下された。宣旨は10月12日付で、25日、その案文が鎌倉に到着。院庁下文は、12月11日、使者となった官史生守康が奥州に向かう途中、鎌倉に立ち寄り、披露された(『吾妻鏡』10月25日、12月11日条)。
10月17日
・頼朝、比叡山の俊章(義経を奥州へ送ったという)を逮捕するよう御家人に命じる。
「叡岳の悪僧中に俊章と云う者有り。年来豫州に與し断金の契約を成す。仍って今度牢籠の間、数月これを穏容せしむ。また奥州に至り赴くの時は、伴党等を相卒い長途を送る。帰洛の後、謀叛を企てるの由その聞こえ有り。仍って内々彼の左右を窺い、その身を召し進すべきの旨、在京の御家人等に仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月6日
「式部大夫親能の飛脚京都より参着す。去る月二十五日、東大寺郭内に於いて寺僧と武家使と闘乱し、相互に傷死す。疵を被る者数十人なり。今日二十九日、在京の士卒を以て南都に発向しめんと欲するの処、朝の大事たり、禁制を加うべきの旨、右武衛並びに親能に仰せらるるの間暫く留むと。則ち仰せに応じ、武士の発向を留めをはんぬの由、師殿に申し上げる所なりと。これ高太入道を殺害する事に依って、尋ね沙汰すべきの由、二品下知し給うの間、親能使者を南都に遣わし尋ねんと欲するの処、その成敗を相待たず、忽ちこの狼藉出来すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月11日
・10月の宣旨に院庁下文を副えた朝廷の使者、鎌倉に到着、鎌倉より陸奥に赴く。
「院の廰下す 陸奥出羽両国司等 く両度の宣旨状に任せ、前の民部少輔藤原基成並びに秀衡法師子息泰衡等をして、不日に源義経の身を召し進せしむべき事 右件の義経、彼の基成・泰衡等召し進せしむべきの由、去る春忝なくも宣旨並びに院宣を下さるるの処、泰衡等勅命を叙用せず、詔使に驚くこと無く、猥りに違越の奸謀を廻らし、ただ披陳を詐偽に致す。就中、義経等猶群凶の余燼を結び、慥に陸奥の辺境に住すと。露顕の趣風聞すでにす。基成・泰衡等、身は王民として、地は帝土に居す。何ぞ強いて鳳詔に背き、愚かに蜂賊に與すべきや。結構若くは実たらば、縡すでに篇籍に絶えんか。同意の科、責めて余り有り。慥に両度の宣旨に任せ、宜しく彼の義経の身を召し進せしむべし。もし猶容穏し符旨に遵わずんば、早く官軍を遣わし征伐すべきの状、仰せの所件の如し。両国司等宜しく承知すべし。違失すること勿れ。故に下す。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月12日
・「因幡の前司廣元の使者京都より到来す。申して云く、今月三日、熊野参詣進発する所なり。而るにその精進中、御感の仰せを蒙ると。閑院並びに六條殿修造以下、事に於いて勤節し、殊に神妙なりと。凡そ歓喜の涙抑え難し。この仰せ、偏に陰徳の致す所かと。次いで廣元知行周防の国嶋末庄の事、女房三條の局折紙を捧げ所望するの間、師中納言の奉行として知行の由緒を尋ねらるるの間、子細を注し状を進しをはんぬ。定めて直に仰せ下さるるか。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
12月13日
・慈円「早卒露胆(そうそつろたん)百首」成立
これに対して、翌年春、定家は奉和(ほうわ)無動寺法印早卒露胆百首及び重奉奉和(かさねてほうわ)早卒百首の二大作を物してこれに応じる。
12月16日
・頼朝、義経に同意する俊章の引き渡しを比叡山に求める(「吾妻鏡」同日条)。
12月19日
・後白河院(62)、新造六条殿に移徒。
12月22日
・藤原秀衡の母、泰衡に殺害される。
12月30日
「親能申し送りて云く、六條殿造営の間、所課屋の事、丁寧の勤めを致すの由、殊に御感の仰せを蒙る所なり。公私の眉目たるかの旨、二品太だ喜悦せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
0 件のコメント:
コメントを投稿