・頼朝、岩井郡の厨河(くりやがわ)辺(盛岡市)に着。
「・・・祖父祖父将軍(頼義)朝敵を追討するの比、十二箇年の間所々に合戦す。勝負を決せず年を送るの処、遂に件の厨河の柵に於いて貞任等の首を獲る。曩時の佳例に依って、当所に到り、泰衡を討ちその頸を獲るべきの由、内々思案せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月3日
・泰衡(35)、敗走の途中比内郡贄柵(にえのさく、大館市)の郎従河田次郎を頼るが、河田は頼朝に寝返り泰衡を殺害。6日、陣岡の頼朝に届けられる。
9月4日
・頼朝の軍勢、志和郡陣岡(じんがおか、斯波郡陣ヶ岡)・蜂神社で、北陸道の部隊と合流。ここでしばらく滞在。(「吾妻鏡」同日条)
陣岡は、前九年の役の際、先祖源頼義・義家父子が陣を敷き、安倍貞任を梟首したところと伝える。
9月6日
・河田次郎、泰衡の首を志波郡陣ヶ岡蜂杜にいた頼朝に届ける。泰衡の首は安倍貞任の例にならい、前九年の役での梟首の儀式を再現する。頼朝は河田次郎を主人殺しの罪人として処刑・晒首。(「吾妻鏡」同日条)
9月7日
・平泉の武将由利八郎捕われ、頼朝が訊問。
宇佐美実政が泰衡の郎従由利八郎を生捕って陣岡に連行したが、これは天野則景ではないかとの異論があり、まず実政か則景かを調べなければならなくなった。頼朝はまず主計允(かずえのじよう)行政に命じて、2人の馬と鎧の毛色などの特徴を記録させ、ついで梶原景時に命じて、生捕ったのはどちらかを由利八郎に尋ねさせた。しかし、景時の無礼な作法に怒った由利は、景時の尋問には何も答えようとしなかった。
頼朝は、由利に道理があると判断し、次に畠山重忠に尋ねさせるよう命じる。重忠は、礼儀正しく穏やかに、質問した。由利は、黒糸おどしの鎧を着、鹿毛(かげ)の馬に乗ったものが、まずわたしを引落しました。その後つづけて来た者は、どっときたのでいろ目がわかりません、と答えた。
重忠は頼朝にこのことを申し述べた。これに該当するのは実政で、不審も晴れた。
ついで頼朝は、察するにこの男はなかなか勇敢な士である。訊いてみたいことがあるから、連れてくるよう命じた。
頼朝は由利を垂幕を掲げてじかに面接し、おまえの主人泰衡は、奥羽両国に威勢を振るっていたので、征伐するのは難儀なことだろうと思っていたが、泰衡は、立派な郎従がいなかったせいか、河田次郎一人のために殺されてしまった。2国を管領・支配し17万騎の主でありながら、20日で一族が亡びたのは、不甲斐ないではないか、と言う。
由利は、それじゃ伺いますが、故義朝公は海道15ヵ国を管領しておられが、平治の乱の時、ただ1日の戦でもって没落され、数万騎の主でありながら長田庄司に簡単に殺されたではありませんか、古(いにしえ)と今と、甲乙はつけられますまい、泰衡の管領したのはわずかに2国の武士です。これでともかく数10日間抵抗したのですから、そう簡単に不覚とはきめつけられませんでしょう、と言う。
頼朝は二の句がつげず、幕を降ろし、由利の身は重忠に預け、芳情を施し、親切に扱えと命じた。
「宇佐美の平次實政泰衡郎従由利の八郎を生虜り、相具して陣岡に参上す。而るに天野右馬の允則景生虜るの由これを相論す。二品・・・実否を囚人に尋ね問うべきの旨、景時に仰せらる。・・・汝と吾とは対揚の処、何れに勝劣有らんや。運尽きて囚人と為るは、勇士の常なり。鎌倉殿の家人を以て奇怪を見るの條、甚だ謂われ無し。故に問う事、更に返答に能わずと。・・・仰せに云く、景時無礼を現すに依って、囚人これを咎むるか。尤も道理なり。早く重忠これを召し問うべしてえり。仍って重忠手づから敷皮を取り、由利の前に持ち来たりこれに坐せしむ。礼を正して誘いて云く、弓馬に携わる者、怨敵として囚わるは、漢家・本朝の通規なり。必ずしもこれを恥辱と称すべからず。就中、故左典厩永暦に横死有り。二品また囚人として六波羅に向かわしめ給う。結句豆州に配流す。然れども佳運遂に空しからず。天下を拉り給う。・・・由利云く、客は畠山殿か。殊に礼法を存じ、以前の男の奇怪に似ず。尤もこれを申すべし。・・・件の甲馬は實政のなり。すでに御不審を開きをはんぬ。次いで仰せに云く、この男の申状を以て心中を察するに、勇敢の者なり。尋ねらるべき事有り。御前に召し進すべしてえり。重忠またこれを相具し参上す。御幕を上げられこれを覧る。
仰せに云く、己が主人泰衡は、威勢を両国に振るうの間刑を加うの條、難儀の由思し食すの処、尋常の郎従無きかの故、河田の次郎一人の為誅せられをはんぬ。凡そ両国を管領し、十七万騎の貫首たりながら、百日相支えず、二十箇日の内、一族皆滅亡す。言うに足らざる事なり。由利申して云く、尋常の郎従少々相従うと雖も、壮士は所々の要害に分け遣わす。老軍は行歩進退ならざるに依って不意に自殺す。予が如き不肖の族は、また生虜りに為るの間、最後に相伴わざるものなり。抑も故左馬の頭殿は、海道十五箇国を管領せしめ給うと雖も、平治逆乱の時、一日を支え給わずして零落す。数万騎の主たりと雖も、長田庄司の為輙く誅せられ給う。古と今と甲乙如何。泰衡の管領せらるる所は、僅かに両州の勇士なり。数十箇日の間賢慮の一篇を悩まし奉る。不覚に処せしめ給うべからざるかと。二品重ねて仰せ無く幕を垂れらる。由利は、重忠に召し預けられ、芳情を施すべきの由仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月8日
・頼朝、京都の吉田(藤原)経房へ書状。鎌倉出立以降の経過を述べ、泰衡の首級不進上の理由を、「さしたる貴人にあらず、かつは相伝の家人なり」(「吾妻鏡」同日条)とする。勅許なき戦いを「家人成敗権」の論理で正当化。奥州侵攻を「私戦」として敢行してきた覚悟を示す。
9月9日
・頼朝、高水寺(紫波町)に安堵状を与える。比企朝宗に平泉寺塔を保護させる。
この日、陣岡の頼朝のもとに泰衝追討の宣旨(7月19日付)がようやく届く。頼朝が諦めていた奥州侵攻を「公戦」とすることができる。
10日、中尊寺心蓮らの陳情で、寺領を安堵。(「吾妻鏡」同日条)
「今日、二品猶蜂社に逗留す。而るにその近辺に寺有り、名高水寺と曰う。これ称徳天皇の勅願として、諸国に一丈の観自在菩薩像を安置せらるるの随一なり。彼の寺の住侶禅修房以下十六人、この御旅店に参訴する事有り。その故は、御埜宿の間、御家人等の僮僕多く以て当寺に乱入し、金堂の壁板十三枚を放ち取りをはんぬ。冥慮尤も測り難し。早く糺明せらるべしてえり。二品殊に驚歎し給い、則ち相尋ねるべきの旨景時に召し仰す。景時尋ね糺すの処、宇佐美の平次が僕従の所為なり。仍ってこれを召し進し、衆徒の前に於いて刑法を加う。彼の欝陶を散ぜしむべきの由重ねて仰せらるるの間、件の犯人の左右の手を切らしめ、板面に於いて釘を以てその手を打ち付けしめをはんぬ。二品寺中興隆の事に就いて所望有るや否やの由仰せらる。僧侶申して云く、愁訴忽ち以て裁断を蒙る。この上は所望無しと称し寺に帰りをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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