歌川貞秀 作「建久元年源頼朝卿上京行粧之圖」
文治6/建久元(1190)年
10月2日
・頼朝、出発前日まで発表にならなかった先陣を畠山重忠に命じる。頼朝が正二位の公卿としての都入りで、その先陣をつとめることは名誉なことであった。
10月3日
・頼朝、上洛のため鎌倉をたつ。八田知家の進言で、後陣は千葉常胤となる。
3日「相模の国懐嶋(ふところじま、茅ヶ崎)の宿」
4日「酒匂の宿」
9日「駿河の国蒲原の駅」
12日「岡部の宿」
13日「遠江の国菊河の宿」
18日「橋本の駅に於いて遊女等群参す。繁多の贈物有りと。」
25日「尾張の国・・・、当国野間庄に到り、故左典厩(父義朝)の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。」
27日「熱田社に奉幣せしめ給う。」
28日「晩に及び美濃の国墨俣に着御す。」
29日「青波賀の駅」
11月5、6日「野路の宿」、
10月15日
・藤原定家(29)、東大寺棟上御幸に参仕する兼実に供奉して、まず宇治御所に参る(「玉葉」)。
10月18日
・藤原定家(29)、宇治にて慈円と十首歌を贈答。良経も唱和。
10月19日
・東大寺大仏殿再建の上棟式。後白河法皇が臨幸。
11月7日
・頼朝、挙兵後はじめて京の地を踏み、六波羅の新邸(故平頼盛邸を新築、後の六波羅探題)に入る。ことさら弓矢を帯びず甲冑も着けないで、天下の平定を誇示するように白昼堂々と騎馬で京へ入る。「天下落居」が公武共通の認識になったことを象徴する一大セレモニーである。
源邦業(くになり)・中原親能・宇都宮朝綱・小山朝光・大江広元らが出迎える。
この日午前中は雨、昼過ぎから晴れ、風が吹いた。後白河はひそかに牛車にのって行列を見物。公卿たちも多勢見物に出た。『愚管抄』には、「ヨノ人ソウニタチテマチ思ヒケリ」とある。
午後4時頃、先陣が京都に到着、三条通を西に進み、鴨河原を南に行って、六波羅に入る。行列は、まず貢納する黄金をいれた唐櫃一箱、ついで先陣畠山重忠が黒糸おどしの鎧を着、家の子1人、郎等10人を従えて進む。つぎに先陣随兵が、三列縦隊で60番180騎が進み、つぎに頼朝の乗替の馬を引馬で1疋、次に小具足持1騎、次に弓袋差1騎、次に鎧1騎、そのあとに、下着は紅色の衣、上に綿の紺青で裏は丹色の水干袴(すいかんばかま)をき、折烏帽子(おりえぼし)をつけ、夏毛(なつげ)のむかばきをはき、染羽の野矢を負い、黒馬に赤皮の楚鞦(すわえしりがい)をかけ、水豹毛(すいひようげ)の泥障(あおり)をつけて乗った頼朝が進んだ。ついで水干姿の供奉人八田知家以下5番10人、後陣随兵3列縦隊46番、最後に後陣の勘解由判官、郎従数10騎を率いた梶原景時、子息・親類等を随兵とした千葉常胤が進んだ。
「二品御入洛。法皇密々御車を以て御覧す。見物の車轂を輾り河原に立つ。申の刻、先陣花洛に入る。三條末を西行、河原を南行、六波羅に到らしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
「この日、源二位頼朝卿入洛す。申の刻、六波羅の新造の亭に着すと。騎馬弓箭を帯し、甲冑を着けずと。院已下洛中の諸人見物すと。余これを見ず。日昼、騎馬の入洛存旨有りと。」(「玉葉」同日条)。
「よの人そうにたちてまち思けり。六波羅平相国が跡に二町をこめて造作しまうけて京へいりける。きのふとて有ける。雨ふりて勢多の辺にとどまりて、思さまに雨やみて七日入けるやうは、三騎々々ならべて武士うたせて、我より先にたしかに七百余騎ありけり。後に三百余騎はうちこみて有けり。こむあをにのうら水干に夏毛のむかばきまことにとを白くて黒き馬にぞのりたりける。」(「愚管抄」)。
北条義時(28)、頼朝の上洛に先陣の随兵を勤む。
供奉人として先陣の15番に佐野国綱、21番に佐貫六郎、27番に山名重国、新田義兼、得川義季、30番に山名義範、31番に源範頼、大内維義、里見義成、32番に佐貫五郎(兼綱か)、53番に小野寺通綱、(藤姓)足利七郎四郎廣綱、足利七郎五郎信綱、54番に佐貫四郎廣綱、足利七郎太郎基綱の名が見える。安達盛長、後陣38番。
つづく
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