2024年5月28日火曜日

大杉栄とその時代年表(144) 1895(明治28)年4月8日~10日 ロシアなどの対日干渉の予兆 漱石、松山に赴任 子規、宇品出航 

 

新潮社日本文学アルバム 夏目漱石

大杉栄とその時代年表(143) 1895(明治28)年4月1日~7日 星亨、朝鮮政府の日本人顧問官となる 与謝野鉄幹(22)、「乙未義塾」日本語教師となる 第4回内国勧業博覧会、黒田清輝「朝妝」が騒がれる 樋口一葉「軒もる月」 漱石、松山に向かう 子規に出動命令 子規の従兄弟古白がピストル自殺 より続く

1895(明治28)年

4月8日

下関講和会議。伊藤、李経方(鴻章負傷で7日付で全権昇進)と非公式に会見。日本の「武員」は休戦を中止し北京侵攻を求めているとして、早急の妥協を勧告。事実、直隷作戦準備は進行中。

4月8日

ロシア外相ロバノフ、列国に対し、日本の旅順取得中止を主張する旨通牒。ドイツ・フランスはロバノフ通牒に賛成。17日、対日共同干渉決定

4月8日

英、「タイムズ」、日本の講和条件は英の利益に脅威ない、かえって増進するだろうと述べる。この日、イギリス政府閣議はロシア外相ロバノフの提議を退ける。日本はロシアの南下の防壁の位置づけ。

4月9日

近衛・第4両師団、宇品発。~13日。18日迄には大連湾に集結。講和交渉が進む中、直隷平野決戦の兵力大輸送。

4月9日

漱石、愛媛県尋常中学校(松山中学校)嘱託教員に任命され英語科教師として赴任。

俸給(月額80円)は、前任者の米人教師カメロン・ジョンソンの給与枠をそのままひきついで、校長よりも20円高いという破格の待遇。生徒に 真鍋嘉一郎 松根豊次郎(東洋城)ら。

この日、漱石は、午後、三津浜港着。伊予軽便鉄道で外側(とがわ、松山市)停車場着。明治25年夏に帰省する子規とともに松山を訪ねたとき泊った旅館城戸屋に投宿。城戸屋は漱石を下宿者用の「竹の間」に入れたが、翌日の新聞で、漱石が「学士」で「月給八十円」であると知ると、新館一番の部屋へ移した。

4月10日

下関講和会議。伊藤、9日に提出された中国側修正対案をみて、譲歩案を提出。遼東半島割譲地域の縮小、戦費賠償減じる(3億両5年賦→2億両7年賦)、北京など開市削除、保障占領地から奉天を除き威海衛のみとする。決裂させない、陸軍に直隷作戦を実行させない、列強の干渉を排除する、などを考慮。天皇も伊藤に同意

4月10日

漱石、愛媛県尋常中学校に初出勤。漱石は、顔の疱瘡の痕から「鬼瓦」という仇名をつけられた。


「四月十日(水)、愛媛県尋常中学校嘱託教員任命の辞令発令される。新学年の授業が始る。嘱託教員なので、学級の担任や宿直などの雑務はない。教室でも職員室でも、俳句集を手離さぬ。(真鍋嘉一郎)同僚の教師たちと親しく話すことはなく、超然としている。(渡部政和)横地石太郎に、「学校にどんな本があるのですか」と聞き、書庫へ案内され、藩校時代の『陶淵明集』(二冊)を借り出す。(横地石太郎)(教壇での服装については、洋服という説と和服という説がある。四年生と五年生は、Washington Irving (アーヴィシグ、1783-1859)の The Sketch Book (1819-20)を教える。(真鍋嘉一郎「漱石先生の思ひ出」日本医事新報 昭和十五年六月十五日)同級生の村井宰は、Milton(ミルトン)の伝記を習ったという。また、Longman Readers を教えたとも伝えられる。Dixon (ディクソン)の Composition を読むように繰り返しいう。) 真鍋嘉一郎.松根豊次郎(東洋城)・桜井忠温・片上伸・今井嘉幸ら在学している。桜井忠温は、時々遊びに来る。(伊藤整)生徒数四百四十一人。」(荒正人、前掲書)

■漱石が松山行きを決意した原因


「少し前の漱石研究では、赴任するに至った裏には子規の斡旋が預って力あるもの - 例えば鶴本丑之介「俳人漱石と松山」など - とあり、その動機は、松山には同臭の旧友子規・虚子等がいたことが、大に与って力があったと思われる、と松山中学で漱石の同僚、校長だった横地石太郎「坊ちゃん時代の漱石」で述べている。漱石の弟子森田草平も、子規との交遊、一八九二(明治二五)年七月に松山に帰省中の子規を訪ねていることなどが、松山中学に赴任するような気持になったのも、こんな処に胚胎しているらしい(『夏目漱石』)と述べている。

妻鏡子は、女性の問題で悩んだ結果、持ち前の偏屈さと、一生つきまとった神経病または精神病から起こった突発的な出来ごとだ(『漱石の思い出』)という。

伊藤整は、漱石は前年春に血痰を見て、結核で死んだ兄の運命と同様になるのではないか、と怖れたこととか、講師の高等師範学校が教師をうるさく束縛するので、とかいろいろな学的精神的な悩みなどが原因で、「言わば東京から何もかも棄てる気で逃亡」したのだ(『夏目漱石』)と。

今西順吉も似たような、次のような見方をされている。とくに、松山赴任前年前後の漱石は、寄宿舎で大塚(小屋)保治と一緒だったり、狩野亨吉、菅虎雄が引きとったり、再就職の相談に乗ったりで、大変な迷惑と心配をかけていた時期である。この三人が当時の漱石について固く口を閉ざしているのは、とうてい世間の理解を得られそうもない問題が、漱石の一身上に起こっていたからであろう(『漱石文学の思想』一部)。


「誰が漱石を松山中学に紹介したのか、については、漱石の学生時代からの親友菅虎雄が、「”坊っちゃん”由来を語る」の中で、愛媛県書記官の浅田とかいう人が来て、松山中学に英語の先生が欲しいという。漱石に話をすると行ってもよい、と言う。そこで坊っちゃん先生が赴任した訳です。と語っていることから、漱石を松山中学へ紹介したのは菅虎雄である。菅(一八六四-一九四三)は、ドイツ語学者、五高、一高、三高の教授を歴任したが、五高、一高では漱石の同僚でもあった。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

「極めて曖昧で、直矩は失恋説を取る。小宮豊隆はそれを否定している。漱石は自分は何もかも棄てる気将で松山に行ったのだと語っている。直矩は法蔵院に毎日のように通い、松山に行くことを止めたが、聞き入れられない。(赤木桁平)嘉納治五郎や直矩、伝通院の和尚(直矩からも依頼)なども引き留める。前述の失恋説は、鏡も漱石と結婚した後に、断片的に聞いたらしい。それを漱石の追跡症と結びつけて解釈したもので、俄かに信用し難い。」(荒正人、前掲書)


「学校を出てから伊予の松山の中学の教師に暫くいつた、あの『坊ちやん』にあるぞなもしの訛を使ふ中学の生徒はこゝの連中だ、僕は『坊ちやん』見たよなことはやりはしなかつたよ、しかしあの中にかいた温泉なんかはあつたし、赤手拭をさげてあるいたことも事実だ、もう一つ困るのは松山中学にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と寸分も違はぬのがゐるといふので漱石はあの男のことをかいたんだといはれてるのだ、決してそんなつもりぢやないのだから閉口した。」(談話「僕の昔」)


しかし漱石は、自身の教師としての適性に疑いを抱いていた。


「余は教育者に適さず、教育家の資格を有せざればなり、其不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、是現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非教育家でも御茶を濁して教授し得ると云う、悲しむべき事実を示すものなり」(「愚見数則」)

4月10日

子規(29)、宇品出港,近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で森鴎外を訪問。この従軍は子規の病状を一層悪化させることになる。

子規のこのときの高ぶる心魂と出港のさいの光景(最初の従軍記事「羽林一枝」(「日本」4月25日))


「此大戦争の結果は巳に今日に於て我日本帝国の上に幾多の光栄を添へ幾多の名声を博し今迄は白雲漠々の間に埋没せられたりと思惟せし欧米人が思はぬ空に冨獄の高きを仰ぐに至りたり。此名誉を購ひ得たる者は何ぞ神州武士の紅血と帝国臣民の赤心とに外ならず。而して吾人身を筆硯に委する者特に社会の耳目となり国民元気の幾分を鼓舞せずして可ならんや。(中略)大盤鯨鯢(げいげい)の如く動き初めて徐ろに万檣林裡(ばんしやうりんり)を出づ。暮色蒼然芸備の山脈烟靄の間に没し去れば唯我船の波浪を破る音のみ微かに聞えたり。壮快言ふべからず。」

この日は朝から晴れ上がり、桜の花が満開だった。手品に向かう途中、桜の美しきに心惹かれながら、子規は、「陣中日記」に「道すがらの桜花桃花紅白に乱れて風流ならぬ旅路さすがに心残るふしなきにもあらねど一たび思ひ定めたる身のたとひ銃把る武士ならぬとも再び故国の春に逢はん事の覚束なければ」として、


行かば我れ筆の花散る処まで

出陣や桜見ながら宇品まで


と、二句詠んでいる。

子規の乗った輸送船海城丸は、800トンの小さな船だが、それでも子規の目には山のように映ったらしく、「やごとなき貴人の御召船と聞えければ船体山の如く客室など夥しう列りたるさま更に海の上に浮びたるものとは見えず」(「陣中日記」)と記している。

ここに「やごとなき貴人」とあるのは、北白川官能久親王のことで、親王は近衛師団長として出征するものの、下関条約の締結を受け、台湾が日本に割譲されることに台湾現地民が反対し、抗日運動に立ち上がったのを受けて、その鎮圧のため台湾を転戦、途中マラリア熱にかかり、行軍中に死去してしまう。

期待を大きく膨らませて船に乗り込んだ子規だったが、その期待はすぐに裏切られ、子規は、日本の軍隊の酷薄な実体に直面する。従軍記者用として案内された船室のあまりの狭さと汚さに驚き、辟易させられた。


「我等は舳の方甲板の下に棚を釣りたる処に導かれたり。辛じて棚の上に坐を定む。坐狭く兵士と共もに並べり。頭は頭に接し肘は肘に触れ立てば首を俛し寝ぬれば脚を屈む。五尺の身を二尺四方に縮めて手荷物の陰に息を殺せども猶恐ろしき事ども多かり。我室の向ひには鉄網を張りて中に牛肉野菜など総て食料を貯ふ。其傍に階子(ママ、梯子)あり之を下れば馬厩にして輸卒馬卒等は馬と共に起臥せりとぞ。」


子規は、翌明治29(1896)年1月13日から「日本」に連載した「従軍紀事」の中で、従軍中の待遇について実例を挙げて記している。

子規の怒りは次の四つに向けられている

① 「小石の如き飯はあり余れども三椀と喰ふに堪へず。菜は味噌、梅干、佃煮の如き者一種にてそれさへ十人の食に足らず」と食事のあまりに粗末なこと。

② 睡眠用に作られたスペースがあまりに狭く、窮屈で寝られないこと。

③ 従軍記者に指示を与える曹長の言葉が「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱る」ように粗暴で、態度が横柄なこと。

④ 神官と僧侶には優遇的待遇を与えるなど、従軍記者を意図的に差別していること。


食事は、「飯は砂のやうな堅い飯で、菜は梅干か高野豆腐かの類にきまって居る」 (「我が病」)と、あまりにひどくてまずい。くわえて、茶わんや箸は洗わないので、飯粒がこびりついていたりして不潔極まりない。新聞記者も当番制で一般兵卒に交じって食料を受け取りに行かなければならない。その際の混雑と、われ先にとひしめき合うほかの班の兵には足蹴にされ、食券を配る曹長や炊事担当の兵卒からは、罵言雑言を浴びせられ……。


4月10日

スウェーデン探検家スェン・ヘディン、タクマラカン探検のためメルキット出発。5月6日、遭難。従者3人など失い助かる。


つづく

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