*
*
1895(明治28)年
6月5日
西園寺文相、外相臨時代理を兼任。
外相臨時代理を兼任後も西園寺は陸奥外相と連絡を密にし、陸奥の助言を尊重した。この月27日付けの手紙では、前日に長く話をして療養を妨げた詫びを述べ、例によって心の覆いを開かれたことが少なからずあり、陸奥との一晩の談話は「百日の読書」に勝る、と感謝を述べる。陸奥は、今は朝鮮への方針を大きく変えるべき時ではないが、ロシアの意見を打診するくらいはしても良いと考える。西園寺や山県も同じ意見で、伊藤も賛成。
6月5日
一葉日記より
午後、孤蝶来訪。2日夜、秋骨と禿木を誘って来訪したが留守だったこと、その日の眉山が来訪していたことでいささか不興気。あまり語ることなく帰る。
6月6日
一葉日記より
朝、禿木来訪。大橋ときが和歌の手直しを乞うために来る。午後、野々宮菊子と安井哲子、また木村きん子という高等師範学校に一緒に勤めている人が、和歌や文章をまなびたいとのことで来る。ほか、西村礼助、久保木秀太郎、稲葉鉱など、来客合わせて10人ほど。
6月7日
日本軍、台北占領。台湾民主国、事実上崩壊。17日、総督府始政式。台北。
民衆の抵抗本格的に始まる。大本営は、平壌戦から海城攻略戦に投入した兵力を上回る部隊を台湾に投入。ゲリラ戦のため、樺山総督は「沿道住民の良否判断せざるにつき、残酷ながら」徹底掃蕩を命令、「家を焼夷すること数千に及」ぶ(「台湾征討図絵」)。
"〈台湾を巡るこれまでの動き(まとめ)〉
日本軍の澎湖島上陸
この年(明治28年(1895年))3月23日(下関講和会議開始から3日後)、台湾島西方約50kmの澎湖島に、日本陸軍が上陸を開始。
大本営は、1月から澎湖島への軍隊派遣を準備していた。
2月1日、混成枝隊(支隊)を編制。3月8日、混成枝隊の主力部隊が宇品港出発、翌日、下関で残りの部隊と合流し、佐世保港で海軍連合艦隊司令長官の伊東祐亨海軍中将の指揮下に入り、艦隊と共に台湾方面に向かう。
3月20日、澎湖島沖に到達、上陸地点を島の東南部に決定し、23日、連合艦隊の沿岸砲台への攻撃と、陸軍部隊の上陸作戦を開始。
上陸跡は、澎湖島の中心地、馬公方面に向かう。清国の守備隊はこれを迎撃し、激しい戦闘となる。24日、艦隊による援護砲撃を受けなが馬公攻撃を開始し、深夜には清国軍が降伏し、馬公は陥落する。
馬公での戦闘中、日本軍兵士の間にコレラ罹患者が続出。治療にあたる人員や薬品が不足する中、1日で死に至る例も少なくなかったという。澎湖島占領後もコレラの勢いは止むことがなく、4月半ばになってようやく勢力が衰えてきた。この時点で、罹患者総数は約1,700名、うち死亡者数は約1,000名とされている。その後も日本軍は、マラリア、赤痢、脚気などの病気に苦しみ、結果的に、日清戦争開戦以来のる戦死者(将兵のみで約1,400名)の数倍に及ぶ戦病死者(将兵のみで約11,900名)を出すこととなる。
"
"台湾の人々の動きと「台湾民主国」
この頃の台湾は、清国の領地(福建省の管轄下)とされており、福建省や広東省など大陸側から移ってきた多くの漢人住民と、台湾先住民とが生活していた。19世紀半ば以降、アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856年~1860年)の際にイギリスやフランスの要求によって台南が開港されるなど、欧米諸国の影響が台湾に及ぶようになったことから、清国政府は1885年に新たに台湾省を設置し、漢人の巡撫(省の行政長官)により台湾を統治する制度を整えていた。
日清戦争で清国軍が劣勢になってくると、清国政府は、日本が講和条件として台湾割譲を要求してくる可能性が高いと考えるようになる。この要求を受け入れるべきか否かについて政府内でも意見が分かれている中、こうした状況を知った台湾巡撫の唐景崧は、日本から割譲の要求があったとしてもこれを拒否するように政府に申し入れた。しかし、4月17日、清国政府は台湾と澎湖島の日本への割譲が盛り込まれた日清講和条約を日本政府との間で調印(台湾を日本の領地とすることを正式に認める)。
台湾では、清国政府から派遣されていた漢人官僚や、この地に定着していた漢人民間有力者たちによって、台湾割譲に強く反対する動きが起こり、5月23日、台湾を「台湾民主国」という国家として独立させることを宣言する。5月25日、唐景崧が総統に就任、元号「永清」や国旗のほか、国家機構や制度も整えられてゆく。軍隊は、漢人官僚や将軍の指揮下にあった旧清国軍部隊から成っていたが、やがては、漢人の住民たちによって組織された義勇兵が、日本軍との戦闘の中心となっていく。
欧米諸国は、日本への台湾割譲について干渉することも、台湾民主国独立を承認することもなく、台湾民主国は、国際社会からの支援がないまま日本軍と戦うことになる。"
"台湾での戦闘のはじまり
日本は、台湾割譲を受けるにあたって台湾統治のための新たな機構を整備し、5月10日、台湾における日本の統治機構の長である台湾総督に、樺山資紀海軍大将(この時中将から昇進)を任命、台湾総督の下に台湾総督府が設置されることになる。
5月24日、宇品港を出航した樺山総督と台湾総督府の構成員は、沖縄で近衛師団と合流すると、5月29日には台湾島東北部の三貂角へ上陸。
6月2日、講和会議の清国側代表の一員(欽差全権大臣)李経方が、清国政府の全権委員として基隆の沖に到着し、同日、樺山総督と船上で会見、日本への台湾の引き渡し手続きが行われた。
その後、6月5日、日本軍は基隆を占領、6月6日、台北に入城。6月17日、台湾総督府が台北城内で「始政式」を執り行い、台湾が日本の領土となったことを宣言する。"
"〈その後の台湾;台湾民主国の戦いと崩壊〉
台湾民主国軍は、日本軍に対し三貂角や基隆で攻撃を繰り返すが、日本軍を阻止できず、台湾北部で軍を指揮していた唐景崧総統をはじめ一部の指導者たちは、6月6日に相次いで台湾を脱出して清国本土へ向かう。これによって、台湾民主国軍の統制は崩れ、日本軍の台北入城は戦闘なくして行われることとなる。
これ以降は、住民たちによる義勇兵と日本軍との間で戦闘が行われるようになってゆく。また、清仏戦争(1884年~85年)などでの働きにより人々から強い支持を受け、それまで台湾民主国軍の大将軍であった劉永福が、唐総統に代わって台湾民主国とその軍の指導的立場にな、台湾南部西岸の台南を拠点とし、各地の戦闘を指揮する。
戦線の南下
樺山資紀台湾総督は、台北を占領し、制度的には台湾総督府による統治を開始したものの、台湾の人々の反発が未だ大きいため、本国に部隊の増派を求め、台湾民主国の拠点となっていた台南のある南部に向かって攻撃を進めてゆく。
台北の西南、台湾北部西岸に位置する新竹では、中部を守っていた旧清国軍部隊のほか、多くの義勇兵たちが集結しており、6月20日には進軍してきた日本軍部隊との間で戦闘が起きる。
6月22日、日本軍が新竹に入るが、これを義勇兵部隊が包囲し、しばらくは台北から新竹にかけての一帯で激しい戦闘が続く。しかし7月25日、日本軍が新竹一帯を占領する。
その後も日本軍は南下を続け、台湾中部西岸の都市で台湾民主国の中部における軍事拠点の1つであった彰化も、8月29日、日本軍に占領される。しかし、日本軍は相次ぐ戦闘で消耗が大きく、この彰化の戦闘後、休養と兵力補充のために進軍を一旦停止させることになる。
"
"台南の陥落と台湾民主国の崩壊
退却した台湾民主国の諸部隊は、さらに南の内陸部、彰化と台南のほぼ中間に位置する嘉義を次の拠点とし、周辺各地の義勇兵とも連携しながら、彰化に留まる日本軍への攻撃を繰り返す。
9月16日、樺山資紀台湾総督が南進軍の編制を指示。これまで戦闘を続けてきた近衛師団に、基隆方面にあった混成第4旅団、遼東半島にあった第2師団を加えて編制を終えた南進軍は、10月に入ると各部隊が陸海からそれぞれ台南方面に向けて進軍を再開。
10月9日、嘉義を拠点としていた台湾民主国の部隊に対し、彰化から陸路を南下してきた日本軍の近衛師団が攻撃を開始、この日のうちに嘉義は陥落。
翌10月10日から11日にかけて、日本軍の混成第4旅団が布袋嘴と呼ばれる台南の北西(澎湖島の対岸辺り)に位置する港へ、第2師団が台南の南東方向に位置する枋寮の西方の海岸への上陸を、それぞれ開始する。
台湾民主国の部隊は、上陸した日本軍を攻撃するもののやがて撤退し、日本軍2部隊は上陸を終える。嘉義から南下するた近衛師団と共に、日本軍は3方向から台南に向かう。
日本軍による攻撃を前に、これまで台南に留まり、台湾民主国及びその軍の指導的立場にあった劉永福将軍は、10月19日夜、この地を脱出、翌日には清国本土の厦門へと渡る。
10月21日、日本軍の第2師団の一部が、戦闘を行わずして台南に入城。翌10月22日、南進軍の司令部も台南に入り、この地は日本軍の占領下におかれる。残存する旧清国軍部隊は投降し、本土へと送還される。こうして拠点であった台南が陥落し、指導者も失った台湾民主国は、事実上崩壊する。
そして、11月18日、樺山台湾総督は、台湾平定を宣言する。"
7 "一葉日記より
午後、西村釧之助来訪。孤蝶、禿木、眉山来訪。紅葉『をとこ心』と『心の闇』、『珍本全集』などを貰う。日没少し前に帰宅。"
8 ・ヨハネスバーグとブレトリアから東海岸デラゴア湾マブート迄デラゴア湾鉄道開通。トランスヴァール共和国、海へ出られるようになる。
9 ・国木田独歩(24)、日清戦争従軍記者として佐々城本支・豊寿夫妻の晩餐会に招待され夫妻の娘信子を知る。
9 "一葉日記より
萩の舎例会。午前中に石黒虎子の稽古と野々宮菊子の古今集の講義を終わらせて午後から行く。三宅龍子参加。田中みの子は頭痛激しく途中退席。日の高いうちに帰る。夜、孤蝶来訪。"
10 "一葉日記より
「小説著作に従事す。全編十五回七十五枚斗のものつくらんとす。いまだ筆おもふまゝに動かでいたづらに母君の叱責をのみうけぬ」。
この作品は「にごりえ」に相当すると考えられ、2日の「自伝をものし給ふぺし」との眉山の言葉が、「にごりえ」執筆に働きかけたと推測できる。
来月12日に父則義の七回忌が迫り、博文館の大橋乙羽に渡し30円ほどを得るための分量。但し、このときは成稿せず。
母たきからの叱責を受けるのみである。午後、西村釧之助来訪。"
0 件のコメント:
コメントを投稿