1895(明治28)年
4月14日
一葉、昨日の大橋乙羽からの手紙に返事を出す。略歴に関し〈特になにも書くべきことがなく、ただ、生まれと私立小学校に少し通ったこと、中島歌子に師事したことだけで、あとはよろしいように〉と述べる。
4月14日
「韓山近事(四月六日発)」(『日本』4月14日)
署名者「長白坊」は,東学の「乱後」,地方の「惨状は更に乱時より甚きもの」があり、それは「政治の腐敗」だとする。
昨年来東徒の反乱により兵火打続き近日漸く鎮定に帰したりと雖ども乱後の惨状は更に乱時より甚きものあり。其は何といふに政治の腐敗是れなり。
「右二道(引用者注:全羅道・忠清道) の地は到処家は焚れ人は殺され甚しきは□□全く尽き煙火数条数里人絶ゆるの所さへありて目も当てられぬ有様」であり,それは「政治の腐敗」,とりわけ「地方官吏の暴汚」によるものだと,問題を東学殲滅作戦の外に置く。東学農民運動の参加者だとして殲滅作戦の過程で捕えられた人々も,朝鮮の地方官吏が恣意的に処分しているとして,朝鮮の政治体制や官吏の問題にすり替え,日本の立場を善良化させていく。そこで想起されたのは日本の西南戦争だった。記事はこう記す。
宜しく我西南の役後に於ける如く巨魁を除く外一切之を宥赦すること肝要なり。
実に鮮やかに,朝鮮民衆の怒りを朝鮮政府の地方官吏へと振り向けていくかを記した報道である。
東匪の巨魁全捧準の審判は既に略結了し今は他の大院君と関係如何に就き取調中なれば不日罪案の宣告あるべし。従来の例典より言へば彼等は則ち所謂謀反人にして大逆不軌の罪人なれども此度よりは大に其例を改め全く彼等を待つに文明流の国事犯を以てし之を判決する由にて彼が一命も為めに全かるべしとの説真なるが如し。左れば末派一味の輩を大赦するは当然の事といふべし。(『日本』4 月14日)
『日本』同日付の「全捧準(ママ)の罪案」は記者「長白坊」によるもので,全琫準の処分について死一等を減じるのではないかという観測を書き続ける。「長白坊」記者は,『日本』4月21日付にも,「其刑の適用は国事犯と見做して死一等を許すなるべしとの事」と書いている。改革派のナショナリストである東学のリーダー像が反映している。
4月16日
この日の子規『陣中日記』(『日本』5月9日)
「軍に従ふて未だ戦を見ず空しく昨日の戦況を聞く。雄心勃々禁ずる能はず却つて今後の事を思へば忡々(ちゆうちゆう)として楽まざる者あり」
4月16日
漱石、神田乃武に宛てて手紙。
石川一男に貴意を伝えた、石川一男は17日に、石川県の新設中学に転任することになり、明日出発の予定である、赴任以来4人が転勤し驚いている、と伝える。愛媛県尋常中学校で教え始めて1週間もたたぬのに交際に時間を費やすことが多く、勉強もできぬし、先日話のあった洋行の貯蓄もできぬのではないかと洩らす。
4月16日
一葉、日記(「水の上日記)再開。この日、田中みの子と伊東夏子を訪問。次に、大橋乙羽の頼みで萩の舎の中島歌子のところに行く。大橋は、博文館の出版物『日用百科全書第一編 和洋礼式』の題字題詠を、「爵位高き人々に」依頼して欲しいという。歌子は、前田侯爵の「禮」の字と侯爵夫人の和歌を手配する。
2時頃帰宅。西村きくが来ていたので一緒に昼飯を食べる。夜、号外が来て、平和談判が整ったという。
「春雨ふりて今日はいとつれづれなり、なすべきことゞも一わたりはてゝ、身のいとまやうやう得らるゝに、田中とじがもと、伊東の夏子ぬしなどとはゞやと家を出づ」(4・16)
また、日清戦争の講和条約調印への関心も示す。
「平和談判とゝのへり、委細はあとよりとあり」(同日)
「いまだ談判の後報来らず」(翌日)"
4月17日
日清講和条約調印(下関条約)
朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲(アジアではじめて植民地を持つ国となった)、賠償金2億両支払、欧米なみの通商条約締結、威海衛保障占領など。日清戦争の死者・廃疾者1万7千人、軍費2億。20日、天皇批准。5月8日、批准書交換。
日清戦争の軍事的意義:軍国主義と軍事的天皇制イデオロギー確立。
海上:大艦巨砲の有効性(日本の包囲攻撃でも「定遠」は沈没せず)。機動力の重要性(速射砲搭載の軽艦隊の勝利)。艦隊運動に便利な単縦陣の優越性。
陸上:兵站組織・防疫・衛生設備の整備(出征中の入院者17万、うち戦傷4519のみ、うち内地後送6万7600)。攻撃力偏重で長期持久思想に乏しい反省。歩兵の突貫攻撃の重要性。
外交上の意義:日清拮抗、英露対立の枠組みが崩壊。中国・朝鮮の領土保全・現状維持の政策が不可能となる。中国分割が現実のものとなる(中国周辺から本土へ関心が移る。清国の賠償金支払いのための露仏借款とこれに対抗する英独借款。借款の後は、利権と租借の大軍。
4月18日
一葉のもとへ、安井てつ(後に東京女子大学学長)来訪、入門する。毎週木曜日、「源氏物語」の講義を聴きに通い始める。安井哲子「教壇の半生」によれば、樋口家の家系を助けるためでもあった。
禿木に、来訪か葉書でもほしいと手紙を出す。
田中みの子より、翌月2日か3日くらいまでに借金返済するよう求められる。"
4月19日
「東京日日」(書記官長伊東巳代治主宰)・「時事新報」、講和8条件を完全に報道。
東西「朝日」は翌日の紙面で、出所を明記して講和条件の内容を転載する屈辱をなめた。16日付「大阪朝日」社説「俗吏の私便百年の胎禍」は、政府が縁故ある新聞にだけ流した不公正さを攻撃。
4月19日
早朝、一葉に宛てて禿木から手紙の返事。「たけくらべ」を称賛し、一葉を「女西鶴」と呼ぶ。孤蝶が来訪、一日中話し込む。
4月19日
米、議会、スペイン開戦決議。
4月20日
一葉のもとに大橋乙羽が来訪。萩の舎に稽古へ。日没近くに帰宅。久佐賀義孝が来訪。夜遅くまで語り、60円の借金を申し込む。5月1日、久佐賀から断りの返事が来る。以後、彼との交渉は不明となる。
4月20日
ドイツ、マルシャル外相、青木公使に対して「日本は旅順口を領有するにおいて障害をうくべし」「世界は決して日本国の希望又は命令によって動くものに非ず」と述べる。
4月21日
森鴎外(33)、陸軍軍医監となる。
4月22日
一葉の日記より
「うき世にはかなきものは恋也。さりとてこれのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世ははかなき物也。等思三人、等思五人、百も千も人も草木もいづれか恋しからざらむ。深夜人なし。硯をならして、わが身をかへりみてほほゑむ事多し。
にくからぬ人のみ多し。我れはさはたれと定めてこひわたるべき。
一人の為に死なば恋じにといふ名もたつべし。万人の為に死ぬればいかならん。しる人なしに怪しうこと物にやいひ下されん。いでそれもよしや。」
(同じ思いをする人が三人、五人いるとしても、百人も千人も草も木もどれか恋しくないものがあろうか。)
ようやく桃水の呪縛から開放されたのであろうか。「憎からぬ人多し」、「一人の為に死なず、万人の為に死なん」と言う。
孤蝶など複数の男性と近しくなったせいか、「たけくらべ」発表によって、名声が揚ってきたせいか、どうか。
桃水からの完全な離脱とはまだ断定し難い。
つづく
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