今までの写真は1895年2月27日、全ボン準がソウルの日本領事館で取り調べを受けた後、法務衙門から移送される直前に日本人写真家の村上天真が撮った姿で、2010年10月に日本の奈良女子大キム・ムンジャ教授が確認して初めて公開された。既存の写真で全ボン準はカメラのレンズを睨んでいたのに対し、新たな写真では深く穏やかな雰囲気があり、歴史的人物の異なる印象を立体的に見せてくれる。
(ハンギョレ新聞 https://japan.hani.co.kr/arti/culture/20437.html)
1895(明治28)年
3月5日
「漢山近事(二月廿一日発)」(『日本』3月5日付)
漢城に到着した「東学党の大巨魁全奉準(ママ)なるもの」は,「年紀四十有余,眼光炯々」「従容として毫も死を畏るの色なく全く一種の宗教的熱心を有するもの」とひとかどの人物であり,「余等東徒は国の為に義兵を挙ぐ。一死固より分とす。日本兵と戦ふて勝つが如きは固より期せず。唯節に殉するのみ」と語ったと報じた。
「東学党の首魁」(『日本』3月9日付け)も同様記事であるが、ニュースソースは漢城で発行された新聞(『漢城新報』2月21日付)であると明記された。
『漢城新報』は,漢城で国権派の日本人が発行している新聞であり,国権派の認識として東学をナショナリスト集団として高く評価したい意識が存続しつづけ,『日本』も共有したことを物語っている。
3月5日
「東徒鎮静と清人捕縛」(『東朝』3月5日付の)
2月28日午前11時,仁川の今橋兵站監発の電報の報道で,山村中隊が忠清道から帰任し,後備歩兵第19大隊も龍山に帰着したという内容。
同日の「朝鮮時事二月十八日京城青山好恵」の中に「東学党大巨魁生擒」という記事があり,これが「全禄斗(琫準)」についての詳報である。当初「中央政府に於る奸侫を払はんと計画し」,「日本兵京に入り使しと聞き共に斥攘せんとし遂に義兵を挙ぐるに至れり」と全琫準が答えたなどの記述は,『日本』10月5日が掲載した「東学党余聞」に似ていて,「暴徒東学党」像とは異なるものとなっている。
この記事は,全琫準や崔時亨らは「朝鮮に於て上下老幼の別なく知られ居る事ハ老西郷が西南暴動の巨魁として上下老幼の間に普ねく知られ居ると毫も異なるなし」と西郷隆盛との比較で高く評価し,18日全琫準が「我公使館迄護送せられ遂に領事館に交付せられたるを聞くや満城(ママ)相伝へて騒立ち珍らしき偉人物を見物せんと陸続出掛くるもの一時ハ日本領事館前に黒山を築きぬ」というエピソードを添え,独立第19大隊司令官南小四郎少佐による「捕獲当時」の尋問の問答を二段以上に渉って掲載した。
尋問の問答は,2月19日以降の日本領事館によるものも『東朝』3月6日付に掲載されている(「朝鮮時事(二月廿日) 京城青山好恵」)。東学幹部の取り調べが日本のメディアによって詳しく報じられるのは,朝鮮政府への牽制でもあった。
『東朝』3 月6 日付に掲載された尋問問答でも,「召募使李健永」や「召募使宋廷變」と全琫準が面談したことが公表されたし,『東朝』3 月7 日付の「朝鮮時事(二月廿一日) 京城青山好恵」中にある「雲辺と東学党」でも,東学の宋憙玉から全琫準への書簡(9 月6 日付) に「日昨自雲辺有暁諭文」などの文字があり,「雲辺とハ王妃か大院君か二者必ず其一に居らん」と想像を逞しくした文が加えられている。
朝鮮宮廷の煽動の証拠をつかみ,宮廷との交渉に役立たせる戦略の下の尋問問答掲載であった。
3月5日
ラッコ、オットセイ猟法が公布
3月6日
第1師団、営口を占領。清軍は既に退却済み。
3月6日
正午、子規、広島に到着。広島は町中が兵隊で溢れかえっていた。一般兵士と同じ船で出征することになっており、2週間あまり待機することになる。
広島滞在中にしたこととして、子規は「我が病」のなかで、「八畳の間に同社の者四五人詰めこんで常に雑談し時には喧嘩もありし事」「某伯のもとにて刀を賜はりし事」「郷里伊予に行き二泊して帰りし事」「酒飲みに三度、白魚飯喰ひに二度行きし事」「塩原多助の芝居を見に行き美人の多きに驚きし事」「毎夜両眼鏡を勝へてヘラヘラ見物に行きし事」「馬関にて狙撃せられたる李鴻章に見舞状を贈りし事」などを書いている。
「某伯のもとにて刀を賜はりし事」とあるのは、旧松山藩主で、子規と同じく近衛師団に副官として従軍するため、広島で待機していた久松定謨から刀を拝領したことをいう。子規は、広島滞在中や従軍中、この刀を背負い込んで歩き回っていた。
のち、子規はこの刀を抜いて、白刃を小手にかざし、「古刀行」という漢詩を詠み、「いざ出陣」の決意を詠い上げている。
のちに子規の主治医となる宮本仲が、手品から広島へ戻る途中、刀を背負って手品に向かう子規に偶然会っており、そのときのことを次のように回想している。
「日清戦争の当時の子規は可なり身体が丈夫になって居って、私は丁度御用で宇品の方へ行って居った。その当時、宇品と広島の間は未だ田圃で、何月か一寸忘れたが私が宇品から広島へ人力車でやって来ると、向うから子規によく似た男がやって来る。よく似てると思ってゐると果して子規だ。洋服に日本刀を一本背負込んで、兵隊の着る様なマントを背中に、ズボンに脚絆をはいてやって来る。私は驚いて「おいおいそんな格好で君は一体どうしたんだ」と云ふと、「僕は従軍記者で直ぐもう出帆するんだ」「冗談ぢやない。君の身体で、とても従軍記者なんて行けるものぢやない」と云ったのだが、ところが「もう陸とも相談して来たし今生の想出に是非行くのだ」と云ふ。(中略)あすこで一寸思ひ止まれば無理にでも連れて帰って来るのであつたが、本人がさう云ふ堅い決心をして居る事だし、直に船に乗込まうとして居る際、無理に説き伏せても仕方がないからそのまゝにやつたが、(以下略)(「俳句研究・子規特集」昭和9年9月)」
3月6日
「東学追討の模様」(『日本』3月6日付)
1月20日~25日の泰仁付近の作戦に従事した「高橋軍曹」からの戦況報告の手紙(2月5日付)をほぼ一段という長さで掲載。現場の軍人からの私信で東学の動きを伝えるものは,『日本』紙上では最初で最後のもの。
「漢山近事(二月廿八日発)」(『日本』3月7日付)
『日本』から漢城派遣の「長白坊」というペンネームの記者が,漢城の近状を報告。「東学党は今度こそ全滅したるに相違なし」と伝えた。
実際は、殲滅作戦はほぼ終了しつつあるが、東学農民軍は「全滅」してなかった。
3月6日
エンゲルス序文マルクス「フランスにおける階級闘争 1848年より1850年まで」刊行。
3月8日
ボアソナアド、離日。午後6時横浜でシドニイ丸に乗船。数日前、外国人で始めての勲一等瑞宝章授与決定。
3月9日
第1・3師団、激しい市街戦の後、午前9時半までに田庄台を占領。戦闘参加清軍2万・日本軍1万9千。清軍は約1千の戦死者を遺棄して戦場を去る。遼河平原掃蕩完成。
3月9日
子規、出征する古島一雄を呉港まで見送りに行ったさいに、「春雨蕭々として分捕の軍艦三艘はものうげに浮び無心の間鷗は檣頭に飛び廻れり」と、市内の雑踏とは無縁な、のどかな春の軍港の風景を写生し、「のどかさや檐端(のきば)の山の麦畑」と詠む。
10日、広島郊外の段原村に、碧梧桐の兄・河東可全を訪れ、「上下(うえした)に道二つある柳かな」と、写生的な句を詠む。
3月10日
漱石、狩野亨吉を訪問
「夏目來り愛媛県中学校へ招聘せられんとする談合追々熟すと告く」(「狩野亨吉日記」)。
3月10日
一葉のもとへ、市川千代が関藤子の紹介で訪ねてくることになっていたが、とりやめになる。
3月12日
福沢諭吉、「時事新報」で講和条件について、威海衛・山東省・台湾領有、「償金は何十億にても苦しからず」と主張。
前年8月21日では「とえいあえず盛京、吉林、黒竜江を略し・・・我が版図に帰せしむべし」と主張。
12月31日には「旅順口を東亜のジブラルターとなして、・・・金州、大連湾を日本領北支那の香港となす」と求める。
3月12日
『東朝』3 月12 日付の「朝鮮時事(二月廿七日) 京城青山好恵」が「東学党大巨魁」の見出しで「死刑ハ免る可らざるべし」との推測を報じる一方,『日本』は,全琫準が「未だ一粒の飯さへ与へざりしを以て元気著しく衰弱し」ていると窮状を報じ,裁判への注目を求めた(「韓山近事長白坊」,『日本』3 月16日)。
3月14日
午後、狩野亨吉が漱石を訪問。愛媛県尋常中学校に就職する旨を伝える。
3月14日
「東学党の再発」(『東朝』3月14日付)と「東徒の近情」(『日本』3月15日付)、
3月4日銀波付近の東学200名を,朝鮮兵(仁川から130名に鳳山の朝鮮兵を加えた) が撃退し,「武器米穀」を押収したと報じた。付近の九月山には「一千名内外」の東学集合が推測されていた。
3月15日
澎湖島遠征艦隊、佐世保発。
3月15日
一葉へ、馬場孤蝶から手紙で、「すね物」とからかわれ、その原因として解けぬ片思いを疑われる。
(「すね給へる一葉の君へ」と宛てられており、手紙の中で戸川秋骨、星野天知、禿木ら文学界同人と一葉の人物像が揶揄的になされていた。一葉は、「おろかやわれをすね物という」と随想録「さおのしつく」で述べるが、それほど深刻な怒りではなく、孤蝶へはすぐ17日に座れ返すような返事を出す。)
3月15日
広島で出征待機中の指示、故郷松山に帰る。~17日。
3年ぶりに父常尚の基に詣でる。墓のある法龍寺の境内には鉄道が敷かれ、墓の傍らに菜の花が咲き乱れていた。あまりの変わりよぅに、子規は「蘋藻(ひんそう)を薦(すす)めざる事纔(わず)かに三年桑滄の変心にこたへ胸ふたがりてしばしは立ちも上らず」と記し、「畑打よこゝらあたりは打ち残せ」と詠む。子規を迎える旧友・知人たちの温かい気持ちに変わりはなく、翌16日盛大な歓送の宴が開かれ、送行の句をいくつも贈られ、
17日には広島に戻り、21日に従軍許可を受ける。
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