大杉栄とその時代年表(142) 1895(明治28)年3月16日~31日 小屋保治と大塚楠緒子が結婚 澎湖島占領 下関講和会議始まる 李鴻章、狙撃され重傷 「大刀会」成立 日清休戦条約調印 一葉「たけくらべ」(七)~(八)発表 より続く
1895(明治28)年
4月
星亨、井上公使の斡旋により、この月、法部衙門顧問官に任命され、朝鮮内政改革に携わることになる。他にも、陸軍、大蔵省、警察などに日本人顧問官が配置。
星は第4回総選挙(27年9月)で再選され自由党に復帰するが、除名後に、党内主流から外れている。また、第3回総選挙で旧大日本協会系の対立侯補と激戦し、選挙戦で借金は増え続け、資金的にも窮地に陥る。この年1月、失意の中で朝鮮に渡航。前年10月、駐朝鮮公使として着任している井上馨は星に朝鮮内政改革への参加を勧め、星もこれを受け入れる。星は一旦帰国し、3月、配下の壮士を伴って再び朝鮮に渡る。
後、三国干渉により日本の非力が露呈すると、事大党は親露派として再び勢いづき、6月、井上公使が事態打開の政府との協議に帰国すると、ロシア公使と提携し親日派を失脚させ、政権に返り咲く。星ら朝鮮政府内の日本人顧問官はこの間なすすべもなく、朝鮮王室とロシアの権謀術数に翻弄。井上は改革の業績を残すまもなく帰国し、後任に陸軍予備役中将三浦梧楼が任命。三浦は周囲を国権派で固め、星を重んじようとしなかった。
4月
陸相山県有朋「兵備ヲ設クルニ付テノ奏議」。陸軍兵力倍増を主張。
「従来ノ軍備」を「専ラ主権線ノ維持ヲ以テ本トシタルモノ」とし、「進ンデ東洋ノ盟主トナラント欲セパ必ラズヤ又利益線ノ開張ヲ計ラゲル可カラザルナリ」。「主権線ノ維持」の為には「利益線」(=朝鮮)の「保護」(=支配・侵略)が必要とし、攻撃的軍事力の飛躍的増強の必要性が的確に認識される。こうして、6師団(及び近衛師団)を12師団(及び近衛師団)に倍増して装備を改良し、更に広大な大陸での戦闘に適した独立騎兵2旅団と強力な重砲を有する独立砲兵2旅団を新設する陸軍拡張計画が作成され、議会承認を得ることになる。
4月
与謝野鉄幹(22)、「二六新報社」退社、京城に渡っていた鮎貝槐園(落合直文の弟)の招きで朝鮮政府設立の学校「乙未義塾」(いつびぎじゅく)(槐園が総長・校長)に、日本語教師として招かれる。
5月、新体詩「凱旋門」。隣国を夷狄から解放し日本文化を定着させるという国士的思想。
7月、腸チフスで漢城病院に60日間入院。領事館補堀口九萬一(大學の父)が見舞い、その枕元で閔妃暗殺の打合せ。
10月、閔妃殺害事件取調べを受け、腸チフスで入院中であったことから広島に護送されて帰国。この間、詩集「東西南北」を纏める。
4月
後藤宙外「ありのすさび」、島村抱月「悲劇論」(「早稲田文学」)
4月
泉鏡花「夜行巡査」
4月
この月の一葉「しのぶぐさ」に、
「一人の為に死なば、恋しにしといふ名もたつべし。万人の為に死ぬればいかならん。」(明治二十八年四月)
4月1日
下関講和会議。陸奥外相、講和条約案を手交。李鴻章は本国に打電、米人外交顧問フォスターの意見により英露仏3国公使に対し、朝鮮自主、奉天周辺・台湾・澎湖割譲、償金のみ開示し、承服できない内容であると説明するよう指示。また、3日、会議は前途多難と報告。
4月1日
第4回内国勧業博覧会、岡崎公園。黒田清輝の裸体画「朝妝(ちょうしょう)」に対して、展示の賛否両論。~7月31日
4月2日
石川啄木(9)、盛岡高等小学校(現下橋中学校)に入学。この日、同校4年生の金田一京助と知り合う。
4月3日
政府、英米仏露4国に、6日、独伊2国に、講和条件の全部を通告。4日、ドイツ外相マルシャル、ロシア駐在大使に反対の意思を伝える。
4月3日
一葉「軒もる月」(『毎日新聞』3日、5日)。3月末、毎日新聞の戸川残花(「文学界」客員)の依頼を受けて
〈あらすじ〉
上野の鐘が九時を知らせるのを聞きつつ、袖は夫の帰りを案じざるを得ない。子供たちのために残業をしている夫の身体を心配しつつ、彼女は軒ばの月に眺め入り、ため息をもらすのである。
彼女の脳裏には、かつて小間使いとして仕えていた桜町の殿の面影がやきつて離れない。自分を愛し、職工のの妻となった今でも、幾たびも手紙で愛を求めてやまない殿のことが忘れられないのである。
もちろん、袖は律義で子煩悩な夫や幼い乳のみ児を妻や母として愛しており、手紙をひらくことすらしていない。
しかし、袖は殿の面影を消し去らないのでは、二心の不貞の女子と言われても仕方がないと思い悩む。
ついに彼女は手紙を読むことで自分の心の清濁をはっきりさせようとする。
激しい愛の言葉に眼をさらしつつ、袖はしだいに放心状態におちいっていく。
殿も夫も子供も私にとっていったい何だというのか、と彼女は虚無的に高く笑い、淡々と手紙をちぎり、炭火に投げ入れる。
そんな彼女を軒もる月光が清々しく照らしだすのである。
ラストの部分
「女は暫時(しばし)悾惚(うつとり)として、そのすゝけたる天井を見上げしが、蘭燈(らんとう)の火(ほ)かげ薄き光を遠く投げて、おぼろなる胸にてりかへすやうなるもうら淋(さび)しく、四隣(あたり)に物おと絶えたるに霜夜の犬の長吠(とほゞ)えすごく、寸隙(すきま)もる風おともなく、身に迫りくる寒さもすさまじ。来(こ)し方(かた)往(ゆ)く末(すへ)、おもひ忘れて夢路をたどるやうなりしが、何物ぞ、俄(にはか)にその空虚(うつろ)なる胸にひゞきたると覚しく、女子(をなご)はあたりを見廻して高く笑ひぬ。その身の影を顧り見て高く笑ひぬ。「殿、我(わが)良人(をつと)、我子(わがこ)、これや何者」とて高く笑ひぬ。目の前に散乱(ちりみだ)れたる文(ふみ)をあげて、「やよ殿、今ぞ別れまいらするなり」とて、目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面(おもて)に手もふるへで、一通(いつゝう)二通(につう)八九通(はつくつう)、残りなく寸断に為(な)し終りて、熾(さか)んにもえ立つ炭火の中(うち)へ打込(うちこ)みつ打込みつ、からは灰にあとも止(とゞ)めず、煙りは空に棚引(たなび)き消ゆるを、「うれしや、我(わが)執着も残らざりけるよ」と打眺(うちなが)むれば、月やもりくる軒ばに風のおと清し。」
4月3日
「黄海道の残賊征討」(『東朝』4月3日付)と「黄海道の残賊追討」(『日本』4月4日付)、
仁川守備隊から抽出された予備隊が、3月30日黄海道の海州付近の東学1,500名と戦い撃退した戦闘報告で,米穀200石を押収したが運搬困難なため「悉皆焼棄」したという高井兵站監(在仁川) から大本営への報告文。
『東朝』と『日本』で掲載された東学との戦闘記事はこれがほぼ最後。
4月5日
下関講和会議。李鴻章、伊藤に長文の覚書。清国領土割譲は清国の復讐心を高め将来の日清協力を困難にする。日清間の紛争は東アジアに対する列強の侵略を誘起する。日本の国計・民生は、日清両国の親睦に依存するところ大であり、日本は講和条件を緩和すべきである。陸奥は国内世論に配慮してこれを無視。
4月7日
漱石(28)、愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任のため東京を出発。漱石の俸給は校長よりも高く月額80円という破格の待遇。
4月7日
子規の属する近衛師団に出動命令下る。
子規、4月10日に海城丸に乗船せよとの命を受ける。"
4月7日
午前、子規の従弟、藤野潔(古白、東京専門学校在学中)が湯島切通しの親戚の家でピストル自殺を図る。弾丸は前額に撃ちこまれたが、即死ではなかった。医科大学附属病院で摘出手術を受けたのち、12日に絶命。
参考記事
つづく
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