1903(明治36)年
6月
根岸短歌会『馬酔木』創刊(1908年明治41年終刊)。のちの『アララギ』につながる。
根岸短歌会は1899年(明治32年)3月14日、子規、岡麓、香取秀真、山本鹿洲、木村芳雨、黒井怒堂の6名で開かれた歌会を源流とし、虚子や碧梧桐らにより結成され、伊藤左千夫や長塚節らも参加した。
子規没後、伊藤左千夫が根岸短歌会系歌人をまとめ、この月、機関誌「馬酔木」(1908年終刊)を発行、根岸短歌会参加者に加え島木赤彦や斎藤茂吉らも参加し、これが歌誌「阿羅々木」(後のアララギ)へと発展していく。
6月
片山潜「都市社会主義」
6月
内村鑑三、『万朝報』などで日露開戦に反対。戦争絶対反対の主張を開始。
6月
正宗白鳥、読売新聞社に入社
6月
漱石、「自転車日記」を「ホトトギス」に発表。
小宮豊隆は小説家・夏目漱石が誕生する機縁を作ったのは子規だとし、次のように述べている。
「漱石は子規にせがまれて、『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いた。漱石がロンドンから帰つて来た時には、子規は既に死んでいたが、当時子規の後継者として『ホトトギス』を経営していた高浜虚子は、漱石にせがんで、漱石に『自転車日記』を書かせ、『幻影の盾』を書かせ、『坊つちやん』を書かせた。さうして漱石は、竟に教壇を去つて、純粋な作家になつた。(中略)子規は作家漱石を作り上げる上に、なくてはならない重要な人物であつたと言つても、決して過言ではなかつたのである。―勿論子規がなくても、漱石の内なる宝庫は、何等かの機縁に触発されて、その全貌を示し得たには違ひなかつた。然し若し子規がなかつたら、漱石は或は、学者としてのみ、その一生を過ごしてゐたのかも知れなかつた。その意味では、漱石と子規との交際は、作家漱石にとつては、殆んど運命的 なものであつたと言つて可いのである。」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)
6月
仏コンブ内閣、修道会を多数解散させる。
6月1日
東京日比谷公園、仮開園式挙行。日本で最初の西欧式都市公園。設計本多静六(のち東大教授)。5万1,000余坪、翌年2月、園内に洋風喫茶店松本楼開店。明治35年5月、竣工。
6月1日
フィリピン植民地政府、ムスリム地域を纏めモロ州設立。ゲリラ対策として住民集団強制移住法を制定。
6月2日
貴族院、海軍拡張案可決。
6月2日
京都に聖護院洋画研究所開校(関西美術院の前身)。
6月3日
政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表。谷中村瀦水池案浮上。
6月3日
駐英公使内田康哉、中国の英公使館から武官デュカット中佐のロシアが戦争準備しているとの報告書を提供され、外務省に送付(「ロシアは、・・・本年晩秋または初冬に対日開戦を企図していると確信する」)。
デュカット中佐は奉天、遼陽、営口などに旅行しその見聞と情報を綜合して判断したという。
①ロシアは満州占領を永久化するためのあらゆる手段をとりつつあり、他国の軍事的介入があるとすれば、それは日本だと考えている
②鉄道警備に必要である以外に、ロシアは物資の貯蔵と戦略地点への配兵を急いでいる。これは、できるだけ早く日本に交戦を強制する意図のあらわれとみなされる。
③大連で、ロシア側はギンスプルク商会ほか1社に石炭25五万トンの90日以内納入を発注。うち8千トンは英国カーディフ炭、10万トンは日本炭を指定したという。在清英軍部隊の石炭需要量が1日約千トンであることと照合すれば、これは『戦時発注』である
中佐の判決は、
「ロシアは、ロシア軍の移動が容易で日本軍の上陸が困難な時期、すなわち本年晩秋または初冬に対日開戦を企図しているものと確信する」
6月4日
漱石(36)、精神的不安定状態が続く。妻鏡子によれば明治36(1903)年6月頃~明治37(1904)年5月頃迄続く
「六月四日(木)、東京帝国大学文科大学長坪井九馬三宛手紙に、大学図書館教職員閲覧室の隣室で事務員などの談笑が高声なので注意したが、応じぬので、直接注意して欲しいと申し入れる。(神経衰弱になると、騒音など人々の態度に敏感となり厭悪を抱く。)」(荒正人、前掲書)
「梅雨期頃からぐん/\頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。」(「漱石の思ひ出」)
6月4日
第18特別議会、閉会。
6月5日
東京市、明治34年度東京市統計年表(第1回)刊行。
6月6日
外務省政務局長山座円次郎、政友会代議士小川平吉に招かれ料亭「田中」で、日露戦争の必至と伊藤元老の軟弱を批判。
6月6日
アラム・イリイチ・ハチャトゥリャン、グルジア共和国トビリシに誕生。
6月6日
ガーナ、クマシのイギリス軍救出が試みられるが、アシャンティ族の堅固な守りのため失敗。その後も激戦を繰り返す。
6月8日
参謀本部部長会議。総務部長井口少将、第1部長松川大佐、第3部長大沢界雄大佐、第4部長(心得)大島健一大佐、第5部長落合豊三郎少将。要望により総長大山巌元帥も出席。井口少将が代表して意見書を説明。ロシアに「公然撤兵を要求」し「談判破裂」の時は武力に訴えるべきと提言。他の部長も同調。
後、大山は桂首相を訪問、「今日ナレバ御引受申ス」と早期開戦を進言。既に、4月21日「無隣庵」で山県・伊藤・桂・小村は開戦決意。反政府勢力を刺激し、ロシアに開戦の口実を与えないため秘匿。
「朝鮮ニシテ一度彼ノ勢力範囲ニ帰スルトキハ(朝鮮海峡、日本海、黄海の制海権を奪われて)日本帝国ハ扶桑ノ一孤島ニ蟄伏セヲレ……対馬及北海道ノ如キ帝国主要ノ属島モ、彼ノ欲スル所ニ従ヒ其占領ニ委セザルベカヲザルノ悲運ニ際会スルナキヲ保セズ」
財政問題については、
「(戦争遂行に際して)最モ切要ニシテ最モ欠乏ヲ患フルモノハ、国ノ兵カニアラズ、海運力ニアラズ、智力ニアラズシテ、金力ナリトス」
戦費は「約五億円」と見込まれ、うち1億5千万円を国庫負担、3億5千万円を公債にして「五十ヵ年償還、年六分ノ利子」にすれば、戦後国民の負担は「最大年額二千八百万円」になる。
「一国ノ存亡ニ係ル大事ノ為ニハ、国民タルモノ此額ノ負担ニ堪へザルノ理アランヤ」
もし勝利の結果の賠償金を獲得すれば、「国民ハ前記ノ負担ヲ免ルルノミナラズ軍費ヲ償ツテ尚余剰」が見込まれる。
「某諜者」によれば、駐日ロシア公使R・ローゼンは、
「日本ノ内政外交ハ、一ニ元勲ノ同意ナクシテハ行ハレズ。内閣総理大臣モ其意志ニ反シテ一事ヲモ断行スル能ハズ。又、元勲ノ幇助ナキ内閣ハ、成立スルヲ得ズ。
而シテ所謂元勲タル三、四人者ハ、功成リ名遂ゲテ年老タレバ、今ニ迨(およ)ンデ一国ノ安危ヲ賭シテ露国卜戦ヲ決スル如キハ万之無力ルぺシ」
との報告を本国に送っている、という。
「彼我兵力ノ関係、西伯利鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵愾心等今日ヲ以テ最好機トシテ、此好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再ビ得ベカラズ」
6月8日
(漱石)「六月八日(月)、井上勝太郎(微笑)から送られた『白扇会会報』第九号への礼と『ホトゝギス』関係の人たちから勧められていた俳句を再び作り始めようと思うと書く」(荒正人、前掲書)
つづく
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