1903(明治36)年
6月9日
章士釗「『革命軍』を紹介する」(「蘇報」)。
10日、章太炎「『革命軍』に序す」(「蘇報」)。
6月9日
元老伊藤博文、政友会幹事長原敬に対して、小村外相が伊藤・クロパトキン会談で日露協商交渉できぬかと打診してきた、と述べる。
6月9日
金子健二の日記
「六月九日 火 晴 、
午前七時より学校の図書館に入り拾一時まで,サイラス・マーナーを復修す。小説は学校にて用ふるも利益少なからん。何となれば。教科書となるときは字句にのみ注意して,己が好むまゝに多くを読む能はざればなり。來学年よりは何か適切なる書を用ひられたきものなり。望は空しきか。夏目氏にては、文学的の教授なし得るゝや否や。俳句などに力を注ぎし人と聞きては、文壇の改革者どころのさわぎにあらず。…」(金子健二日記)
6月10日
7博士事件。東京帝国大学法科大学教授戸水寛人(ひろんど)・小野塚喜平次・富井政章ら7博士、政府へ建議書提出。満州・韓国交換の対露方針に反対。6月24日「東京朝日新聞」に公表。
戸水寛人:「日本はバイカル湖以東のシベリアまでことごとく占領すべし」と主張し「バイカル博士」と渾名される。ローマ法の権威。
小野塚喜平次:最後に加わり、すぐにメンバから抜ける。主戦論ではあるが開戦論ではない。昭和3年東大総長。新渡戸稲造・美濃部達吉と交友、晩年は内村鑑三とも交友。門下に吉野作造・南原繁。
「大凡(おおよそ)天下の事一成一敗間髪を容れず、能く機に乗ずれば、禍を転じて幸となし、機を逸すれば幸を転じて禍となす。・・・遼東還附の際其不割譲の条件を留保せざりしは、是れ実に最も必要の機を逸せるものにして、今日の満洲問題を惹起せる原因と謂はぎるべからず。・・・若し独逸にして手を膠州湾に下す能はずんば、露国も亦容易に旅順大連の租借を要求すること能はざりしや明かなり。然るに、我邦逡巡為す所なく遂に彼をして其慾望を逞するを得せしめたるは、実に浩嘆の至りに堪へず、・・・今や露国は次第に其勢力を満洲に扶植し、鉄道の貫通と城壁砲台の建設等により、漸く其基礎を堅くし、殊に海上に於ては盛に艦隊の勢力を集注し、・・・彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・清国の法は未だ嘗て露国兵の鉄道を保護することを認めず、故に露国が自ら兵を以て鉄道を保護する、是れ条約に基きたるにあらず、又法律に依りたるものに非ず。去れば満洲の撤兵とは満洲各所の兵も鉄道守備隊も一切之を撤去するの意にして、露国は万国環視の裏に此の誓約をなせしものなり。是を以て、此の不履行より危急存亡の大関係を有する邦国は最後の決心を以て、之を要求するの権利あり。故に我邦は鋭意此撤兵を要求せざるべからず、縦令露国政治家たるもの甘言を以て我を誘ふことあるも、溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。之を要するに、吾人は故なくして慢りに開戦を主張するものにあらず、又吾人の言議に適中して後世より先覚予言者たるの名称を得るは、却つて国家の為めに嘆ずべしとするものなり。噫(ああ)我邦人は千歳の好機の失ふぺからざることを注意せざるべからす、叉此好機を失はは遂に我邦の存立を危うすることを自覚せざるぺからす、姑息の策に甘んじて曠日(くわうじつ)弥久するの弊は結局自屈の運命を待つものに外ならず、故に曰く、今日の時機に於て最後の決心を以て此大問題を解決せよと」
6月10日
ロシア陸相クロパトキン大将、下関入港。4月28日ペテルブルク発。5月25日ウラジオストク着。6月8日ウラジオストク発。
日本側接待主任は陸相寺内正毅中将、補佐はロシア駐在経験のある佐世保要塞司令官村田惇少将・参謀本部員田中義一少佐。
11日東京に向う。12日午前9時30分、新橋着。寺内陸相、珍田捨己外務省総務長官、ロシア公使ローゼンが出迎え。滞京4日。桂首相・小村外相と会談。日本側は、ロシアの満州永久占領に反対と明言。15日、市ヶ谷の中央幼年学校を視察。
28日、長崎より旅順口に向う。30日、旅順口着。
6月10日
セルビアでクーデター。ベオグラード、国王アレクサンダル・オブレノビチ(アレクサンダル1世)とドラガ王妃、自由主義将校団により謀殺。翌日、セルビア議会、亡命中のペータル・カラジョルジェビチを国王指名、ペータル1世として即位(在位~1921年)。「大セルビア主義」信奉者(バルカンにセルビア人主導国家建設)で反ハプスブルク(親仏・親露的、オブレノビッチ家の親オーストリア的傾向と対極)。1889年憲法復活。急進党パシッチを重用。2度のバルカン戦争に勝利し第1次大戦迄政情は安定。
6月11日
中央線八王子~甲府間、開通。
6月11日
東大で漱石の講義(訳読)の試験、結果は散々、漱石は絶望する。
「六月十一日(木)、東京帝国大学文科大学で、 Silas Marner の訳読の試験行う。試験問題は「Silas Marner の梗概とその批評を英文で記せ」である。(金子健二)
六月十四日(日)、菅虎雄宛手紙に、「高等學校ハスキダ大學ハやメル積ダ」と心境を洩らす。」(荒正人、前掲書)
「六月十一日 木 雨
本日より学年試験施行。… 午前拾時より弐時間の予定にて夏目氏の英訳試験あり。問題実に突飛にて復修せし者は馬鹿げたる目に会へり。日く、サイラス・マーナーの梗概と之が批評を英文にて記せと。問題は大人気(おとなげ)なれ共、かゝる大なるものは論文として出さしむる方却て可なるべきに。」(金子健二日記)
「六月十一日に『サイラス・マーナー』の試験をしてみて、あまりの不出来に失望した金之助は、当時清国南京の三江師範学堂でで教えていた菅虎雄にあてて書いている。
《・・・僕ハ高等学校へ行ツテ駄弁ヲ弄シテ月給ヲモラッチ居ル。夫デモ中々良教師ダト独リデ思ツテル。大学ノ講義モ大得意ダガワカラナイソ(ママ)ウダ、アンナ講義ヲツヾケルノハ生徒ニ気ノ毒ダ、トイツテ生徒ニ得ノ行ク様ナヿハ教エルノガイヤダ、試験ヲシテ見ルニドウシテモ西洋人デナクテハ駄目ダヨ、・・・》(六月十四日付)」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)
6月12日
田中正造官吏侮辱事件、大審院、有罪。6月16日~7月26日、服役。
6月12日
大阪の人力車夫、巡航船の市内河川運航に反対して、土佐堀青年開館で集会。
この日、大阪では国内博覧会があり、それを機会に社会主義大会が開催され、片山、幸徳、木下等が参加。
続いて、市内の人力車夫の大会が、営業車夫信用組合創立会という名で開催される。3,500~3,600人が参加。博覧会の客を対し、市内の河川を利用して小蒸汽や早船による客の輸送を行う企業家に対する車夫たちの抗議の集会。巡査は彼等を解散させようとするが、車夫たちは戎橋附近で蒸汽船に投石し、その船内に乗り込む。検束者約200人。
6月13日
ロシア、鴨緑江木材会社設立。責任者は顧問官のベゾブラーゾフ。
6月中旬
漱石、「六月中旬、神経衰弱目立って悪くなる。(鏡)」(荒正人、前掲書)
「六月中旬(推定)、第一高等学校で、学年試験行われ監督する。試験問題は、意味の反対言葉を譜かせる問題である。生徒の答案を見て廻り、単語の誤りに注意する。(中勘助「夏目先生と私」)」(荒正人、前掲書)
6月15日
陸羯南(45)、横浜港から日本郵船の安芸丸で出航、アメリカ~ヨーロッパ外遊に向かう。37年1月帰国。
6月15日
東大で漱石の講義「英文学概説」の試験
「六月十五日(月)、東京帝国大学文科大学で、午後一時から「英文学概説」の試験を行う。試験問題は「四月以来口述せし講義の大要を述べ、且つこれが批評を試みよ」である。学生たちは、午後三時まで答案を出す者は一人もいない。(金子健二)」(荒正人、前掲書)
「六月十五日 月 曇 冷
午前九時迄に夏目氏の(英)文学概論通読す。午後一時より夏目氏の試験あり。問題は又候(またぞろ)突飛のものなり。日く、四月以來口述せしものの大要を述べ、合せて之が批評を試みよと。三時に至るも答案を出(い)だすもの至て稀なり。予は書くことに飽きたるを以て早く出だす。三年生は標準を高く定めらるゝにあらざれば不可なり。英文学に対する観念、一年の其れと異なるものあらざる可(か)らず。…」(金子健二日記)
6月15日
(露暦6/2)ロシア、労働災害補償法公布。
6月15日
ペタール・カラ・ゲオルゲビッチ、セルビア王位継承(~1921)。
つづく
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