1903(明治36)年
4月20日
漱石、東大で最初の講義。
ジョージ・エリオット(1819-80)の『サイラス・マーナー』(主人公の心理描写に特色のある小説)訳と「英文学概説」。前任の小泉八雲(ラフカディオハ-ン 1850-1904)が解任された直後で、小泉を慕う学生の間で小泉の留任運動が行われていて、漱石の講義は最初は不評(小泉は7年間東大で英文学を講じていた。また小泉は、この前第五高校でも漱石の前任者であった)。
学部長の井上哲次郎(1855-1944、キリスト教を反国体的宗教として排撃。天皇制国家における国民道徳のあり方を論じる)は、漱石(36)、上田敏(29)、アーサー・ロイドの3講師は、小泉八雲雇講師1人の俸給で招聘されたと公言しており、これだけでも漱石にとって東大は愉快なところではなかった。
「帰国後の講義
彼は大学で週六時間、一高で三十時間を担当した。大学では『サイラス・マーナー』の講読と「英文学概説」の講義で、両方に出席した金子健二(のち昭和女子大学長)は、その日記(「東京帝大一聴講生の日記」)に、「本日(明治三十六年四月二十日)より夏目氏の授業あり。小泉師を見て夏目氏を比較せんとするは無理なり 夏目氏如何に秀才なりと云ヘどもその趣味の点将(ま)た想の点に於て到底小泉師の相手たるに価せず。小泉師をすててロイド、夏目、上田の三氏を入れし井上(哲次郎)学長の愚や寧ろ憫察すべきなり」と託した。言うまでもなく、小泉はラフカディオ・ハーン、日本に帰化して小泉八雲である。明治二十九年九月から三十六年三月まで、英文科講師だった。大学当局は「お雇い外国人」並みの俸給を払ってきた彼の持ち時間を減らし、漱石と同程度にしたいと考えたが、ハーンはこれを拒否、辞任に追いこまれた。このいきさつについては江藤淳の『夏目漱石』がくわしいので参照していただきたい。
金子の日記の記述は、当時のハーン留任運動における学生の感情がむき出しである。『サイラス・マーナー』の講読には、「通読の上アクセントを正し難句を問ふに過ぎず つまらぬ授業と言ふ可し」と記され、「文学概説」の方は「実にアンビギャス(あいまい)にて筆記し難し」とある。ハーンの詩的でわかりやすい名調子にくらべて、一語一語を正確に考えていく読み方は彼らにとっては「低級」のような感じがし、概説の方は初めて聞く内容がよく理解できなかったのではないか。金子の筆先が鈍るのは九月の新学期に『マクベス』を取り上げてからである。二十番の大教室は聴講者で満員であった。金子もこの講義が有益であると思いはじめていた」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「四月二十日(月)、晴後曇。東京帝国大学文科大学の講師として、初めて教壇に立つ。 George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)の ""Silas Marner"" 1861 (『サイラス・マーナー』)を教科書に使う。(学生たちは、教科書に不満である。上田敏・ロイドも開講する。)」
「「これに対して皆不愉快の思ひをした。小泉先生は毎年一般講義に、必ず、テニスンの詩を講じて居られたので、私達は悦んでこれを聴いてゐたのであるが、今度は夏目金之助とかいふ『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校授あがりの先生が、高等学校あたりで用ひられてゐる女の小説家の作をテキストに使用するといふのだから、われわれを馬鹿にしてゐると憤つたのも當然だ。」(金子健二『人間漱石』)」
「程度高く、学生たちはあまり理解しなかったし、まじめな態度で聴講する者は少ない。教員室では、畔柳都太郎(芥舟)と座席が向き合っていた。(畔柳都太郎は大学一年に入学した時、漱石は大学院に入っていた)学生には、一年生に松浦一・金子健二・川田順・小山内薫・松井和宗など十数名、二年生には厨川辰夫・西川巌・森巻吉・若杉三郎・小松武治、三年生には野間真綱・皆川正禧・石川林四郎・落合貞三郎・若月保治・安藤勝一郎・岩田博義などがいる。」
「文壇的には上田敏のほうが漱石よりも遥かに名声を博している。松浦一によると、英文科で漱石・上田敏・ロイドの歓迎会を開いたが、一人の小泉先生が去って、今度頭数は増えたけれども」というある先輩の発言があったという。」(荒正人、前掲書)
「金之助が講師としてはじめて文科大学英文科に出講したのは、四月二十日のことである。彼と同時にアーサー・ロイド、上田敏の二人が講師に任命された。英文科は以前から教授が空席で、したがって教授会で学科を代表すべき教員を持たなかった。三人の講師のうちで上席者はァーサー・ロイドであったが、ロイドはお雇い外国人であり、三田の慶応義塾講内にのちにウィッカース・ホールと呼ばれるようになった邸宅をかまえていた人物で、上田は二十九我の若冠にすぎなかったから、自然金之助が英文科の中心人物と目された。
しかし、このことは、かならずしも金之助が大学で重んじられていたということを意味するわけではない。七歳年少の上田敏が同時に講師に任じられたことからも明らかなように、もともと彼は教員としての経歴の上で損をしつづけて来たのである。その発端が、明治二十八年四月、突然東京高等師範の英語教師を辞して、四国の松山に都落ちしたときからはじまっていたことはいうまでもない。翌年五高教授に任官し、やがて英国留学を仰付けられたことによって、このマイナスはようやく帳消しになったかに見えたが、帰国してみるとまたすべてがふり出しに戻った。一高においてすら、彼は教授としてではなく、講師として採用されたにすぎなかったからである。
これは直接には、退職金を入手する目的で彼が五高教授を辞職していたという理由のためである。いったん辞任したものを同じ資格のまま転任させることはできないので、一高校長狩野亨吉は、便法として金之助を新任の講師として傭い入れるほかなかったものと思われる。しかしそれにしても、これは降等であることには変りがなく、一高から支給される年俸も、五高時代の千二百円から七百円に下った。文科大学講師の年俸は八百円であったから、彼は併せて千五百円の年俸を支給され、月給に直して一ヵ月百二十五円を得ることになった。
名目上これは二十五パーセントの昇給である。しかし卸売物価指数(昭和九年ー十一年平均を一〇〇とする)は、金之助が英国に留学した明治三十三年の四八・九に対し、三十六年は五〇・四で、この間すでに一・五上昇しているので、熊本と東京との物価の地域変動を計算に入れると、夏目家の家計はむしろ熊本時代よりかなり逼迫したものと推測される。」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)
「四月二十日に、金之助がはじめて大学に出講したときの英文科の学生たちの反応は、きわめて冷淡であった。ことに彼が、英語の一般講義のテクストとしてジョージ・エリオットの小説『サイラス・マーナー』を用いる旨を申渡すと、学生たちのあいだから一瞬不満のざわめきが湧きおこった。前任者ラフカディオ・ハーンは、毎年テニスシの詩をテクストに用いていた。そこへせいぜい高等学校程度のテクストと思われていた『サイラス・マーナー』をやると宣言されたので、彼らは馬鹿にされたと思って陳慨したのである。
学生たちの反駁の背後には、金之助の前任者ハーンが大学を「追われた」ことに対する同情もひそんでいた」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)
4月20日
ガーナのクマシ周辺のアシャンティ族、ベクウェイの親英部族を襲撃。これを契機に反英部族がい政府に対して一斉蜂起(アシャンティの蜂起)。
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