2025年3月21日金曜日

大杉栄とその時代年表(441) 1903(明治36)年4月21日~25日 「「四月二十三日 木 晴 冷 … 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記)

 

無隣庵会議の部屋(2011-11-18撮)

大杉栄とその時代年表(440) 1903(明治36)年4月20日 「小泉先生は毎年一般講義に、必ず、テニスンの詩を講じて居られたので、私達は悦んでこれを聴いてゐたのであるが、今度は夏目金之助とかいふ『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校授あがりの先生が、高等学校あたりで用ひられてゐる女の小説家の作をテキストに使用するといふのだから、われわれを馬鹿にしてゐると憤つたのも當然だ。」(金子健二『人間漱石』) より続く

1903(明治36)年

4月21日

京都、「無隣庵」会議。桂太郎首相・小村寿太郎外相・伊藤博文・山県有朋ら、4者会談。

桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとした。

「桂は、一方には此の報告(注、ロシアが撤兵を中止したという、内田公使からの電文)あり、他方には露国の北朝鮮経営の警報に接したので、此際対露政策を決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して桂が小村と謀り、公の黙契を得て決定したる方針は、露国の満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった」(徳富蘇峰『公爵山縣有朋傳』)


対ロシア基本方針4ヶ条

(桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤・山縣から同意をとりつけた)

①露国ニシテ満州還附条約ヲ履行セズ、満州ヨリ撤兵セザル時ハ、我ヨリ進ンデ露ニ抗議スルコト。

②満州問題ヲ機トシテ路国卜其交渉ラ開始シ、朝鮮問題ヲ解決スルコト。

③朝鮮問題ニ関シテハ、露国ヲシテ我ガ優越権ヲ認メシメ、一歩モ露国ニ譲歩セザルコト。

④満州問題ニ対シテハ、我ニ於テ露国ノ優越権ヲ認メ、之レヲ機トシテ朝鮮問題ヲ根本的ニ解決スルコト。

4月21日

漱石、この日から東大での実際の講義を始める。


「四月二十一日 火 雨 暖

学校の図書館よりサイラス・マーナー (George Eliot, Silas Marner)を借用す。夏目氏之を教科書として用ふ。午後夏目氏の時間に出席す。小泉師の時間に出席する如き元気なくなれり。小山内(薫)氏一派出席せず。彼も亦た極たんなり。上田敏氏の科外講義始まる。チョーサー(Chaucer)を研究する由なり。文壇のハイカラ先生大学の講堂に立っ。日本の大学何ぞ其れ外国文学に冷胆(冷淡)なるや。終日雨天なり。夜,筆記訂正す。夏目氏の口述はハーン師の其よりも筆記し難し。」(金子健二日記)

「四月二十一日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、一般講義の Silas Marner (『サイラス・マーナー』)、午後一時から三時まで、英文科学生の「英文学概説」の講義を行う。(瀟洒な洋服姿で、きびきびした態度である。蝙蝠傘を持参する。(松浦一)余りに理論的だったので、小泉八雲の詩情に溢れた講義とは全く異なる印象を学生に与える。」


「「先生が明治三十六年春初めて私達の為に『文學諭』の講義を開始された時、その最初のお言葉として『これからお話しする事は英文學概説 ""General Conception of English Litereture"" といふ題目に就てゞありますが諸君の御希望に依りては英語でお話してもよろしいですが・・・』との挨拶があった。」(金子健二「漱石クロニクル」『人間漱石』) だが、英語の希聖者はなく、日本語で話す。夏目金之助(漱石)に接した学生たちは、敬愛する小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)の後任者であったため、反感を以て迎えられた。「教室内見渡す所、或者は頬杖をしたまゝに新しい講義者の講義を聞き流さうとした、或着はベンを執ることさへなくて居眠りに最初の幾時間を過した。」夏目漱石述・皆川正禧編『英文學形式論』(大正十三年九月十五日 岩波書店刊)の「はしがき」(大正十一年九月三十日)。「英文学概説」(英文科生だけ)は、後に、「十八世紀英文學」 「文學論」『サイラス・マーナー』についで、『リア王』『ハムレット』『オセロ』『テンペスト』『ヴェニスの商人』と講義され、『文學諭』の序論のようなものである。大正八年の末に野上豊一郎から皆川正禧に講義ノート出版の話あり、皆川正禧、編集を行う。皆川正禧は、小松武治・吉松武通・野間真綱などからもノートを借用し、大正九年七月に上京し、漱石の書斎で引用文の誤りなども訂正する。」


「発音の悪さを指摘したり、対訳をさせる。この頃かどうかは、正確には分らぬが、 ""The Century Dictionary of English Language"" を使用する。」(荒正人、前掲書)

"

「金之助の実際の講義がおこなわれたのは、四月二十一日の火曜日からである。・・・

(略)

この日の十時から十二時までは『サイラス・マーナー』の訳読だったが、金之助は学生たちの実力のなさにおどろき、容赦なくリーディングのあやまりを直し、ことに慣用句についての知識のなさをしぼりあげた。それもそのはずで、彼らはハーンからまったくこの種の訓練を受けていなかったのである。

功利的な目的で英語を学ぶという態度に露骨な嫌悪を示したハーンの影響で、学生たちは英文法・英作文・会話というような課目を勉強するのを恥辱と心得ていた。彼らにとっては、英文学をやるということは、テニスシやスウィンバーンの詩の主情的鑑賞を、陶然と聴いていることにほかならなかった。それが衆人環視のなかで、ひとりずつかたっはしから発音を直されるのだからたまらない。彼らが中学生に逆戻りしたような屈辱を感じ、新任の講師に対する敵意を燃やしたのは当然であった。

彼らはそもそも新任講師の夏目金之助といういかにも町人らしい名前に嘲笑的なものを感じていた。いったい夏目金之助とか金五郎とかいう人物は何者であるか。たかが「ホトゝギス」に二、三の駄文を発表しただけの、田舎の高校教師あがりの無名の風来坊ではないか。片やハーン先生はといえば、海外文壇に著名な大文豪である。その直系の弟子たる自分たちが、この金之助ごときになめられてはたまらない。そう思って、苦虫を噛みつぶしたような顔で学生を叱りつけている金之助を観察すると、この洋行帰りの新任講師は、小柄な身体に妙にピッタリしたフロックコートを着込み、左右の尖端をできるだけはね上げてコスメチックで固めたカイゼル髭を、幾度となく純白のハンカチをつかって、龍光石火の早業で磨いている。それだけではない。彼は左右のカフスボタンを気障な手つきで交互に弄び、やたらと廻転させたりもしてた。それは要するに、ハーンがあれほど軽蔑し、嫌悪していた西洋化された日本人の、悪しき典型であると見えた

同日午後二時からの『英文学概説』(『英文学形式論』)の授業では、夏日講師は開口一番、「これからお話することは、英文学概説、すなわちGeneral Conception of English Literature というう題目についてでありますが、諸君の御希望によっては英語でお話してもよろしいですが・…」といって教室を見まわした。しかし誰も英語でやってほしいというものはいなかった。・・・学生たちは彼の気負いに圧迫を感じ、自分たちの学力の低さを皮肉られたと思って不快を感じていたのである。

講義がはじまってみると、学生たちはあらためて唖然とせざるを得なかった。それは英文学ではなくて心理学の講義であるかのようであり、シェイクスピアやジョンソン博士にまじって図表やら公式やらがやたらに出て来たからである。およそこれほどハーンと異質な講義もなかった。ハーンの講義がロマンティックで情緒本位で、むしろ「日本的」なものだったのに対して、金之助の講義は理詰めで分析的で、皮肉なことにハーンのよりはるかに「西欧的」たったのである。これによって学生たちの反感は決定的なものとなった。金之助の冷静犀利(さいり)な分析が英文学という恋人の柔肌を切りきざむメスであるかのように感じられて、少からず自尊心を傷つけられたためである。小山内薫と川田順は反撥してそのうちに教室に出て来なくなった」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)

4月22日

清国、商律制定。

4月22日

天津・北京に銀幣中族総廠設置。

4月22日

海相山本権兵衛中将、清国南部に巡航する予定の常備艦隊司令長官日高壮之丞中将に訓示。


「今回ノ巡航中ハ、成ルベク遠ク南進スルヲ避ケ、一朝緊急警報アルトキハ速ニ北ニ転ジ得ベキ覚悟ヲ以テ・・・常ニ交通ノ便アル港湾ニ宿泊スルコトヲ望ム」

4月23日

木下尚江(33)・堺利彦(32)、横浜・羽衣町の若柳亭での理想団横浜支部発会式、続いて相生座での演説会に出席。

4月23日

大阪で初の全国銀行者大会開催。

4月23日

東大で講義する漱石


「四月二十三日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。学生に読ませ、発音を訂正し、訳読をさせる。学生たち閉口する。」(荒正人、前掲書)


「四月二十三日 木 晴 冷

… 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記)

4月24日

日清間天津居留地拡張取極書調印。7月10日告示。

4月24日

上海、張園で拒俄大会。

4月25日

政友会総裁伊藤博文、政友会総務に政府との妥協案を説明。総務会は、「総裁専断」と非難。

4月25日

この日の金子健二日記


「四月二十五日 土 晴 暖

… 拾一時より拾弐時迄、上田敏氏の科外講義あり。チョーサーの本伝に入る。氏の講義はサッパリとして筆記し易し。夏目氏は実力ある様なれ共、講義まずく、気取るにあらずやとの疑を起さしむるの嫌あり。…」(金子健二日記)


つづく


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