2025年3月12日水曜日

大杉栄とその時代年表(432) 1903(明治36)年1月20日~25日 漱石、イギリスより帰国 「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」(荒正人)

 

島村 抱月

大杉栄とその時代年表(431) 1903(明治36)年1月1日~18日 岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版 より続く

1903(明治36)年

1月20日

夏目漱石(36)、約2年間の英国留学より帰国。朝、長崎港着。

1月22日 午前12時、長崎港出航。夜、神戸港入港。

1月23日 昼、漱石、検疫を経て神戸に上陸。妻鏡子に神戸発の時刻を知らせる。


「一月二十三日(金)、検疫了えて、神戸に上陸する。西村旅館(栄町三丁目)に入る。鏡宛に、神戸出発の時刻知らせる。(推定)年後六時十五分、神戸停車場發急行(一、二等)で東京(新橋停車場。現・汐留駅)に向う。(神戸・新橋間十五時間十五分)」(荒正人、前掲書)

1月20日

ブロードウェイ、マジェスティック劇場、ミュージカル「オズの魔法使い」開幕。

1900年5月17日にシカゴで出版された、ライマン・フランク・ボーム著、W. W.デンスロウ挿絵の児童文学作品。ミュージカル『オズの魔法使い』は大人向けの「ミュージカル大作」として製作された。"

1月22日

米とコロンビア、ヘイ・エラン条約(パナマ運河条約)調印。米、パナマ運河地帯の租借権を得る。コロンビア議会は条約批准拒否。

11月18日 米、パナマが運河建設条約調印。

1月23日

オックスフォード大学に留学中の島村抱月(31)、1ヶ月の休暇をロンドンで過ごし、この日からオックスフォードで学生生活を続ける。

明治35年5月7日、東京専門学校海外留学生としてロンドン着。ユニテーリアン教会の牧師サマーズの家に下指し、語学、宗教などの理解についての指導を受けながら、毎日のように図書館に通い、日課表を作って勉強。この牧師の息子が俳優であったので、抱月はその伝手で、劇場にも出入りするようになり、当時の名優アーヴィングの楽屋を訪ねたこともあった。そして、10月の新学期からオックスフォード大学に入り、そこに移り住む。

10月頃から、G・F・スタウト教授の心理学の講義を、大学内のエギザミネーション・スクールで聴講した。スタウト教授に招かれて、彼は哲学会の晩餐会に出席し、そこでムーアという教授の「イデアの実在」という講演を聞く。その縁で、彼はムーアの講義にも出席するようになった。11月には詩学のセリンコート教授のシェイクスピアの講義をユニヴァーシティ・カレッジで聴講。11月末には、マンチェスター・カレッジの晩餐会で、シジウィック教授の「シェレイとその思想」という講演を聞く。12月12日で大学の講義は終り、1ヶ月ほどロンドンのサマーズの家に下宿。翌明治36年1月23日から、また大学で、スタウト教授の心理学のほかに、ファークハースン教授のベーコンについての講義を聞く。3月2日には、詩学教授ブラッドレイの「オセロ」の講義を聴く。

1月24日

朝9時30分、漱石、新橋着。


「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」


「筆(五歳)には、初めて意識してみる父親であった。イギリス留学のため別れる時には、理解でさなかったのである。父親に会い、普通の父親と変りないので落胆したという。漱石のほうでも、以前は色白の可愛い娘でめったが、汚なく憎らしい子供になっているので、落胆したという。(松岡筆子「夏目漱石『猫』の娘」(『文芸春秋』第四十四巻第三号 昭和四十一年三月号))」(荒正人、前掲書)


「父の援助も受けられず、子供二人を抱えて苦労していた鏡子は、妹の婿・鈴木禎次(建築家)から借金をし、着物と夜具だけは新調して夫の帰宅の準備をした。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「ところでロンドン出発の際にも、航海中も、留守宅には金之助からなんの音沙汰もなかった.鋭子が、一月下旬に紳戸に荒く船の船客名簿に夫の名前が出ていたということを知ったのも、多分義弟で神戸在住の建築家鈴木禎二からの知らせによってである。彼女は郵船会社に問いあわせてこのことをたしかめ、義弟から百円ほどの金を借りて、さしあたり留守中に着やぶってしまった夫の着物と夜具を調えた。ようやく金之助からの電報が届いてみると、発信地は神戸で、帰りの汽車の時間が記してあった。鏡子は父中根重一に連れられて、国府津まで迎えに出た。

鏡子の前にあらわれた金之助は、ひどく高いダブル・カラーをつけてきっちり身に合った服を諦用し、左右の尖端を細くはねあげてコスメチックで固めたカイゼル髭を生やしていた。長崎か神戸で上陸早々そばを食い、その上に鰻飯まで食ったので、腹具合を悪くしたと彼はいった。その挙動に別段変ったところはなかったが、車中には前述の精神科医斎藤紀一ほか三人の医者がいた。新橋ステーション(現在の汐留貨物駅)では出迎えの親類にまじって、寺田寅彦の顔が見えた。寅彦は汽車から降り立った金之助が、娘の筆子のあごに手をかけて仰向かせ、じっとその顔を見詰めるのを見た。やがてその手をはなすと、金之助は頻に不思議な微笑を浮かべた。東京ではペストが猖獗をざわめていた。

矢来の家は畳替えをした形跡もなく、想像以上に荒れ果てていた。この荒廃と貧困が、二年四カ月の留学が彼の家族にあたえた代償であった。(江藤淳『漱石とその時代2』)


「一月二十四日(土)以後三月三日(火)以前(矢来町時代)、太田達人訪ねて来る。大学を卒業して初めてである。女の子ばかり生れて困るというと、花輪廉太郎(太田達人と同郷で先輩にあたる英文学者)も女児が多かったが、巡査以上の男なら誰にでもくれてやると云っていたことを話す。(太田達人談、森田草平筆録)

一月二十五日(日)、晴。夜、寺田寅彦来る。書生の土屋忠治、書物の荷を開ける。ロンドンのことを話す。手鞄のなかから白薔薇の造花一束出てきたので寺田寅彦は、それは何ですかと聞くと、貰ったものだと答える。鮨を出す。以前、国府津で(寺田寅彦の記憶)食べたのとおなじ順序で食べる。美術画の写真など見せて貰う。九時前に帰宅する。

一月二十六日(月)か二十七日(火)、火鉢の縁に、五厘銅貨が置いてあるのを見付け、急に腹をたて、火鉢の向う側に坐っていた筆の頬を殴る。(荒正人、前掲書)


「二、三日のあいだはこれといって彼の神経の異常さを証拠立てるような事件はおこらなかった。しかし四日目になって、筆子と向いあって火鉢にあたっていた金之助は、そのへりに互厘銭がひとつのっているのに気がつくと、いきなり「こいついやな真似をするな」と怒鳴って幼い娘をなぐりつけた。筆子は火がついたように泣き出し、鏡子も事情がさっぱりわからずあっけにとられた。金之助の顔は赤悪く充血していた。


《・・・だんだんたづねて見ますと、ロンドンにゐた時の話、ある日街を散歩してゐると、乞食が哀つぼく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたさうでず。するとかへってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのつてるといふではありませんか。小癪な真似をする、常々下宿の主姉さんは自分のあとをつけて探偵のやうなことをしてゐると思ってゐたら、やっぱり推定どほり自分の行動は細大洩らさず見てゐるのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしてもするやうに、これ見よがしに自分の目につくところにのつけておくとは何といふいやな婆さんだ。実に怪しからん奴だと憤慨したことがあったのださうですが、それと同じやうな銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのつけてある。いかにも人を莫迦にした怪しからん子供だと思って、一本参ったのだといぶのですから変な話です。私も妙なことをいふ人だなとは恩ひましたが、それなり切りでこの部は終はってしまひました。・・・》(『漱石の思ひ出』-一七「帰朗」)」(江藤淳『漱石とその時代2』)

1月24日

カナダの英米合同委員会でアラスカ国境協定調印。

1月25日

閣議、地租増徴継続案撤回。海軍拡張費として鉄道建設費を充てることを決定。

2月22日、桂太郎首相、伊藤博文政友会総裁と協議して妥協。


つづく

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