1903(明治36)年
4月10日
神戸沖で海軍大演習観艦式。
4月10日
漱石(36)、第一高等学校講師(年俸700円)の辞令を受ける。
15日、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)に任命される。
翌年1904年9月、生活のため明治大学高等予科講師(土曜日4時間、月給40円)を兼任する。計に週30時間は激務。
ちなみに『坊っちゃん』の主人公は24歳で21時間の授業数である。漱石のこのころの生活、家族、周辺の人々については、後年の小説『道草』(1915年「朝日新聞」連載)に、私小説風に詳しく描かれている。
文科大学の英文科では初の日本人講師として英語購読「サイラス・マーナー」および「英文学概説」の講義(後に単行本「英文学形式論」)を受け持つ。
語学に厳しく理論的で緻密な漱石の授業は、前任者であったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の情熱的な授業に親しんでいた生徒たちに違和感を与えた。
漱石の教え子の一人であった金子健二は次のように回想している。
「特に漱石先生の講義は、その研究のシステムが文学それ自身を鑑賞する時に必要と考えられる批評学の一端を分析的に取扱おうとする所に重点が措いてあった為に、ヘルン先生の如く立派な芸術は理くつぬきにして直覚的に鑑賞すべきものであるという立場とは既に根本的に異なっていたのである。」(金子健二『人間漱石』)
しかし一般講義の『マクベス』の授業は、当時、シェイクスピアの劇が上演され人気を博していたこともあり、「大入繁昌」(同)だったという。
「四月十日(金)、晴。第一高等学校英語嘱託の辞令を受ける。一週二十時間、年俸七百円。」
「四月十五日(水)、曇。東京帝国大学文科大学講師に任命される。和田万吉と関根正直から東京帝国大学春期懇親会に招かれたが、多忙を理由に断る。」
「夏日金之助/英語ノ/授業ヲ嘱託シ報酬トシテ/壹ヶ年金七百圓贈與/明治三十六年四月十日/第一高等学校」狩野亨吉の配慮であった。
Samuel Johnson (サミュエル・ジョンスン 1709-1784)の ""Rasselas, Prince ofAbyssinia"" 1759 (『ラセラス』)や R.L. Stevenson (スティーヴンソン 1850-1894)の ""The Suicide Club"" (『自殺倶楽部』)(New Arabian Night, 1882 所収)などを教える。
「先生が初めて教室へ現れた時、きびきびとした而して瀟洒な洋服姿に蝙蝠傘を持つて来られたと覚えてゐる。而して講義の初めに、『私はアヴェレージな日本人の一人としてお話をする』と謙遜な前置をされた。」(松浦一)。
「教科書は前からのひき続きでジョンソンのラセラスであった。先生が新にはじまる章の最初の言葉を讀みはじめた時のその特色もる發音を忘れはしない。それは所謂恐ろしく気取った - それだけ正確な - 發音のしかたで、少し鼻へぬける金がかつた金属性の聲であつた。」(中勘助「夏目先生と私」)。
「其の頃先生の様子は一體に高襟で、高いダブルカラに、磨き立てのキッドの靴の、尖の細い踵高な奴をはいて、歩きぶりから一種のリズムを持つて居た。出席簿を讀むにもすべて英語を用ゐて、Mr.- と云ふ口吻を吾々はよく眞似たものである。」(野上豊一郎)。生徒たちの間では、夏目さんと呼ばれる。」(荒正人、前掲書、読みやすさのために段落を加えた)
「彼は帰り新参なので、最初のうち一高は年俸七百円の講師、大学も年俸八百円の講師である。月百二十円強でも、東京の生活はかなり苦しかった。彼はその中でも欲しい書籍代は遠慮なく使った。鏡子も遣りくり上手とは言えず、翌年秋の学期から、彼は明治大学高等予科講師も兼ねなければならなかった。月給は週四時間で三十円である」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
4月13日
文部省、小学校令改正、国定教科書制度を確立し、小学校教科書は原則として文部省が著作権を持つものに限定。1904年4月1日施行。前年12月から摘発が続いた教科書汚職事件が引き金となる。小学校教科書選定に絡み、各県知事・視学官・校長ら関係者が、教科書販売会社「金港堂」「集英堂」「普及舎」から収賄。書記官、府県視学官、師範学校教諭、教科書会社社長・社員ら予審裁判容疑者151名、有罪確定112名。
4月16日
菅野須賀子「基督教世界愛読者諸君に告ぐ」(「基督教世界」1025号)。大阪の勧業博覧会における醜業婦の舞踏会に反対し、6日の木下尚江演説に論及。
4月16日
ロシア、ベッサラビアのキシニョフ(黒海北西)、農民によるユダヤ人虐殺。ユダヤ人が革命を狙ったテロを組織しているという疑惑。ユダヤ人に対する執拗な迫害継続。
4月17日
ロシア、満州問題に関する御前会議。対日戦を回避しつつ満州撤兵延期。
4月18日
ロシア、満州撤兵を履行せず、新たに清国に対して満州撤兵条件7項目要求をつきつける。
4月18日
ロバート・ハート、幣制改革案(金本位制)を提示。
4月19日
漱石、『帝国文学』評議員に選ばれる
「四月十九日(日)、晴。午後、寺田寅彦来る。寺田寅彦、上野に行き、美術院や無声会展覧会を見る。(漱石と同道したかどうかは分らない) 『帝国文学』の評議員に選ばれる。」
「漱石のほかに、評議員として、井上哲次郎・上田万年・三上参次・芳賀矢一・大塚保治・高楠順次郎・藤代禎輔・藤岡作太郎・安藤勝一郎・島地雷夢・垣内松三が選ばれる。代表者は、上田万年である。漱石はこの時が初めで最後である。翌年は、厨川辰夫や小山内薫が選ばれる。」(荒正人、前掲書)
4月20日
この日の「万朝報」、政府の社会主義運動取締りを論じる。
「警視庁は四月三日の労働者懇親会を禁止して以来、社会主義者及び労働者に対する態度極めて物々しくなり来れり。彼は日毎に多数の偵吏を使役して、各社会主義者及び労働運動者の経歴性行を調査すること極めて厳に、或は其隣人に就き、或は其原籍地に照会し、或は其踪跡を追随して、物色至らざるなき、恰も六波羅禿(ろくはらかむろ)の当時の如し。然り吾人は現警視総監の今に始めぬ用意の周到なるを謝すると同時に、却つて彼等社会主義者及び労働者の為めに、大に慶賀せずんばあらず、何となれば、此物色の結果は確かに当局が社会主義者及び労働運動者に対する従来の誤謬を一掃するに足るべきを信ずれば也。蓋し警視庁当局は、今の社会主義者及び労働運動者を以て、無頼の壮士、無職の浮浪者と同視したるが如し。品行不良の悪漢、無職の流氓と同視したる者の如し。而して、浸りに労働者を煽動し、平地に波を揚げて以て快となすの不平漢と同視したる者の如し。・・・今の社会主義者の牛耳を把る者を見よ。皆な高等の教育を受け、高等の職業を有する紳士に非ずや。今輩の労働運動者を見よ。亦皆な普通の教育を有し、一定の職業を有する良民に非ずや。・・・若し、夫れ警視庁が頻りに労働運動者の演説を中止せしむるが如きは、愚の極也。殊に一語の懇親、一致、団結等のことに及ぶあれば、直ちに之を中止せしむといふが如きは愚の極也・・・」
4月20日
外相小村寿太郎、内田康哉駐清公使に清国に対して露の要求拒絶勧告を訓令。
つづく
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