大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」 より続く
1903(明治36)年
5月
ロシア軍、鴨緑江を越えて韓国領内の龍嚴浦に至り軍事根拠地の建設開始。韓国支配を狙う。
5月
章士釗、「蘇報」編集に加わる。
章士釗:
南京陸師学堂でストをおこし、学生3~40人率いて退学。愛国学社に参加。後、黄興らと革興会を組織。第2革命時は討袁の檄文を起草。1920代中頃、段祺瑞政府の司法総長兼教育総長。北京女子師範大学の学生運動との関連で魯迅を罷免。
5月
若山牧水(18)、校友会雑誌部部長となる。新任の英語教師柳田友磨は牧水の詩才を認め文学に専念することを勧める。この秋頃から牧水の号を使い始める。
5月
この春、与謝野晶子(26)、『みだれ髪』の歌人という名誉と初孫とを家苞(いえつと)に、いつも苦しく夢でみている母を堺に訪れる。母は、晶子の帰郷を心まちにしていた。
鉄幹は高村光太郎と松永周二とを供につれて京都を経て高野山に遊び、帰省中の晶子をつれて、5月に帰京する。
5月
広島市、大井憲太郎らの指導で小作共済会結成。
5月
日本と清国の郵便条約なる。
5月
ベルギーのサー・ロジャーケイスメント、コンゴ自由国での残虐行為を報告(コンゴ・スキャンダル)。
5月
レーニン、トロツキーを『イスクラ』編集部に補充することを提案。
5月1日
幸徳秋水「非開戦論」(「万朝報」)
5月1日
斉藤緑雨、本郷千駄木町230番地、団子坂近くに引っ越す。前年12月に小田原から浅草に転居していた。
緑雨はこの年5月、随筆類をまとめた「みだれ箱」を博文館から出版。
5月1日
英エドワード7世、フランス公式訪問(~4日)。
5月2日
漱石 5月2,4,5日。
「五月二日(土)、晴。午後、寺田寅彦・湯浅廉孫来る。
五月四日(月)、東京帝国大学文科大学で午後一時から四時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
「「ヘルン先生の留任運動の余燼が夏目先生に祟つたのはお気の毒だと思つた。同じクラスの天才組の筆頭小山内君や川田順君は近頃もう棄鉢となったものと見え講義を聴きに来たことはない。三年生はそろそろ卒業に近づいたので神妙に出席してゐる。二年生は厨川君だけが熱心に講義を聴いてゐるやうに見えたが、他の諸君は出席だけはしてゐるが、心の中ではさう興味を寄せてゐないのだと森巻吉君が私に話してゐた。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)
「五月四日(月)または五月十八日(月)(極めて不確かな推定)、自宅に近い人力車業を営む家の前を通りすぎてまもなく、塩原昌之助に突然出逢う。お互いに挨拶しないで通りすぎる。」
「『道草』の冒頭の記述に、「ある日小雨が降った。」とあることと六日めの朝また逢ったという箇所から、月曜で小雨の降る日と推定する。六月には該当の日がない。十月、十一月、十二月にもない。「其時彼は外套も雨具も着けずに、」という箇所からは、秋のことかとも思われる。だが、小雨が降っていたことと六日めに再び逢ったことを重くみるかぎり、秋ではなくて春と思われる。
五月五日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義、指名した学生をやりこめる。午後一時から四時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
「五月五日 火 曇 暖
… 夏目氏のサイラス・マーナーは出席して聞くほどの価値なし。… 夏目氏のレクチュア余り称すべきものにあらず。語尾を呑むくせありて筆記し難し。森(巻吉)氏其(の)まねをなし衆を笑はす。…」(金子健二日記)
5月6日
韓国龍岩里にロシア兵が進出し工事をしているとの日野大尉電が着く。
「露国六十、韓国八十、清国四十人、韓国龍岩里ニ工事ヲ始ムルヲ見ル。
右ハ、露人ノ声言セル鴨緑江口ニ兵站部ヲ設ケ、朝鮮内地ニ人ルノ基礎ヲ作り、及日本ノ妨害ヲ予防スル云々ヲ硬メタルナリ」
5月6日
漱石、5月6日~12日
「五月六日(水)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。
五月七日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。
五月九日(土)、雷雨。井上勝太郎(微笑)(熊本県球磨郡湯前村、現・湯前町)から俳句の選者を依頼されたが、多忙であり、俳句に緑なくなったからと遠慮する。
五月十日(日)、晴。午後、寺田寅彦と上野で写友会写真展、博物館特別展で古銅器を見る。氷月(下谷区上野元黒門町(公園前、現・台東区上野))で汁粉を食べる。
五月十一日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で午後一時から三時まで、「英文学概説」を講義する。(「午後夏目講師の時間に出席す。いつも二時間乃至三時間もぶつ通しに筆記がつゞくので英文科生は皆夏目先生の授業に辟易してゐる。」(金子健二『人間漱石』))
五月十二日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、 Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。午後二時から四時まで(金子健二)、「英文学概説」を講義する。五時三十分、山上御殿で上田敏・ロイドとともに、新任講師の歓迎会開かれる。一言も話さない。」
「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)
5月8日
第18特別議会召集。12日開会、6月4日閉会。
5月8日
永井荷風「夢の女」(新声社)
後年の散策記『元八まん』には、「三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ」後年の東陽公園のあたりまで歩いたと記した一節がある。それは前年(明治35年)出版された『地獄の花』で原稿料75円を得た頃と推測できる。この月に出版された『夢の女』の主要部分はこの洲崎遊郭に留連することで得た見聞の所産であろう。
荷風は『濹東綺譚』のなかで『夢の女』に言及している。
「曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(ツナミ)のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」と言はれた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。」
洲崎遊廓は、本郷根津にあった遊廓が深川区弁天町(現、東陽一丁目)の埋立地(深川の海辺を埋め立てて造成)へ明治21年に移転したもので、「甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか」ったような、劣悪な立地条件であった。
吉原のような内陸の田圃の中と違って、すぐそばに海が広がっている。闇に閉ざされた夜の海は、遊廓の不浄な弦歌紅灯をことさら切なくはかないものに感じさせたであろう。よほどその情緒が創作欲をそそったものと見えて、茶屋で働く若い女(半玉)と深い仲になったりしながら取材を重ねた。
『冷笑』にでてくる「おきみさん」がその半玉をモデルにしているとされるが、山の手育ちの荷風が下町・深川の若い女をいかにも珍しそうに見ている。女性と風景をがっちり結びつけたところが荷風の腕前でもある。
「私はおきみさんをば斯(カ)う云ふ種類の女としては、その模範だと信ずるほど美しいと思つて居たが、然し別に恋してゐる訳ではなかった。私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘(イザナ)つてくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである」
「富岡門前まで生花の稽古に行くからと云ふので、朝帰りの吾々と早船を共にして、堀割の水に浮かべた材木の脂(ヤニ)の匂が冷い朝風に立迷ふ間を通つて行く時、私はおきみさんが胴の間の薄べりの上に横坐りして、舷(フナベリ)に頬杖をついた其の横顔を斜めに眺め、いかに麗しい空想に酔ふ事が出来たであらう。おきみさんは土地のものだけに早船の船頭とは大概知り合つてゐて、随分卑陋(ビロウ)な冗談をも平気で聞いて居るが、其代り時としては金歯を暼見(ホノミ)せて笑ひながら、荒くれた船頭を鋭く頭から叱りつける事もあつた。花を片手に舟から上つて朝日を受けた美白な倉庫の壁を後にして岸に佇立(タタズ)む若いおきみさんの姿をば、私は滑(ナメラカ)な朝汐の水面に流れる其倒影(カゲ)と共に眺めた時の心持を、今もつて夢のやうに思ひ出す事がある」(『冷笑』)
5月8日
ゴーギャン(55)、マルケサス諸島ヒヴァ・オアで没。心臓発作
つづく
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