2025年3月11日火曜日

大杉栄とその時代年表(431) 1903(明治36)年1月1日~18日 岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版

 

1905年(明治38年)

大杉栄とその時代年表(430) 1903(明治36)年1月 野口米次郎、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版、好評。「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日) より続く

1903(明治36)年

1月

岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版。

父勘右衛門は福井県人だが、横浜で貿易商を営んでいたので、覚三を幼年時代から宣教師ジョン・バラーに預けて英語を学ばせた。それで岡倉覚三は少年時代すでに英語に熟達していた。彼が東京大学文学部に在学していたとき、アメリカ人のアーネスト・フェノロサが来て哲学を講じたが、英語のよく出来る岡倉は、フェノロサの講義をよく理解し、後に彼に近づく縁を作った。

大学を卒業する時、岡倉は、卒業論文に「国家論」というのを書いたが、妻が過ってそれを焼いてしまったので大急ぎで「美術論」を書いて提出した。そのためか、卒業の成績はあまりよくなく、尻から二番目であった。彼は、18歳で東京大学に在学しているうちに大岡元子と結婚した。そして、明治13年19歳という異常な若さで、坪内逍遥よりも3年早く東京大学を卒業した。

その年、岡倉は文部省に勤め、音楽取調掛というのに任命された。

翌明治16年、フェノロサが日本美術の価値の再認識を論じたのに刺戟され、彼はフェノロサとともに日本古美術の研究に熱中しはじめた。彼は奈良や京都の寺社の古美術を多く発見し、また陋巷にいたすぐれた日本画家橋本雅邦や狩野芳崖などの仕事に注目し、フェノロサとともに彼等を世に出すのに努力した。

明治19年、岡倉天心は美術取調委員に任ぜられて、9ヶ月、欧米を視察し、翌年10月、帰朝するとともに、近く創設される予定の東京美術学校幹事に任ぜられた。そして明治21年12月、上野公園内に東京美術学校が建てられ、第一期生として下村観山、横山大観、西郷孤月等の学生が入った。

明治23年、岡倉天心は東京美術学校長に任ぜられた。その上、東京高等師範学校でも彼は美術史を講じた。更に彼は寺崎広業、梶田半古、小堀鞆音、尾形月耕等の画家と日本青年絵画協会を作り、その会頭となった。

明治26年、天心は宮内省の命によって清国に出張し、北京、定州、邯鄲、彰徳、開封等を経て龍門の石窟を見、函谷関を通って長安に入り、そこから奥地の成都を訪れ、揚子江を下って帰国した。その間に彼は、東洋の思想と芸術について国際的な立場からの判断を持たねばならないと考えはじめた。

明治29年、彼は東京美術学校に西洋画科と図案科を新設した。この頃から彼の指導を受けた寺崎広葉、小堀鞆音、菱田春草、下村観山、横山大観等の作品が世の注目の的となりはじめた。

しかし、明治31年、彼は文部省と意見が対立し、東京美術学校長の職を免ぜられた。すると、橋本雅邦、高村光雲、石川光明、川端玉章、海野勝珉、竹内久一ら15名の教授らが岡倉と共に職を辞した。この年10月、橋本雅邦らと谷中の初音町に日本美術院を創設した。この年岡倉天心は37歳であった。"

明治34年11月、彼はかねてから望んでいたインド旅行に出発した。この時、彼はマドラスからカルカッタに行き、ブタガヤを経てベナレスに入り、マヤバッチまで行ったが、その間に、アジャンタ、エローラ、オリッサ等の古代の宗教芸術の遺蹟を訪ねた。この旅行は、さきのシナ奥地の旅行と相まって、彼の心の中に東洋全般の文化と芸術の価値について一層明確な信念を植えつけた。この旅行中に彼は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールと親交を結んだ。また彼はこの旅行の間に得た信念、即ち、東洋の精神主義の復興の必要と西洋の物質中心文明の批判とを合せて述べた原稿「東洋の目覚め」を英文で書いた。また天心の帰国後タゴールの肝煎りで、インドのチベラ王国の装飾画を描くことになった横山大観と菱田春草の二人がインドに渡った

ロンドンで出版した「The Ideals of the East」はイギリスでよりも、インドの革命志士たちに愛読され、その冒頭の句「アジアは一なり」は、この当時ヨーロッパ諸国の植民地にされてしまっていたインドやビルマの智識人たちに東洋の独立のための合言葉のように考えられるに至った。

1月

ハンガリー、セール・カーン内閣、軍隊拡充提案。下院審議。野党は軍隊を通じてハンガリー化要求。6月、セール、辞任

1月1日

沖縄県宮古・八重山両郡に地租条例・国税徴収法施行。人頭税は廃止。

1月1日

山路愛山「独立評論」創刊。明治37年休刊。

1月1日

徳富蘆花(36)、「国民新聞」に自身の「告別の辞」を掲載したいと兄の蘇峰の伝える。社員の栗原が原稿を持ち帰るが、翌々日、掲載できないとの蘇峰の意思を伝えられる。

前年12月28日、蘆花は兄の蘇峰と絶縁。たびたび蘆花が「国民新聞」に発表する原稿が、兄によって削除されることがあったことが直接の理由。しかし、少年時代よりずっと兄の蔭に目立たぬ存在であった自分を兄の支配から独立させるというのが根本的な理由である。

一方の蘇峰は、明治30年、洋行から帰国後、松方内閣の一等参事官となり、以後は政府擁護の筆陣を張っていた。蘇峰は、三国干渉後、富国強兵の国策に協力するようになっていた。しかし、そのことにより、変節漢と言われたり、諸新聞からも非難攻撃を受け、「国民新聞」の発行部数を激減させていた。蘇峰は、貧民窟と皇太子の宮殿を較べて現在の政治を攻撃する弟を持てあましていたものの、天下の目を集めている弟の蘆花を、自分の手から離したくもなかった。

また、時代の良心の代表者のように見られている弟の蘆花と絶縁したことを自分の新聞で公表することは、忍び得ないことでもあった。

1月1日

長野県諏訪郡の有力製糸業者、職工争奪防止を目的として諏訪製糸同盟会を結成。男女工の登録制度を実施。

1月1日

英国王エドワード7世、デリーで行われた式典でインド皇帝として即位。

1月3日

アイルランド土地会議、地主制と高額の小作料の問題を処理するため、地代支払いの改正を提案。

1月5日

東京江戸川橋郵便局配達夫200人、労働加重により賃上げを要求してストライキ。10人が日本橋暑へ引致。

1月5日

スペインの自由党指導者サガスタ、没。

1月6日

アルバート・アインシュタイン、ミレーヴァ・マリッチと結婚。

1月7日

森鴎外長女森茉利、東京に誕生

1月7日

ゴーギャン(55)の家、サイクロンにみまわれ浸水。「アヴァン・エ・アプレ(前後録)」脱稿。

1月8日

漱石帰国の情報

「一月初旬(推定)、神戸港に着くことが新聞に出ていたと誰かから教えられ、日本郵船に問い合せると、一月下旬入港を確認、待っている。(鏡)

一月八日(木)、晴。寺田寅彦、鏡に夏目金之助(漱石)の帰国日時を葉書で問い合せる。一月十日(土)、鏡から一月下旬との返事がある。」(荒正人、前掲書)

1月10日

栃木県臨時県会、堤防修築名目で谷中村買収費48万円余を計上。鉱毒調査委員会の結論を見てからということで未採択。

谷中村の状況:

鉱毒のため生活困窮者が増え、明治28年で戸数385戸中約半数が公民権停止状況、選挙権を有する国税納入者は僅か1名。前年明治35年の大洪水で破堤した北方の85間の堤防も修築されず。また、「村債」もあり(元下都賀郡長安生順四郎が谷中に土地を購入し、有数の地主となる。この安生が村の排水事業計画を持ちかけ、中古排水機を村に購入させる。また、明治31年には堤防修築のための村債10万円を決議させるが、安生に金が入るだけで村債だけが残る)。

1月12日

漱石、シンガポール発

1月13日

原敬(47)、大阪北浜銀行頭取辞任し、取締役となる。

2月20日「大阪新報」社長(約2年11ヶ月)。

5月5日政友会常務委員。

1月13日

ポリネシアで高潮。死者数千人。

1月15日

小泉八雲、東大教授を解任


「一月十五日(木)、曇。東京帝国大学文科大学長井上哲次郎、小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)に対し、「明治三十六年三月三十一日限りで終る約定を継続する事は、目下の事情では不可能である事を、遺憾ながらと通知することが必要となった」と伝える。」(荒正人、前掲書)


1月16日

漱石、予定より2日遅れて香港を出発。


つづく



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