2025年3月28日金曜日

大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定    

 

桂太郎

大杉栄とその時代年表(447) 1903(明治36)年6月9日~15日 7博士事件 「彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。・・・」 より続く

1903(明治36)年

6月16日

クロバトキンが離京して旅順に向おうとしているところへ、露帝から勅電が到着し、彼はしばらく日本にとどまらざるを得なくなった。国務顧問官ペゾブラゾフが旅順に到発する前に、日本を離れてはならないというのである。ペゾブラゾフは主戦論者の旗頭で、鴨緑江沿岸の森林伐採に巨大な利権を有し、クロバトキンの報告に影響されぬうちにアレクセーエフの戦意を固めておこうとしていた。やむなくクロバトキンは須磨、明石に遊んで時間をっぶし、さらに九州を経て6月28日、ようやく長崎から巡洋軽アスコリに坐乗して離日した。

6月16日

ドイツ、帝国議会総選挙、社会民主党が第2党に。

6月16日

米、ヘンリー・フォード、フォード・モーター社設立。

6月17日

粗製樟脳・樟脳油専売法公布。10月1日施行。

6月17日


(漱石)「六月十七日(水)、井上勝太郎(微笑)から『白扇会会報』への寄稿求められて、投稿用紙送って来たので、十三句送る。「無人島の天子とならば涼しかろ」「能もなき教師とならんあら涼し」など心境を詠む。

六月十八日(木)、曇。住宅の設計考える。転居して、夏中勉強しようと思う。」(荒正人、前掲書)


6月18日

内田康哉駐清公使、奉天・大東溝の開放を清国に促す。

6月19日

上海愛国学社、中国教育会離脱。

6月19日

台湾、日本の植民地支配に反発する住民が蜂起、宜蘭庁の樟脳製造所を襲撃。

6月19日

幸徳秋水「開戦論の流行」(「万朝報」)。非戦論、愛国心過熱批判。東大7博士に関して、「いたずらに流行に雷同し、人心の煽動につとめるのは、吾人のふかく遺憾とするところ」と健康な社会理性の回復を論説。


「兵は凶器である。戦争は罪悪である。多数生民の平和と進歩と幸福とを愛する者は、あくまでもこれに反対しなければならぬ。日清戦争の結果が、いかにわが国民に多大の苦痛と腐敗を与えたかを見る者は、あくまでもこれに反対しなければならぬ」


6月19日


(漱石)「六月十九日(金)、晴。午後、寺田寅彦来る。他に来客(不詳)中で会わない。

六月二十日(土)、雨。午後、寺田寅彦来る。『文庫』の写生文などについて話す。岩田静夫(巌次郎)来る。

六月二十三日(火)、晴、寺田寅彦来る。松根東洋城(麻布区笄町、現・港区麻布、柳原邸内)に手紙を出し、以前から上京のことを聞いていたが、会いたいから何時でも訪ねて来て欲しいと伝える。」(荒正人、前掲書)

6月19日

英、第6回シオニスト会議。スイス・バーセル。ユダヤ人の祖国をウガンダにする提案。会議参加者の間で意見衝突。

6月21日

清国、学生の革命運動禁止される。

6月22日

参謀総長大山元帥「朝鮮問題解決に関する意見書」上奏。朝鮮を守るため満州のロシア軍駆逐。参謀本部次長田村怡与造少将が策案。軍令部は伊東大将はじめ全員賛成海相山本権兵衛は戦備未然のままの開戦に反対

6月22日

山本周五郎、誕生。

6月23日

御前会議、小村外相、「対露交渉意見書」説明。満韓問題につき対露交渉開始決定

政府から桂首相、小村外相、山本海相、寺内陸相、元老として伊藤博文、山縣有朋、大山参謀総長、松方正義、井上馨の計9人が出席。但し、「韓国ノ領土ハ其ノ一部タリトモ、如何ナル事情アルニ拘ラズ、露国ニ譲与セザルコト」と談判方針に明記。

「開戦決意ノ誓約」と言われるもので、4月21日「無隣庵」決議の再確認

小村外相は、「対露交渉意見書」により満州・韓国問題について「直接ノ交渉ヲ試ミ以テ時局ノ解決」を図る、と述べる。


「今日ハ既ニ其ノ機熟シタリト云フベク、若シ今日ヲ空過セバ……大局己ニ去リテ憾(うらみ)ヲ万世ニ胎(のこ)スニ至ラン」


外相は、「満韓交換」方式を基礎とする交渉を提案して、全員の諒解を得た。

談判要領についても、開催地を東京にすることのほかに、


「満州ニ於テハ、露国既ニ優勢ノ位置ニ在ルヲ以テ、多少之ニ譲歩スルコト」


という一項がつけ加えられた。

しかし、「意見書」には以下の文言もあり。


「露国ヲシテ之ヲ承諾セシメンコトハ極メテ難事卜思考スルニ付、一旦之ヲ提議スル以上、万難ヲ排シ飽ク迄我ガ目的ヲ貫徹スルノ決心ヲ以テ着手スルコト、最モ肝要ナリト思惟ス」


談判方針として、

「一、露国ガ約ニ背キ満州殊ニ遼東ヨリ兵ヲ撤セザルニ就テハ、此ノ機ヲ利用シ、数年来解決シ能ハザリシ韓国問題ヲ解決スルコト。

一、此ノ問題ヲ解決スルニ当り、韓国ノ領土ハ其ノ一部タリトモ、如何ナル事情アルニ拘ラズ、露国ニ譲与セザルコト」

6月23日

(露暦6/10)ロシア、工場スターロスタ法、公布。

6月24日

桂首相、官邸に伊藤・山県元老を招き海相山本権兵衛を立会人にして、対露交渉の大役を果たせないとして辞意表明、2人のどちらかに首相を引きうけて貰いたいと提案(桂の奇襲)。両元老共に反対。

25日、閣議、全員辞意固める。

7月1日、桂首相、辞表奉呈。公表されず後継など秘密裡に進行。桂は病気を理由に葉山の別荘に篭る。

2日、天皇、辞表を却下。

伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての宮内大臣田中光顕の「一案」が、伊藤以外の元老間で決定、桂内閣存続・桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立

「一案」:伊藤元老を枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」(政党関係者は枢密院に入れないという内規)。

伊藤の棚上げ工作。事前に山縣を通じて伊藤を政友会から外すよう天皇に工作。山縣は政党内閣に反対、元老の政党総裁就任にも反対のため桂の工作に乗る。しかし、桂にとって対伊藤のための山縣の存在意義、伊藤を外した後は山縣も必要なくなりその影響力も減退する

6月24日


(漱石)「六月二十四日(水)、第一高等学校で、狩野亨吉に会い、担任の三年生には、点数で問題になる生徒いないと伝える。

六月二十五日(木)、曇。午後雨。午前八時過ぎに眼覚める。第一高等学校の「点数会議」欠席する。東京帝国大学の場合は、点数調べ未了なので欠席する。」(荒正人、前掲書)


つづく

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