樋口一葉の日記のご紹介。
一葉は、この頃の日記に「塵中日記」という名を付ける。
先月に引き続き、今月は明治27年2月をご紹介してます。
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竜泉寺町で雑貨・駄菓子を商う一葉一家。
明治27年を迎えて、この年、一葉は22歳となる。
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明治27年(1894)2月23日
糊口的文学の方向を変えて、商いで生活を維持しようとして行き詰まった一葉は、捨身の大胆な行動に出る。
「秋月」という偽名を用い本郷真砂町の天啓顕真術会本部に観相家久佐賀義孝(30歳)を訪ね、細民生活からの脱出を期して救済を求めるが、久佐賀は一葉の申し出を慰留。
彼の言葉は、結果的に一葉の心を文学に向けさせ、店を閉じる決意を促すことになる。
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「久佐賀はまさご丁(チヨウ)に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。
うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。
学あり力あり金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人のちかづきにとて、引合せする人もなければ、我よりこれを訪はんとて也。」
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○現代語訳
(浮世に世捨人ともいえるこの体を、どこの流れに投げ込んだらよいのか。
学問もあり力もあり金力もある人によって、面白おかしく、きれいに、勇ましく世の荒波を漕ぎ渡ろうとして、もちろん見ず知らずの人と近づきになろうとしても、紹介してくれる人もないから、自分からこの人を訪問しょうとするのである。)
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一葉は、2月11日付「東京朝日新間」に載った天啓顕真術会の広告を見て相場を教えてもらおうと思いつき、「秋月」という偽名を使い、本郷真砂町に久佐賀義孝を訪ねる。
広告では、易学の一種の観相によって、身上の吉凶を占い、商売の勝利術指南、相場などの予言、病気の鑑定をするという。
「受鑑諸君より受納せし礼状実に山の如く」ともいう。
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久佐賀義孝:
元治元年(1864)熊本城下に生れ、禅・易学を修めた後、朝鮮に渡り、季節学を研究し、清・インド・アメリカ合衆国を研修旅行して明治十九年に帰国し、本郷で天啓顕真術会を創設。本部は本郷区真砂町32にある。
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「東京朝日新聞」2月11日付の広告:
「顕真術は天地四季の活動変化妙用法に拠て物体物質に関係ある系線引力の盛衰気候正変数理の出没等よりして人体幽明の事柄は勿論筍も宇宙万物有機上凡て最初の起因を求め未然の結果過去の状況現在の如何を瞭然火を見る如く顕真する一大奇術」とある。
新聞には、全国にわたる久佐賀の会員のおびただしい数が宣伝されていた。
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遠山景澄著「京浜実業家名鑑」(明40・12刊)には、「君亦予言に妙なり人身の吉凶相場の高低一として適中せざるはなし世人以て神となす」とある。
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以下、日記「ちりの中」より
「我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍る。
あはれ広き御むねは、うちにやどるべきとまり木もや。
聞たまへ、先生。うきよの人に情はなかりけるものを、わがこゝろよりつくり出てたのもしき人とたのみ、にごれるよをも清める物とおもひて、我れにあざむかれてこゝに誠を尽しにき。
・・・今は下谷の片ほとりに、あきなひといふもふさはしかるまじきいさゝか成る小店を出して、ここを一身のとまりと定むれど、なぞやうきよの苦しみのかくて免(ノ)がるべきに非らず。
老たる母に朝四暮三のはかなきものさへすゝめ難くて、我がはらからの佗び合へるはこれのみ。すでに浮世に望みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の為のみ。
さらば一身をいけにゑにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや。
されども貧者一銭の余裕(ユトリ)なくして、我が力にて我がことを為すに難く、おもひつきたるは先生のもと也。窮鳥ふところに入たる時ばかり人もとらずとかや。
天地(アメツチ)のことはりをあきらめて広く慈善の心をもて万人の痛苦をいやし給はんの御本願に思(オボ)し当ることあらば教へ給へ。いかにや先生、物ぐるはしきこゝろのもと末(スエ)、御むねの内に入たりやいかに。」
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相場をしたいが金がないので助けてほしいという。
一葉は本気で相場をやりたいのではなく、この事業家から、生活打開の智恵を得るか、或は生活費を引き出せないかと考えたのではないか。
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日記「ちりの中」の続き
「我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食かたゐの末こそは、終生の願ひ成けれ。
さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中をつくらんとて、朝夕もだゆる也。
つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。
破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。
要する処は好死処(ヨキシニドコロ)の得まほしきぞかし。」
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痛々しい程、切実かつ大胆な一葉である。
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久佐賀は、一葉の申し出を慰留し、相場はやめるべきと言う。
「あらゆる望みを胸中よりさりて終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき」と諭し、「自然の誠にむかひて物いはぬ月花とかたる世界、即ち文学の道に進むことを勧める。
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帰宅後、久佐賀に出そうとした一葉の手紙の下書
「にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来り厄難度々のぞみて人しらぬ苦るしみにこゝろを痛めつゝ猶此よを捨てもはてぬは或る大きなる望につながるればに御坐候を我天性の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れのうちに死するうぢむしと同じかるべしとはさても情なき生れに御座候はずや」
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○その後の展開
訪問の5日後、一葉の礼状に対し、久佐賀からは、一葉との交際を望み、梅見の誘いが来る。
一葉は、「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣きをさぐるによしなく」と断り、「梅見の同行は、かれに趣向あるべし。我れは彼が手中に入るべからずとほゝ笑みて返事したゝむ」と日記に記す。
しかし一葉は、その後も久佐賀とは1年ほど交際を続け、久佐賀は一葉を料亭に誘ったり、6月には、「貴女の身体は小生に御任せ被下(クダサル)積りなるや否や」と妾にならないかと申し出たりする。
一葉は久佐賀の誘いや要求に対し、言葉巧みに身をかわしている。
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一葉が生涯に「関係した」唯一の男性が久佐賀だという評論家もいるそうだ。
私は、プライドの高い一葉にそれはないと思う。
また、もしそうであれば、その間くらいはお金の苦労はなかった筈だと思う。
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ただ、これ以降の作品「暗夜」「たけくらべ」「にごりえ」に幅と深みが出てきたという事実はあるそうだ。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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