2010年11月6日土曜日

東京 一葉記念館 たけくらべ記念碑 樋口一葉旧居跡 吉原大門の見返り柳 吉原神社 吉原弁財天

東京、台東区立一葉記念館
(樋口一葉の龍泉寺町の旧居跡近く)
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前の小公園には、記念碑がたくさんあります。
展示物は豊富だし、販売されている「資料目録」はよくできています。

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たけくらべ記念碑
「たけくらべ」は、龍泉寺町時代の生活の中から生まれた作品
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樋口一葉旧居跡
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一葉がこの地に移転したのは、「糊口的文学からの脱却」のため。
(「一葉日記」から)
「人つねの産なければ常のこゝろなし。
手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌(エンソ)なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝこゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ
いでや是より糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(ソロバン)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。」(「日記」明治26年7月1日)
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そして、明治26年(1893)7月20日(一葉21歳)
下谷区下谷龍泉寺町368番地(大音寺通り、現茶屋通り)に転居。
ここで雑貨や駄菓子の商いをする。
人力俥宿と隣り合う2軒長屋の左側。近くには酒屋伊勢屋、魚屋魚金、西澤道具建具屋など。
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下谷龍泉寺町とは・・・:
幕末には、茶屋22軒が吉原に遊ぶ客達を迎え妓楼に導いていた。
維新後、廓の水道尻や非常門の出入りが、酉の市の日だけに制限されると、茶屋は姿を消して、廓の中に仕事を持つ兼業者が多く住む商家の町に変わる。
人口は増加し、明治20年代には維新直後の4倍に近い約2千人がこの界隈に居住している。
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一葉一家の移転先は、新吉原遊廓の西側、揚屋門(非常門)に突き当たる大音寺通りに面するところ。
上野方面から吉原に通うには、この大音寺通りから揚屋門の手前でお歯黒溝に添うように北へ曲がり、日本堤へ出てから見返り柳を目印に大門へ入るという道順となる。
大音寺通り(現・茶屋町通り)周辺には10軒長屋、20軒長屋、30軒長屋が建ち並び、貧しい人々が暮らしていた。
一葉宅前の2間(3.6m)幅の狭い道路を、廓通いの客を乗せた人力車が駆け抜ける。
夕方に廓内の仕事に出かける「廓者」や廓相手の商売や内職をする者が多い。

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商売は、初めの内は順調であったが、翌年1月になると近くにライバル店が開業し、しだいに売り上げは減少してゆき、商売は行き詰まる。
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日記や仕入帳などによると、開店当初は、主として雑貨類の1日の売上げが40銭~60銭、月に15円ぐらい、それに要した仕入れ金額は、9月が11円、10月が売上げも伸びて15円ぐらい。11月には増えて17円となる。
売上げ規模は、この仕入れ額に3割程度のマージンを上乗せした程度と想定される。
9月~10月頃は雑貨頬が主に売れていたが、11月以降は子供相手の駄菓子、小間物に変っている。
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文学活動としては、転居前からの「文学界」との関係も深まり、平田禿木(のちには馬場孤蝶も)との交流が続いている。
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そして遂に、明治27年年5月1日、10ヶ月間に龍泉寺町での商売を切り上げ、
一葉の終焉の地となる本郷区丸山福山町4番地(文京区西片1丁目17番)に転居。
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この3月頃の、行き詰った一葉の心の内。
「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。
人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。
すめる家は追はれなんとす。
食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。
かくていかさまにならんとすらん。
死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。
千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。
岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か」
(感想「いはでもの記」明27・3)
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吉原大門にある見返り柳
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吉原神社
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吉原弁財天
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