2023年2月22日水曜日

自宅近くの桜と梅 公園の河津桜が五分咲き 白旗神社の枝垂れ梅が八分咲き 他に老木白梅 2023-02-22

2月22日(水)晴れ

自宅近くの桜(河津桜)や梅(白梅、枝垂れ梅)

▼河津桜が五分咲き

 


▼白梅(老木を大胆に剪定したもの)



▼東戸塚駅前の白旗神社の枝垂れ梅(八分咲き、満開) 無粋な電線が気になる、、、



“異次元”の少子化対策 京都大学柴田悠准教授「2025年頃までがラストチャンス」(日テレ);「内閣府の統計で、日本で生まれる子どもの数が減り続けた結果、2025年頃からは20代の人口が急激に少なくなるとわかっている」 「結婚支援や子育て世帯の経済的負担を軽くする制度など比較的すぐにできる「即時策」と、賃金上昇や働き方改革など抜本的な「長期策」があり、それらを同時並行で早急に行う必要がある」 「「即時策」として、高等教育の負担軽減と保育園にすべての1,2歳が通うための「定員増」と「保育士の賃金引き上げ」「保育の配置基準(保育士1人が担当するこどもの数)の改善」」 「お金と時間にゆとりができ、それが将来も続くと思えてはじめて結婚や出産ができるのではないか」

 



 

〈藤原定家の時代279〉文治6/建久元(1190)年7月12日~9月27日 頼朝上洛の準備整う(宿所は旧頼盛邸跡) 鎌倉や京都で大雨洪水 「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) より続く

文治6/建久元(1190)年

7月12日

・昌寛(しょうかん)、頼朝上洛のための宿所新造の奉行として上洛。昌寛は、治承4年(1180)の挙兵以来頼朝に従い、京都への使者などを務めており、おそらく頼朝の推挙で京都六勝寺のひとつ成勝寺の執行(寺務責任者)になっていた。

後日、昌寛からの報告で、京都の宿所は平頼盛の旧跡(六波羅)に決まった。

「法橋昌寛使節として上洛す。これ来十月御上洛有るべきの間、六波羅に於いて、当時御亭を新造せらるべし。仍って奉行たるなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月15日

・頼朝、勝長寿院で万灯会を修し平氏の冥福を祈る。

「今日孟蘭盆の間、二品勝長寿院に参りたまひ、万燈会を勤修せらる。これ平氏滅亡の衆等の黄泉を照らさんがためなりと云々」(「吾妻鏡」同日条)

7月17日

・藤原実房が左大臣、藤原兼雅が右大臣、藤原兼房が内大臣となる。

7月17日

源(久我)通親、中納言に進む。翌日、兼左衛門督・検非違使別当(翌年2月1日、別当を辞任)に就任。

8月3日

・河内の地頭の横領、及び糠屋有季の狼藉の件で、足利義兼等その行方を探すことを下知される(「吾妻鏡」同日条)。

8月3日

・源雅頼(64)没

8月17日

「甚だ雨。夜の入り暴風人屋を穿(うが)ち、洪水河岸を頽(くず)す。相摸河の邊の民家一宇(いちう)河尻に流れ寄る。宅内の男女八人 皆以て存命す。各(おのおの)、棟の上に居たと云々。奇特な事也」(「吾妻鏡」同日条)。

「暴風大雨、暁より更に殊に太だし。終日止まず。鴨川・桂川、各々以て洪水。近年この類少なしと。」(「玉葉」同日条)。

8月19日

・板垣兼信(甲斐武田党武田信義の子)、所領没収、隠岐島配流。遠江質侶荘で不当を働いた為(「吾妻鏡」同日条)。

8月28日

「院の廰官康貞、内々宿意有るに依ってか。民部卿経房・右大弁宰相定長等の事を二品に訴え申すなり。戸部は希有の讒臣なり。諸人彼の為損亡すべし。右大弁はまた大蔵卿泰経朝臣に同意するの凶臣なり。三河の守範頼これを執り申す。二品更に承引し給わず。両人共良臣の聞こえ有るの上、関東の事連々伝奏するの間、未だその不可を知らず。努々この事口外に及ぶべからざるの由、参州に諾せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月14日

・藤原定家(29)と左大将良経、良経第にて「花月百首」披講。慈円がこれをきく。

「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫」は、『新古今集』に入集

9月15日

・頼朝上洛のため「御路次の間の事、諸事奉行人を定めらる」。先陣隨兵は和田義盛(小太郎)が奉行し、後陣隨兵奉行は梶原景時(平三)。御厩奉行は、千葉常胤四男「千葉四郎胤信」、八田知家(前右衛門尉)が任じられる。大江広元は、中原親能とともに「六波羅御亭(ぎよてい)事」ならびに「諸方贈物事」を担当する。

その他、「一、御物具の事 三浦の十郎義連 九郎籐次 一、御宿の事 葛西の三郎清重 一、御中持の事 堀の籐次親家 堀の籐次親家 梶原左衛門の尉景季 同平次景高 一、六波羅御亭の事、並びに諸方贈物の事 掃部の頭親能 因幡の前司廣元」(「吾妻鏡」同日条)。

9月16日

・畠山重忠(次郎)、頼朝上洛の供奉のために武蔵より鎌倉に到着。10月2日、上洛の先陣を申し付けられる。

9月16日

「この日伊勢太神宮、新造宮に遷御の日なり。」(「玉葉」同日条)。

9月20日

「・・・御上洛の事、内々思い企てると雖も、諸国洪水の折に依って、右大弁宰相の奉書有り。・・・洪水の事誠に驚き聞こし食す。一国もこの難を免がれざらんか。凡そ左右に能わず。但し上洛に於いては、更にこの事に依るべからず。今に上洛せざれば、朝暮待ち思し食すの処、今年また空しく止めをはんぬるは返す々々遺恨なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月21日

・大江広元、「(頼朝の)御入洛以前、京都において沙汰を致すべく」頼朝に先立って鎌倉を発ち京へ向かう(広元、四回目の上洛)

9月14日

・定家と左大将良経、良経第にて「花月百首」の中から十首ずつ撰んで歌合。.俊成が勝負を判じ、兼実は慈円とともに簾中でこれをきく。

9月27日

「院より定長の奉行として仰せ下されて云く、流人三人(兼信・重隆・重家)、未だ配所に赴かず。二位卿上洛以前に、慥に追い下すべきの由沙汰を致すべしてえり。官並びに使の廰に仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

「巳の刻、重ねて院宣到来す。流人の事、殊に沙汰を致すべし。件の流人配所に赴くの後、参洛すべきの由、頼朝卿申せしむと。・・・」(「玉葉」同28日条)。

つづく

2023年2月21日火曜日

「所得倍増」 いつの間にか → 「資産所得倍増」に化ける。 では、その資産所得の現状値は?と質問すると → 財務大臣「データを把握してない」 ← その場しのぎのゴマカシなの!   

 



 

〈藤原定家の時代278〉文治6/建久元(1190)年4月8日~6月29日 建久改元 女御任子(兼実娘)が中宮となる 一国平均役の収取体制再建(財政問題の課題) 

 


〈藤原定家の時代277〉文治6/建久元(1190)年2月4日~3月20日 足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される 西行(73)、河内の弘川寺にて没 出羽国置賜郡・成島荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を大江広元に与える より続く

文治6/建久元(1190)年

4月8日

・慈円「一日百首」成立

4月11日

・建久改元

4月14日

・一条能保室(46、頼朝の姉妹)、没。

4月18日

「美濃の国犬丸・菊松・高田郷等の地頭乃貢を対捍する事、同国時多良山地頭玄蕃の助蔵人仲経神事に従わざる由の事、在廰の申状に就いて、院宣を下さるるの間、二品御下文を遣わさるる所なり。 下す 美濃の国犬丸・菊松・高田郷の地頭等 右犬丸・菊松の地頭(字美濃の尼上)、高田郷地頭保房等、私領の如く知行し、所当以下の勤めを致さざるの由、在廰訴え申すに依って、院より仰せ下さる。仍って勤めを致すべきの由度々下知す。猶以て対捍するの間、重ねて仰せ下さるる所なり。然れば度々の院宣その恐れ少なからず。今に於いては、件の両人の地頭職、他人に改補すべきなり。早く郷内を退出すべきの状件の如し。以て下す。 文治六年四月十八日」(「吾妻鏡」同日条)。

4月19日

・九条兼実(42)、太政大臣辞任。

4月19日

・成勝寺執行昌寛(頼朝の奉行を度々務めた後家人)、越前の鳥羽・得光・丹生北・春近4ヶ所を知行し、伊勢内宮の役夫工米(式年遷宮の費用)納入を全て済ませたとされる(「吾妻鏡」同日条所載の注文)。4ヶ所は京都白河に建立された六勝寺の一つの成勝寺領ではなく昌寛は地頭職。

「造太神宮の役夫工米地頭未済の事、頻りに職事の奉書有り。神宮使また参訴するの間、不日に沙汰を致すべきの旨下知し給う。子細有る所々に於いては、今日京都に注進せしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

4月22日

・後鳥羽帝の生母藤原殖子に七条院の院号宣下

4月26日

・女御任子(九条兼実娘)が中宮となる。 

28日、立后の儀。定家、参仕。

4月29日

・大江広元、藤原俊兼・平盛時とともに造大神宮役夫工米(やくぶくまい)を地頭が納入していない所領に対する成敗の沙汰を奉行する。

この年、頼朝は、平和状態の回復だけでなく、財政問題を含めた国家秩序の再建にも力を入れた。伊勢神宮の式年遷宮等のような、国家規模で取り組まなくてはならない重要な行事のための費用を荘園公領の別なく賦課する、いわゆる一国平均役の収取体制を再建することは、国家財政問題の中で頼朝が最も力を注いだ課題の一つである。

頼朝が特に重視したのは、いかにして地頭御家人たちを一国平均役の賦課に協力させるか、という問題であった。

この時朝廷に注進された役夫工米未済所々のリストには、広元自身の所領である伊勢国小倭(こやまと)荘(小倭田荘)の名が見える。同荘を含め9ヵ所に及ぶ伊勢国の広元所領は、文治3年(1187)3月30日に作成された伊勢国在庁注進状の中でも公卿勅使駅家雑事(くぎやうちよくしうまやぞうじ)未済の所領とされている。

5月

・従三位皇太后宮権大夫の四条家の季隆、没。正三位権中納言の隆房が後継。隆房の正妻は、建礼門院徳子と最も親しい同母妹。建久初年頃、建礼門院は大原から善勝寺に移る。善勝寺は、四條家の家の寺で法勝寺西南に位置している。四條家の家長は、「善勝寺長者」と称し、善勝寺を領有・管理。女院の善勝寺止住は30年近く続いた模様。

5月3日

・藤原定家(29)、中宮任子八社奉幣の奉幣使となり稲荷社に参る(「玉葉」)

5月12日

「加賀の国井家庄の地頭都幡の小三郎隆家不義の事、仙洞より仰せ下さるるの間、今日下知を加えしめ給う。平民部の丞盛時これを奉行す。 井家庄内都幡の方、地頭と号し方々に不当を致すの間、領家の所命を用いず、京下の使者を受けず。所務を押領し、士民を冤陵す。況や自名の課役、一切その勤めを致さざるの由、院より仰せ下さるる所なり。所行の至り、奇怪極まり無し。直に地頭職を停止すべきと雖も、先ず下知し遣わす所なり。自今以後領家の命に違背せしめば、地頭職を停廃せしむべきなり。その上隆家の身も重科を遁れ難からんか。仰せの旨此の如し。仍って以て執達件の如し。 五月十三日 盛時(奉る)」(「吾妻鏡」同日条)。

5月28日

・慈円「宇治山百首」成立

6月25日

・藤原定家(29)、「一字百首」を詠む。

同26日、「一句百首」。定家の勧進で慈円等も詠む(「拾玉集」)。

6月29日

・頼朝、後白河院へ、「天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく侯事なり。しかるに家人を大切と存じ候いて、御定に背き候わんとは、さらに存ぜず候事なり」(「吾妻鏡」同日条)と述べる。院に対する頼朝の忠誠心を示す。

「諸国地頭等の造太神宮役夫工米の事、多く以て対捍有るの間、造宮使頻りに子細を申すの間、重ねて仰せ下されをはんぬ。仍って日来その沙汰を経られ、且つは地頭等に触れ仰せられ、且つは請文を進せらると。・・・の中相模・武蔵は近境に候の間、能く下知を加えしめ、早速究済の勤めを致し候いをはんぬ。自余六箇国は、その程を相隔て候が故、国務沙汰人に申し付けるの間、先例を守り沙汰を致せしめ候か。・・・遠江の国の事、謹んで承り候いをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

2023年2月20日月曜日

小学校英語、韓国は日本より130時間長く 海外留学3倍差 グローバル教育・政策を読む 各国に学ぶ(上)(日経 会員限定)

 

伝説的ミュージシャン獄中死で勝利的和解、受け継いだ「自由と解放へのメッセージ」(2023年02月18日) / 伝説的ミュージシャン伊藤耕はなぜ刑務所で死んだのか 真相を追求する妻の思い(2020年04月11日) ; 弁護士ドットコム   

H3ロケット開発遅れ・ジェット旅客機挫折は日本の有能「理系人材」不足が原因(現代ビジネス);「打ち上げようとして打ち上げられなかったのだから「打ち上げ失敗」は明白なのに、想定内の事象だから「計画中止」だというのは、いかにも官僚的詭弁に思える。ご飯論法にも似てるし、撤退を転進に言い換えるのと重なるし、そういえば米軍も墜落を「激しい着陸」、事故を「できごと」と言ってた」(松本創) / 「鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられる予定でしたが、ロケットは打ち上がりませんでした。」(NHK) / 打ち上げ中止「H3」会見で共同記者の質問に批判相次ぐ ロケットを救った「フェールセーフ」とは ← フェールセーフの実験したのか? / 「あり得ない」「敬意のかけらもない」 H3打ち上げ中止、JAXA会見で反発広げた「記者の捨て台詞」        



 

〈藤原定家の時代277〉文治6/建久元(1190)年2月4日~3月20日 足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される 西行(73)、河内の弘川寺にて没 出羽国置賜郡・成島荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を大江広元に与える   

 


〈藤原定家の時代276〉文治6/建久元(1190)年1月3日~1月29日 後鳥羽天皇(11)元服 定家(29)従四位下 泰衡の旧臣・大河兼任の乱(千葉常胤・比企能員に追討命令) 兼実(42)娘任子(16)、後鳥羽天皇(11)に入内(4月26日、中宮) より続く

文治6/建久元(1190)年

2月4日

・頼朝、諸国御家人に10月上洛予定である旨を通知し、随兵その他の準備をするよう指示。

「来十月御上洛有るべきに依って、随兵以下の事、諸国の御家人等に触れらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月11日

・足利義兼が辞任した上総介の後任として、平親長が任ぜられ、目代等国務を行う。

「上総の国は、関東御管領九箇国の内たり。源義兼を以て国司に補任せらるるの処、去年御辞退の間、正月二十六日、遠江の国と同日国司(平親長)に任ぜらる。仍って今日目代等国務すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月12日

・足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される。

「各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と。仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、多宇末井の梯有り。件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。」(「吾妻鏡」同日条)。

「大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと。」(「吾妻鏡」3月10日条)。

2月22日

「造伊勢太神宮役夫工米の事、諸国の地頭等未済有るの旨、去年十二月師中納言の奉書到着するの間、日者沙汰を経られ、今日御請文を奉らると。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月26日

西行(73)、河内の弘川寺にて没。辞世「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

藤原定家(29)、西行逝去を悲しみ良経・公衝と贈答歌一首

2月23日

・千葉胤正・葛西清重・堀親家ら、奥州平定の旨を鎌倉に発す。


3月2日

「五位蔵人光綱を召し、前の大僧正公顕を以て、天台座主に補すべき事、御燈斎を過ぎ、明後日(四日)宣下すべし。予め上卿已下催し儲くべきの由仰すなり。」(「玉葉」同日条)。

「この僧正は二品御帰依の僧なり。八十一の老後この慶賀有りと。」(「吾妻鏡」同10日条)。

3月9日

「法金剛院領怡土庄の事、地頭職を去り進せしめ給うべきの由、度々院宣を下されをはんぬ。而るに奥州征伐の後仰せに随うべきの趣、先日御請文を献らるるの間、義経・泰衡滅亡しをはんぬ。然れども猶能盛法師知行し難きかの由御沙汰有り。院宣を下され今日到来すと。 ・・・是非を云わず、地頭を止めしめ給わば宜しかるべき事か・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月15日

「左近将監家景(伊澤と号す)、陸奥の国留守職たるべきの由を定めらる。彼の国に住し、民庶の愁訴を聞き申し達すべきの旨、仰せ付けらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月16日

・藤原定家(29)、石清水臨時祭舞人家隆と和歌を贈答。

3月20日

・大江広元、鎌倉に帰参。

「去年冬、御使として上洛するところなり。二品(にほん)申さしめ給う条々、ことごとくもって勅答あり。つぶさにその趣を言上(ごんじよう)す」(『吾妻鏡』)。

「頼朝の戦争」を朝廷に追認させるために働いた広元の功に報いるため、頼朝は新たな占領地の中から、出羽国置賜(おきたま)郡・成島(なるしま)荘・屋代荘・北条荘・寒河江荘の地頭職を広元に与える。


つづく



子どもが成田悠輔に「老人が自動でいなくなるシステムを作るとしたらどうやって作りますか?」と質問して、、、 / 成田悠輔が「集団自決」を「社会保障改革」として論じている、、、相手は自民党議員の古川俊治と村井英樹 / 成田悠輔、ニューヨークタイムズの取材には集団自殺論はメタファーだと言ってたのに、動画では「メタファーじゃない」「ファッションとしてのハラキリは成立し得る」とか言い切ってる / 成田悠輔「高齢者は集団自決した方がいい」NYタイムズが発言報じて世界的大炎上「この上ないほど過激」(FLASH) / 成田悠輔さんの高齢者集団自決発言、ニューヨークタイムズで1250万ビューの世界的炎上 / 「シュピーゲル」(独)にも / 「Business Insider」にも / 「デイリー・メール(英)」にも / 韓国、ベトナム、トルコ、フランス、スペインでも        

 

 

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〈関連記事〉

 成田悠輔って、こういうヒトだったんですね → 「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」 「高齢化が進む日本社会『解決策は安楽死』」 / 肩書が、「イェール大学助教授」から「イェール大学助教」に (「助教授」は「準教授」っぽく見せるための手段だったのか?)