2008年11月10日月曜日

天正10年6月 信長の最期 「人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」 光秀、燃え尽きる


写真:阿弥陀寺(撮影08/01/02)
京都市上京区寺町通り今出川上ル鶴山町
当時は上京区上立売大宮付近にあり、本能寺の変を聞きつけ駆け付けるが、信長は自害し家来が遺体を焼いたあと。灰を貰い受ける。
翌日は二条城(但し場所は烏丸御池あたり)にて信忠ら百余の遺体を貰い受け埋葬。
何故か、天下をとった後の秀吉には従わない。
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* 謹告 *
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ご訪問戴き有難うございます。
本記事は、2010-02-06以降、「本能寺の変」として大幅に充実させ進行中です。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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■天正10年6月「人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」(「未完の黙翁年表」より)
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天正10年5月
5月27日
・織田信忠、京都より森成利(森蘭丸)へ、近々信長の中国方面出馬あり予定の堺の見物を遠慮し、信長上洛を待受ける信長御諚を得て通達するよう要請(「小畠文書」)。29日、森成利、信長上洛出迎えの者たちに「御迎各無用」の旨を通達(「兼見卿記」2)。
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5月27日
・明智光秀、愛宕山愛宕権現に戦勝祈願。何度もおみくじをひく。謀反の前々日。28日、愛宕山愛宕山西坊で.連歌百韻興行。里村紹巴(じょうは)・同昌叱らと戦勝祈願の連歌会を催す。
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愛宕百韻
(発句)「ときは今天が下しる五月哉」(光秀)、
(脇句)「水上まさる庭の夏山」(行裕)、
(三句)「花落ちる池の流れをせきとめて」(紹巴)。
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細川藤孝=信長打倒メンバー説
行裕の脇句は、1年前の天正9(1581)年4月12日の丹後宮津での連句会(連衆は光秀と秀満父子・藤孝・忠興と興元父子・行裕・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野道是)で藤孝が詠んだ句「夏山うつす水のみなかみ」のひっくり返しの句。
「天正9年の連歌会」=「愛宕百韻」の主旨は、信長を討つことで、愛宕には藤孝も参加する予定であったことを示す。
藤孝が「愛宕百韻」に欠席したので、亭主行裕が藤孝の気持ちを推量して、前年の藤孝の脇句を本歌取りの元句に選ぶ。
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□「ときは今天が下しる五月哉」:
「天が下しる」は「天皇が天かを支配する」との解釈(津田勇)。
治承4(1180)年5月23日宇治川の合戦、承久3(1221)年5月10日後鳥羽院の決起、元弘3(1333)年5月10日足利高氏の京都入り。朝廷を蔑ろにする平氏政権を下す源氏武将の出陣が五月であることを踏まえての句とする(津田説)。
謀反の意思がわかるような句をわざわざ詠むことはありえないとの批判あり。
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5月27日
・秀吉に水攻めにされている毛利方、安国寺恵瓊を通じ、備中・美作・備後・伯耆・出雲5ヶ国の織田方への譲渡を条件に備中高松城将兵を助命する要望書を秀吉に申し入れる。
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5月28日
・細川忠興、一色義清の丹後弓木城を落とす。
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5月29日
・信長、上洛。70人(前年3月以来の上洛)。午後4時、本能寺入り。
吉田兼見は信長を出迎えるため山科まで出向き数時間待つが、信長は現れず、正午頃には雨も降り出す。信長到着前には森乱(蘭丸)が出迎え無用と知らせたので、急いで帰宅。粟田口まで出かけた勧修寺晴豊も帰宅。
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5月29日
・家康一向、大坂に下り、ついで堺に到る。
松井友閑、堺での家康一行接待の分担を決め手配。
家康一行、津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊る。
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5月29日
・明智光秀、中国出陣のため弾薬・長持を西国へ発送(「川角太閤記」)。偽装工作・逡巡説などあり。
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5月29日
・四国攻めの大将神戸信孝、堺の北の住吉着。副将丹羽・信澄は大坂、蜂屋は岸和田に軍を集結。
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5月29日
・オスマン朝ムラト3世の王子メフメトの割礼を祝う大祭礼。
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6月
-・能島・因島・毛利氏連合軍、来島へ総攻撃。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出。
後、秀吉の四国征伐では先鋒をつとめ、兄の得居通之と共に小早川隆景指揮下で活躍。
鹿島(現北条市)を居城に、風早郡(現北条市付近)・旧領野間郡と併せ1万4千石、兄・通之も風早郡に3千石の所領を与えられる(来島「海賊」、秀吉によって大名に取り立てらる)。
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6月1日
・信長、博多の豪商島井宗叱(室)・神谷宗湛らを招き本能寺の書院で茶会を開く。茶道具38種や名物を安土から持参し参集した者達に披露。
権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊、正親町天皇・誠仁親王勅使として信長に面会。
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信長は、「4日に西国に出陣するが、いくさは造作もないことだ」(「天正十年夏記」(勧修寺晴豊日記「日々記」))と上機嫌で話し、晴豊は「なかなかの聞き事である(よく云うことよ)」と書く。三職推任について返答せず。
信長は12月に閏を設けたいと述べるが、晴豊は皆も反対していると返答したと記す。
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その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に面会。
この日は宮廷における皇族を除く関白以下全員と五摂家(摂政・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司)を筆頭にほぼ全員の堂上公卿(昇殿を許された四位以上の公卿)40数人が顔を揃える。
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○公家衆:
関白兼左大臣藤原内基、太政大臣近衛前久、右大臣兼内大臣近衛信基、前関白九条兼孝、前内大臣二条昭実、鷹司信房 聖護院道澄 今出川晴季 徳大寺公維 飛鳥井雅教 庭田重保 四辻公遠 甘露寺経元 西園寺実益 三条西公国 久我季通 高倉永相 水無瀬兼成 持明院基孝 山科言経 庭田黄門 勧修寺晴豊 正親町季秀 中山親綱 烏丸光宣 広橋兼勝 東坊城盛長 五辻為仲 花山院家雅 万里小路充房 冷泉為満 西洞院時通 四条隆昌 中山慶親 土御門久脩 六条有親 飛鳥井雅継 中御門宣光 唐橋在通 竹内長治
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□6月1日付け信長の祐筆楠長諳が鳥居宗室に宛てた「御茶湯道具目録」(「仙茶集」)によれば、信長は安土から持って来た秘蔵の名物茶器を披露。九十九茄子・珠光小茄子・紹鴎白天目・小玉澗の絵、薫なしの花入、宮王釜など38種の名物茶道具。
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▽信長誘き寄せ説:
(吉田兼見が)、完成した本能寺御殿の披露も兼ねて、信長所有の茶器・名物を公家衆に見せてはどうかと村井貞勝に提案。兼見の裏には誠仁親王?
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□「信長、尾張より起り、常に四方を平定するを以て志となす。虚美(きょび)を喜ばず。廷臣或は征夷大将軍たらんことを勧む。信長曰く、『吾れ何んぞ室町の故号襲ぐをなさんと』」(「日本外史」)
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□フロイスの証言。
「毛利(氏)を征服し終えて日本の全66カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた」(「フロイス日本史」3)
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6月1日
・徳川家康・梅雪一行、堺で、朝は今井宗久、昼は津田宗及、夜は松井友閑から茶の湯の接待を受ける。
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6月1日
・安国寺恵瓊、毛利方に無断で清水宗治と面会し、切腹を促す。
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6月1日
・午後4時頃、丹波亀山城の明智光秀のもとへ、中国出陣準備ができ次第閲兵を受けるため上京せよ、との信長命が飛脚で届く。光秀軍1万3千、丹波亀山城発。
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午後6時頃、光秀軍、亀山の東、柴野に着。
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夜、光秀は謀反を決意し、重臣の明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐に打明ける(謀反決行直前に限られた重臣にのみ打明ける)。
亀山から中国へは三草山を越えるが、引き返し東に向きを変え、兵には老の山へ上り山崎~摂津へ向かうよう伝え、先に相談した武将達に先鋒を命ず。
老の山へ上り、右の道は山崎天神馬場~摂津国の街道へ、左へ下れば京に出る道。左に下り、夜明けに桂川を越える。
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○明智左馬助:
光秀の娘婿、「弥平次秀満」、福知山城主。
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○斎藤内蔵佐(内蔵助利三):
もと稲葉一鉄(良通)に属し後に光秀に仕える。「今度謀叛随一也」(「言継卿記」天正10年6月17日)と記され、謀反における役割の大きさがうかがえる。義妹は長宗我部元親に嫁ぐ。末娘は徳川家光の乳母の春日局。
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6月2日
【本能寺の変】明智光秀の謀反。本能寺の信長(49)・二条城の信忠、光秀の急襲により没。信忠、父信長を救出しようとするが果たせず、自刃。次男織田勝長は戦死。
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本能寺の位置:(旧本能寺、南蛮寺、二条御所の位置)
「四条坊門西洞院の本能寺」と呼ばれ、北は六角堂、南は四条坊門通、東は西洞院通、西は油小路通に区切られる位置。周囲4町(約436m)と云われる。現在の本能寺(寺町御池)からは西1km・南300m。
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「信長公記」(改行を施す) 
□「六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。ここを左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。
既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。
信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を、下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。
透をあらせず、御殿へ乗入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て、御厩より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、切って出で、森乱・森力・森坊、兄弟三人。(26人名前略)討死。御台所の口にては、高橋虎松、暫く支へ合わせ、比類なき働きなり。
信長、初めには、御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」(「信長公記」)
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光秀の兵、信長の宿舎・本能寺を取り囲み、四方より乱入。信長も小姓衆も下々の者達が喧嘩を始めたのだろうと思うが、ときの声を上げながら、鉄砲を撃ちかける音。
信長「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」。
森長定「明智が者と見え申し候」と報告。
信長「是非に及ばず」。
「透(すき)をあらせず、御殿へ乗入り、両御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」(何が起きたか知るや、御堂に手勢を集め臨戦体制をとる。是非を論ずるまでもない、戦うのみ、という意味)。
信長は初めは弓で、弦が切れてからは槍で応戦、肘に槍傷を受けたため退き、殿中奥深く入り、内側から閉ざし自害。(「信長公記」)
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①「湯殿」(信長の御殿)で信長の側にいた小姓衆、
②「表御堂」(寺の本堂)で寝ずの番をしていた小姓衆、
③「御厩」で厩番の武士・中間衆。表御堂の小姓衆はすぐに信長の側に駆けつけ主君を守る体制。厩にいた武士(矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五)・中間衆24人が最初に敵に向い討死。
「御殿の内にて討死の衆」27人(森乱丸・力丸・坊丸の3兄弟(可成の345男)を始めとする小姓衆、町屋にいた湯浅甚介・小倉松寿など)。
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○脱出した人:
①島井宗叱(室)・神谷宗湛ら、床の間の絵、弘法大師筆の千字文の軸を持って本能寺を脱出。
②信長の身辺に付添っていた女性たちも生還。「女共比時まで居り候て、様躰見申候と物語り候」(池田家文庫本「信長公記」)。
里村紹巴、二条御所の誠仁親王脱出のために輿を用意。光秀の指図か?。
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□「本城惣右衛門覚書」(光秀家臣の惣右衛門:本目城(京都府園部町)の野々口西蔵坊の配下として本能寺に一番乗り。1640(寛永17)年、90歳近くで書き上げる):
「・・・のぶながさまニはらされ申す事ハ、ゆめ(夢)ともし(知)り申さず候、その折ふし、たいこう(太閤)さまぶつちう(備中)ニ、てるもと(輝元)殿御とり相(取合)ニて、それへ、すけ(助け)ニ、あけち(明智)こし申し候、山さき(崎)のかたへとこころざし候へバ、おもいのほか、京へと申し候、我等ハもその折ふし、いえやす(家康)さま御じやらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存し候、ほんのふ寺といふところも申さず候、・・・」(光秀の兵士達は家康襲撃と理解していた)。
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□勧修寺晴豊「天正十年夏記」によると、
未明、家来袖岡越中より光秀の本能寺攻めを知らされ、二条御所に駆けつける。
村井貞勝に誠仁親王、晴豊妹「お阿茶々の局晴子」を始め親王一家の脱出をかけあう。貞勝が了解し、親王一家と女房衆、飛鳥井雅教ら公家衆10人が脱出。
夕方、御所を見物に行くと、数かぎりない死体があった(記述には信長への気懸かり、光秀への怒りは全くない)。
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○フロイス:
①入京に先立ち火縄銃の発射準備を命ぜられた明智の兵士は「信長の命により明智が信長の義弟三河の王(家康)を殺すのであろうと考えた」とある(1582年11月5日付報告)。
②デウスのおかげで信長は全国制覇をここまで遂げられたのに、自分の力だと錯覚し傲慢になった。だからデウスは、自分を拝ませるようになって、命を19日しか与えなかった、と記す。(「イエズス会日本年報・上」)。
イエズス会の教会(南蛮寺)は本能寺の東200mにある。
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□「1582年6月20日水曜日のことであった。兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていて本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達するや、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。
ところでこの事件は街の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こった何らかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。
我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの仕度をしていた司祭に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。
次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したものだと言った。
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明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部ではこのような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。
そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である薙刀という武器を手にして出て来た。
そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。
我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず骨と言わず灰燼に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである」(「日本史」)。
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信忠自害
二条妙覚寺(本能寺の北北東約600m):織田信忠(26)、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、村井貞勝の進言に従い下御所(二条御所:妙覚寺東約200m)に移る。
妙覚寺の兵500、本能寺救援に間に合わなかった信長馬廻500。奮戦。
明智勢は、二条御所隣の近衛前久の屋敷の屋根から弓と鉄砲で攻撃。
誠仁親王らを避難させた後、午前9時、信忠は鎌田新介の介錯で自害。逃亡を勧める家臣に、雑兵にかかって死ぬより自刃を選ぶと決断。
村井貞勝親子3名・金森長近嫡男忠次郎長則、菅屋長頼、猪子兵介、野々村三十郎・福富平左衛門(長篠の鉄砲隊)、毛利新介(桶狭間で義元を討つ)、討死。
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・朝、家康一行、信長に合うため堺を出るが、変報を知らせるため堺に向かう京の豪商茶屋四郎五郎と遭い、一旦帰国を決意。宇治田原に向かう。
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・この日は四国攻撃本隊(最高指揮官神戸(織田)信孝)の大阪出陣日。
「一、三七様(信孝)、五郎左衛門(丹羽長秀)殿、四国へ六月二日に渡海あるべしとて、住吉浦にて馬印も舟に立申候ところに」(「細川忠興軍功記」)。
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・昼頃、備中に向かっている細川藤孝・忠興父子、但馬竹田で変報に接し引返す。
細川家家臣米田求政の家来早田道鬼斎(早足で1時間に11km歩く)が、相国寺門前の米田の屋敷で察知した光秀謀反の知らせをもたらす。(「細川家記」)
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・未刻(午後2時頃)、吉田兼見は粟田口で大津方面に向う光秀に会う。
光秀は信長本拠地の近江制圧を優先する。大坂方面の押えに勝龍寺城に溝尾勝兵衛を置く以外は全軍を近江に移動。瀬田城の山岡兄弟を勧誘するが、兄弟は瀬田橋・瀬田城を焼いて退散。
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・午後4時、瀬田城主山岡景隆、光秀の安土進軍を阻止しようとして瀬田の大橋を焼き払う。夕、光秀、坂本城入り。
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・前田利長(21)、夫婦で上洛途中、近江勢田で変報を聞く。夫人(信長の娘・永姫)を尾張荒子に避難させ、信長の婿同士の蒲生賦秀(後の氏郷)らと共に信長の夫人達を日野城(中野城とも。滋賀県日野町)に匿う。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。
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・午後10時半、播州三木城(兵庫県三木市)の前野長康(秀吉家臣)に細川藤孝より密書が届く。
長康は秀吉に、「藤孝が光秀より同心の誘いがあったが、これに合力しない旨の心底を告げて来たので、まず丹後は味方であろう」と秀吉に速報(吉田蒼生雄全訳「武功夜話」)。後、忠興娘が長康嫡子に嫁ぐ。藤孝の迅速な行動。
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この日付の光秀の美濃野口城(大垣市野口町)西尾光教宛の勧降工作書状。
「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まされるべき候。委細、山田喜兵衛尉申すべき候。恐々謹言」(「武家軍紀」所収文書)。
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信長父子の悪虐:
新王都安土を原点とする新秩序形成の兆し(伝統と社会秩序の破壊)。
①正親町天皇の譲位強要・皇位簒奪計画、
②京暦(宣明暦)への口出し、
③平姓将軍への任官、
④職太政大臣近衛前久への暴言、
⑤国師号を持つ快川紹喜の焼殺、などを挙げる論者あり(小和田哲男)。
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・武田氏の急な滅亡により、信長周辺が手薄になったこと(関東経営に部将を派遣)、信長・信忠・家康が上洛すること、滝川の関東経営についで近い将来西国経営を任されることへの嫌悪など、光秀に謀反に踏切らせる機会を与える。(藤本正行)
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・(日時不詳)光秀は中国陣にある右近は味方と確信し、右近の妻・家臣らも光秀に従うとの偽りの返事をする。光秀は右近より人質もとらず。しかし、右近は秀吉・信孝と共に光秀討伐を決意。
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・(日時不詳)変直後、安土の教会にいたオルガンティーノは沖の島に脱出、更に坂本に赴く。坂本で高山右近の小姓宅に泊る。この小姓が、光秀に味方するよう要請する高山右近宛て伝言を持参して右近を説得するようオルガンティーノに依頼。
オルガンティーノは日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送り、日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語ではこの暴君(光秀)には仕えないようにと書く(中国攻め動員で出陣していた右近は、大坂から戻り高槻城を固める。秀吉とは西宮で合流)。オルガンティーノは、坂本城で光秀息子より通行証を下付して貰い、小姓の同行もあり、無事京都の教会に到着(「日本史」5)。
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6月2日
・羽柴秀吉に包囲されている毛利の忠臣清水宗治、自分の自決を条件に城兵の助命を懇願。

6月2日
・佐々成政、柴田勝家・前田利家らの来援で上杉方中条景泰の拠る越中魚津城を落とす。勝家は4日に「変」を知る。
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6月2日 
・高野山攻めに赴いた織田勢、信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
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6月3日
・明智光秀、近江・美濃の諸将に降誘を勧める。
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6月3日
・細川父子、丹後に戻り、忠興の妻・光秀の娘の玉を丹波三戸野の茶屋に移す(この時、細川父子は、秀吉に対して光秀の求めには応じないことを伝えている)。
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6月3日
・大政所・称々、東草野谷から美濃広瀬に逃げる(「曲谷文書」)。養子金吾(小早川)秀秋(8)、総持寺に隠れる。
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6月3日
・安土城の守将蒲生賢秀、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。
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6月3日
・夜、秀吉、光秀から小早川隆景に宛てた密書を奪い、本能寺の変を知る。安国寺恵瓊らと講和を急ぐ。
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6月3日
・清水宗治、蜂須賀正勝・杉原家次へ、高松城兵助命を条件に切腹を申出る。蜂須賀正勝・杉原家次、清水宗治要請に応え、秀吉が城兵助命を容認し小船1艘に酒肴10荷・上林極上3袋を進上する、明日検使を派遣、清水宗治兄弟・難波伝兵衛尉・末近左衛門尉4名の切腹、清水宗治長男・連枝の切腹はさせない旨を保証。(「太閤記」3)
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6月3日
・信楽で一宿した家康一行、伊賀越えで伊勢に向う(伊賀衆の警護により加太越えを行い伊勢白子から三河へと向かう)。同行の穴山梅雪、家康一行に遅れて出発。途中、山城宇治田原で伊賀の一揆に殺される。
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6月3日
・柴田勝家、上杉方の越中魚津城を落とす。城将中条景泰らは自刃。
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6月3日
・鈴木孫一、信長の死により岸和田城へ退城。
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6月3日
・織田軍(柴田・佐々・前田ら)、魚津城を攻略。 
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6月4日
・秀吉、信長の死を秘し毛利軍と講和。毛利領の備中・備後・美作・因幡・伯耆の譲渡を和睦の条件。備中高松城落城。高松城主清水宗治(46)、兄、近待4人、自刃。秀吉、急ぎ撤退を開始。
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6月4日
・光秀、近江・美濃の大半を平定。
①美濃野口城主西尾光教(元の部下)宛ての勧誘の手紙が知られている。
②長浜城は光秀の勧誘に応じた京極高次・阿閉貞征らが奪取(山崎の後、阿閉は殺され、京極は許される)。
③美濃では信長が追放した安藤守就が光秀に呼応して稲葉一鉄と戦う。
④竹中半兵衛の弟・久作の領内では光秀の示唆による地侍の一揆。
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6月4日
・柴田勝家に「本能寺の変」の報入る。越中では魚津城に本能寺の変の報が届けられ、諸将は撤退。
「柴田以下の諸将、大いに仰天し、陣中、上を下へと騒動し、われ先にと魚津を引取りにけり」(「北陸七国志」)。
前田利家は、その日の内に魚津から放生津(新湊)へ退き、ここから船で氷見へ渡り、夜を徹して居城小丸山城(七尾)へ走る(約80kmを1日で駆け戻る)。
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北陸は一向一揆の残党が各地に身を潜め、能登では、上杉景勝と結ぶ旧畠山氏重臣たちが策動を繰り返している状況。
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6月4日
・家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る。勝頼旧臣に本領安堵状渡す。
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6月4日
・上杉景勝、「変」の報を聞き退却する柴田・佐々・森らの手から川中島・魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。
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6月4日
・この日付上杉家臣の河隅忠清の書状。
「一昨二日・・・一昨日(2日)、須田相模守(満親)方より食(召)仕うの者罷り越し、才覚申す分は、明智の所より魚津まで吏(使)者指し越し、御当方無二の御馳走申し上ぐべき由、申す事候と承り候、実儀候はば、定て須田方より直ニ吏ヲ上げ申さるべき候、・・・・」。
2日に既に越中魚津に使者が到着、遅くとも5月末には、光秀は景勝に使者を派遣したと考えられる。
* 
6月4日
・織田信孝家臣斎藤利尭、美濃崇福寺・瑞龍寺・善福寺千手堂・崇福寺へ禁制下す。
* 
6月4日
・多聞院英俊、筒井順慶の許へ南方衆と井戸一手衆が集結、この日明智光秀の許へ出陣するとの風聞を知る(「多聞院日記」3)。
* 
6月4日
・土橋勢、鈴木城を攻めて放火。
* 
6月4日
・長曾我部元親の使者、教如のもとに派遣される(「宇野主水日記」)。
*
6月5日
・明智光秀、瀬田橋の修理を終えて安土城を占領(蒲生賢秀が明渡す)。財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る。更に、阿閉貞征に長浜城を、武田元明に佐和山城を攻略させ、占領。
* 
6月5日
・織田長益・前田玄以、京都妙覚寺より岐阜城到着。
* 
6月5日
・筒井順慶、光秀に援軍を送る。近江に派兵するが、信孝・長秀攻撃準備を理由に引上げ。
* 
6月5日
・毛利軍、信長横死の急報うける。
* 
6月5日
・大坂城在城織田信澄(28、信長に殺された信長の弟勘十郎信行の子、明智光秀の女婿)、織田三七信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自殺。即刻首が堺の北の端に晒される。
* 
6月5日
・多聞院英俊、伊賀は織田信雄被官衆が開城し「国ハアキタル」という状況、「各牢人衆」が入城、6月4日光秀安土城入城、佐和山城は山崎片家が、長浜城へは斎藤利三が入城、この日筒井順慶が先日山城へ出陣した軍勢を率い近江に移動、光秀と「手ヲ合」わせたとの風聞に接す(「多聞院日記」3)。
* 
6月5日
・「五畿内錯乱」:
一向一揆にとり再起の機。伊勢の一向宗徒は松ヶ崎に集結し、織田信雄は伊勢に釘付け。能登も「一揆の取沙汰」となり、前田利家も釘付け。本願寺は光秀に信長父子討伐を祝う飛脚を送る。
* 
・この頃、蒲生氏郷、顕如へ、光秀近江下向を通知、一向宗徒の協力を得て光秀に抗する意思を告げ、まもなく織田信雄・信孝・家康らも集結予定と通知(「興敬寺文書」)。
* 
6月5日
・午前2時、秀吉は暴風雨の中、西上開始。
*
・この日付、秀吉の摂津茨木城主中川清秀宛書状(この日届いた清秀からの手紙へ返書)。
信長・信忠共に脱出して無事との子供だましの偽情報を流す。ここまでしても、清秀ら諸将を繋ぎとめておきたい秀吉の追詰められた状況を示す。
*
6月6日
・秀吉、備中高松から姫路に到着。小六らわずかな従者と伊部浦から赤穂岬に向かう。「中国大返し」を開始。日暮れ前、赤穂岬着。前野長康が待ち受け、光秀の行動と京畿の情勢を伝える。
* 
6月6日
・明智光秀、安土城入り。上杉景勝に使者を送って後援を依頼。筒井順慶の援軍と合流。近江多賀神社へ全3ヶ条の禁制を下す。
* 
6月6日
・家康、甲斐への対応を図る。
* 
6月6日
・誠仁親王、吉田兼見(勧修寺晴豊と共に面会)へ明智光秀への御使として明日下向し、「京都之義無別義」の厳命を通達する旨を命令(「兼見卿記」)。この勅使派遣により、信長は朝敵に転落。翌7日、兼見は安土に赴く。光秀との会話を「今度の謀反の存分を雑談した」と記述(「兼見卿記」別本)。光秀の行動を謀反であるとの認識を示す。
*
6月7日
・織田長益、岐阜城出奔、堺着。今井宗久別宅潜伏。
* 
6月7日
・明智光秀、安土城に朝廷からの祝いの勅使神祇大副吉田兼見を迎える。
吉田兼見は鈴鹿喜介を以て光秀に下向趣旨を伝達、ついで安土城に入城し光秀と対面、御使趣旨を伝達、朝廷より預かった巻物等を渡す。
光秀はこれらを「忝之旨請取之」。光秀は「今度謀叛之存分雑談」をし、蒲生賢秀が未出頭と伝える。
吉田兼見、退城して城下の町屋に宿泊。「錯乱之間不弁之為体」。(「兼見卿記」) 
*
光秀、山城国上賀茂神社・貴布禰神社へ、全3ヶ条の禁制下す(「賀茂別雷神社文書」)。
* 
6月7日
・この日、誠仁親王居所にて、親王、近衛前久・信基父子、勧修寺晴豊による酒宴。11日にも。三職推任・暦法問題で伝統的秩序の根本的改変を迫られる危機的状況から開放された安堵感か?
* 
6月7日
・秀吉、播磨姫路城着。
* 
6月7日
・この頃、織田信孝、山城大山崎離宮八幡宮・東寺・東福寺・大和法隆寺へ禁制下す。信孝家臣斎藤利尭、美濃六条村河野善超寺西光坊・厚見郡本庄村千手堂善福寺への禁制下す。
* 
6月7日
・丹羽長秀、山城大山崎離宮八幡宮へ下された禁制の遵守を命令(「離宮八幡宮文書」)。
* 
6月7日
・柴田勝家、上杉軍に敗れて越前へ退却。
* 
6月8日
・明智光秀、安土城に女婿明智秀満をおき、坂本城に戻る。明智軍先勢は京都山科・近江大津に布陣。
* 
6月8日
・勅使吉田兼見、安土城より帰洛、光秀より勅使派遣「かたしけなく存候由」の御礼、誠仁親王の二条御所脱出は祝着であった、明日の上洛及び朝廷への「御礼申入」の意向を上奏。
* 
6月8日
・織田信孝家臣斎藤利尭、曽我屋名主・百姓中へ禁制を下す(「超宗寺文書」)。
*
6月9日
【中国大返し】
秀吉1万7千、浅井長政を留守居役とし一部を淡路洲本攻略に向かわせ、明智方の将菅平平右衛門尉を攻撃。姫路を発し播磨明石に着陣。
* 
6月9日
・吉田兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向き、数刻待機。公家衆・摂家・清花が悉く出迎え。(「兼見卿記」2)
* 
6月9日
・明智光秀、安土に弥平次を残し、午後2時、主力を率い上洛。公家・町衆の出迎えは盛大。吉田兼見邸に入り、銀子を禁中及び諸寺に献じ京都市中の地子免除を布告。吉田兼見、光秀へ夕食を進上。里村紹巴・昌叱・心前が相伴。光秀は兼見に禁裏への銀500枚の献上を依頼(兼見が禁裏に持参し、長橋局と晴豊が天皇に披露。禁裏は礼状を鳥羽「なんてん寺<南蛮寺カ>」の光秀陣所まで、兼見に持参させる)。光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣。丹後国宮津城の細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼。
* 
・この日付の細川藤孝の合力を要請する光秀の書状。
光秀の期待に反して、藤孝・忠興(光秀娘婿)は勧誘を断り元結い(髷)を切る。光秀は、せめて大身(重臣)を派遣して欲しいと要請。
①藤孝は剃髪し家督を忠興に譲り、丹後田辺城に隠棲(信長への弔慰、局外中立に身をおく)。弔い合戦をするのではなく、時間稼ぎをする。忠興は剃髪したが、明智支城2を落す。秀吉は7月11日にようやく父子に宛てて起請文を送る(父子が最初から光秀追討行動をとれば、ここまで遅くならなかったのではないか)。
②文面・花押・筆跡ともに真文書でない(立花)。意図的に光秀との交渉を歪曲した事実を後世に残すため。
③光秀の背後に朝廷・将軍などの黒幕がいるとすれば、それを説得材料にするはずだが、それが見えない。
* 
6月9日
・筒井順慶、秀吉上洛の情報を得て、河内出陣中止。居城大和郡山城に米・塩を入れ籠城準備開始。
* 
6月9日
・上野厩橋城の滝川一益のもとに本能寺の変の報せが届く(日付は6/6とも)。
* 
6月9日
・蒲生氏郷、近江常願寺へ全3ヶ条の禁制を下す。
* 
6月9日
・この頃、大和興福寺別会五師釈迦院寛尊、秀吉が毛利氏と和睦し近日上洛する風聞を知る。大坂では織田信澄と和泉から到来した信孝が談合したが「御人数一向無人」である、河内若江城滞在の諸侍筒井順慶へ使者を以て「申合度之由」が到来した、筒井順慶は軍勢を動かしていないので見合しているのかという不審由口遊があり、光秀よりの合力要請の使者がと到来、6月5日より藤田伝五が奈良に逗留している、筒井順慶より秀吉へ使者が派遣され入魂となったという風聞に接す。(「蓮成院記録」)
*
6月9日
・北条氏政の子氏直、上野侵入。
* 
6月10日
・明智光秀、河内に出て筒井順慶の来援を待って京都山崎八幡洞ケ峠に着陣。山城まで出ていた筒井順慶、光秀の使者藤田伝五に同心できない旨を伝え、引き上げる。
* 
6月10日
・秀吉、茨木城中川清秀に書状。
5日、秀吉は書状で清秀に信長・信忠父子が無事との偽情報を流し、清秀が光秀方に付くことを牽制。本状はそれに対する清秀からの返答をうけて出される。清秀は秀吉に味方する旨と、光秀が摂津か河内へ動くとの噂を伝えた様子。秀吉はもしそう動いたならば自分は「一騎駆」で夜中であっても馳せ参ずるとの決意を表明、清秀にも出兵を願う。また、秀吉は、翌日には兵庫(兵庫県神戸市)・西宮(兵庫県西宮市)に達する、領国播磨の守りを固め、高山右近・丹羽長秀と連絡を取り合っていると述べ、勝家の動静までも示して、光秀打倒の布陣が整いつつあることを清秀に訴える。
* 
6月10日
・上杉家臣湯原国信、富山から出撃の佐々成政を撃退。佐々成政一族3名・兵数百余を討取る(「伊佐早文書」)。
*
6月11日
・明智光秀、筒井順慶の説得を諦め洞ヶ峠を引上げ、下鳥羽に移る。急遽、淀城の修理・普請に掛る。
*
・明智光秀、細川藤孝父子に宛てて今後の同盟を確認する誓詞を送る。
* 
6月11日
・筒井順慶、使者を派遣し秀吉に応じることを伝える。郡山城で大和国中与力を集結させ、血判起請を提出させる(「多聞院日記」3)。
* 
6月11日
・秀吉、摂津尼ヶ崎に到着。松井友閑へ尼ヶ崎進軍を報告。大坂の織田信孝・丹羽長秀、光秀の寄騎伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求める。
中川清秀に送った書状では「京都からの知らせによれば、信長公も信忠公も無事に切り抜けたよし…」と書く。
* 
6月11日
・伊勢の神戸信雄、安土攻め。
* 
6月11日
・秀吉軍の一部、山崎付近にまで出て、勝竜寺で足軽同士が衝突。
* 
6月11日
・岡崎の家康、大雨のため出陣を延期。
* 
6月11日
・北条氏政、滝川一益へ、小田原に達した本能寺の変の実否を問う。事実であっても氏政には疑心を懐かぬよう通知(〔「高橋一雄氏所蔵文書」)。滝川方は謀と心得て返事せず、北条氏政・氏直と一戦することで評議一決。「神流川(かんながわ)の合戦」となる。
* 
6月11日
・多聞院英俊、筒井順慶が秀吉へ使者村田某・今中某を派遣、合力の誓紙提出を知る(「多聞院日記」3)。
*
6月12日
・秀吉、池田恒興4千らと協議。高山重友2千山崎、中川清秀2500天王山を先鋒とし摂津富田に着陣。織田信孝・丹羽長秀の参陣を待つ。先手は摂津天神馬場に進出、放火。有岡城の池田恒興父子も羽柴軍に合流。
* 
6月12日
・明智光秀、秀吉の東上を知り急ぎ山崎に集結。天王山を占領しようとするが、既に秀吉方の先鋒中川隊によって占拠。高山重友が山崎を占領。止むなく勝竜寺城に入り守備を固める。
* 
6月12日
・津田宗及、姫路城に秀吉を見舞う。
* 
6月12日
・雑賀衆土橋重治から光秀宛返書。
挨拶も差し上げていないのに、義昭への協力を命じられ感謝する。義昭入洛について、協力する。(追伸で)義昭からの協力要請を受諾した勢力の入洛援助が重要である。作戦は、義昭が指示することになっている。
* 
6月12日
・吉田兼見、光秀の敵が京都山崎より出勢、勝龍寺城西辺りで足軽部隊が遭遇、鉄放戦があったこと、勝龍寺城周辺が放火されたことを知る(「兼見卿記」)。
* 
6月12日
・小早川隆景、清水行宗へ備中高松城における父清水月清の忠節に感状を下す(「萩藩閥閲録」)。
*
13日
【山崎の戦い】
山崎で秀吉軍と光秀軍が戦い光秀軍が敗北。敗走中の光秀(55)、洛南の小栗栖で土民に刺され死亡。
*
光秀軍1万6千、勝竜寺城を出て、桂川支流円明寺川に沿って布陣。
*
昼頃、織田信孝ら、秀吉軍に合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配する。総勢3万5千~4万。
*
午後4時頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊、天王山麓の先鋒中川清秀隊を攻撃。戦端開く。
中川隊が防戦する間に、羽柴秀長・黒田孝高らが援護、並河・松田隊は敗れる。
光秀軍の斉藤利三・阿閉貞征隊、中央の高山隊に猛攻。高山隊は窮地に陥るが、中川・堀隊が左翼から、池田隊が右翼から明智軍の戦闘部隊を攻撃、斉藤・阿閉隊は後退。
光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から、津田・村上隊が左翼から、秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦。
羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入。次第に戦力的な差が生まれ光秀軍は壊滅状態。
*
午後7時頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵700余を引き連れ退却。
秀吉軍、敗走する明智勢を追撃・掃蕩、大軍で勝龍寺城を包囲。
光秀、溝尾勝兵衛ら少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、小栗栖で土民に襲われ自殺。伊勢貞興ら明智軍主将格30余、討死。
* 
・吉田兼見、京都五条口より落武者が愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走する様、逃走途中に一揆に遭遇した模様で「或者討捕、或者剥取」という状態を目の当たりにする(「兼見卿記」)。
*
6月14日
・勝龍寺城、秀吉軍の攻撃を支えられず落城。
*
・秀吉軍の先鋒高山重友・中川清秀ら、丹波亀山に入り、明智光秀の亀山城を攻め落とす。
*
・明智秀満、山崎の敗報を聞き安土城を放棄。単騎湖水渡りを演じ200率い坂本城に向かう。途中大津で堀秀政1,500と遭遇。坂本城に逃れ自刃。
* 
・秀吉本隊、光秀を追って近江に入り三井寺に陣取る。
* 
6月14日
・家康、明智光秀討伐のため岡崎をたち、尾張鳴海に到着。先鋒の酒井忠次は津島に到着。
* 
6月14日
・織田信孝・羽柴秀吉、京都南方の塔の森に達したところ、勧修寺晴豊(正親町天皇勅使)・広橋兼勝(誠仁親王御使)が太刀を手渡し、「一段はやはやとかたしけなき由」を告げ太刀を受け取る(「日々記」)。
光秀の朝敵認定と秀吉・信孝に同等の朝敵討伐者の資格を与える。
* 
・織田信孝、吉田兼見のもとへ家臣津田越前入道を派遣し、光秀銀献上の事実究明を行う。兼見は誠仁親王にこの旨を報告、親王から信孝への使者派遣を依頼。親王は直ちに柳原淳光を派遣。また、兼見は秀吉の奏者施薬院全宗に釈明のため秀吉への取次ぎを依頼。間もなく、信孝から津田越前の追及は自分の知らぬ事との一書が届き、誠仁親王・吉田兼見は大事に至らず。兼見は、子の兼治に礼品を持たせて信孝陣所に派遣。秀吉が信孝の追及を牽制。
* 
6月14日
・織田信孝に追及される近衛前久(さきひさ)・勧修寺尹豊(ただとよ、晴豊の祖父)、出奔、嵯峨に隠れる。前久は剃髪し龍山と号す。
* 
6月14日
・井戸良弘、「裏帰」って山城槙島城を筒井順慶に渡すため井戸重郎と一手衆を出陣させる。これに呼応し越智某・楢原某らも挙兵。(「多聞院日記」3)
* 
6月14日
・大和興福寺別会五師釈迦院寛尊、神戸信孝は美濃を、北畠信雄は尾張を知行するという風聞に接す(「蓮成院記録」)。
*
6月15日
・秀吉、堀秀政に明智秀満(46)の坂本城攻撃を命ず。
秀満、国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡を蒲団に包み、目録を添えて寄手に呼びかけ送り届けさせる。秀満・光秀の妻子ら自刃。坂本城落城。明智一族滅亡。
織田信雄軍、安土城を燃す。
* 
・三井寺の秀吉・信孝のもとに光秀の首級届く。17日、秀吉、首を本能寺に晒す。
* 
6月15日
・筒井順慶、この朝、軍勢1千余を率い出陣。
多聞院英俊、筒井順慶は夕方にの醍醐に布陣したこと、秀吉は筒井順慶の行動を「曲事」としたこと、事変後のことは「惣テ天下ハ信長如御朱印毎事可在之」ということを知る。(「多聞院日記」3)
* 
6月15日
・勧修寺晴豊、本能寺に光秀「むくろ」「首」が晒され見物衆にあふれていた状況、明智与党の首3千が信長自刃跡地に並べられた状況を目の当たりにする(「日々記」)。
* 
6月15日
・井戸良弘、山城槙島城を脱出。荒木清兵衛、槙島城入城。(「多聞院日記」3)
*
6月16日
・秀吉・織田信孝ら、安土に着陣。安土城は焼失。次いで秀吉は長浜に入る。丹羽長秀が佐和山城を陥れる。
* 
6月16日
・秀吉の居城長浜城より山本山城に移った阿閉貞征、1日で落城。
* 
6月16日
・津田宗及、光秀の首を本能寺で見物。
*
6月16日
・北条氏直5万5千、上野に侵攻、滝川勢が布陣する倉賀野を攻撃。滝川勢が応戦。18日、滝川一益軍、本庄の原(埼玉県本庄市)・金窪城(埼玉県児玉郡上里町金久保)で北条氏直に大勝。
*
6月17日
・光秀の老臣斉藤利三(49、としみつ)、近江堅田で捕縛、京都市中引き廻しのうえ六条河原で処刑。
*
〇斉藤利三の母は光秀の妹(利三は光秀の甥)。
利三の妻は稲葉一徹の姪お阿牟(あん)、前々年まで利三は一徹に仕え、一時信長に仕えたあと、光秀に従う。義兄妹は長曾我部元親の正室の石谷氏(その兄石谷頼辰も光秀の家臣)。末娘は徳川家光の乳母春日局(お福)。勧修寺晴豊、「かれなど信長打談合衆也」(「天正十年夏記」:「日々記」6月2日条)。「日向守内斉藤蔵助、今度謀反随一也」(「言経卿記」)。
* 
利三没後、妻お阿牟・末娘お福らは堺に逃れ、今井宗久の支援で利三の妹が正室の長宗我部元親を頼り土佐へ渡る(また、利三の弟石谷兵部光政の娘が、長宗我部元親嫡子信親の正室として嫁いでいる)。
やがて長宗我部家は秀吉と戦い降伏、阿波・讃岐・伊予を取り上げられ土佐1国のみとなる。さらに秀吉命により九州へ出陣、豊後戸次川(べつきがわ、現・大野川)で島津軍に大敗、長宗我部信親と石谷光政は戦死。
次に、信親の後継争いが泥沼化し長宗我部家の御家騒動となり、兄2人を飛び越えて4男盛親が後継となり、反対者は誅戮される。
お福の長兄斎藤平十郎利宗は山崎の合戦後、細川幽斎に預けられ、その後に加藤清正に仕える。
この頃、尾張・美濃の大名衆は秀吉正室ねね(後の高台院)の取り巻きを形成。お阿牟はお福らを連れて上方へ戻り、長宗我部家正室一族として、大坂・伏見の長宗我部屋敷に住み、お阿牟の伯父稲葉一鉄正室が大納言三条西実條(さねえだ)の娘であったことから、尾張・美濃の人脈や公家人脈とも旧交を暖め、新しい人間関係を築いてゆく。
稲葉一鉄の庶子に稲葉重通がおり、この重通の婿養子に美濃十七条城主林政秀の子、稲葉八右衛門正成(まさなり)が入っていたが、重通の娘が一子を残して病没したため、お福が重通の養女となり正成と結婚することになる。お福17、正成26。
* 
正成は、秀吉の甥羽柴金吾中納言秀秋(丹波亀山10万石)に仕える2万石の重臣で、秀秋はその後、筑前名島(なじま)33万6千石の小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぐ。
その後、朝鮮戦役での三成の讒言により小早川秀秋は、越前15万石へ移封、秀吉没後、5大老筆頭家康により旧領筑前名島33万6千石に復す。
関ヶ原で秀秋は転向、関ヶ原後には備前52万石を領封、稲葉正成も5万石となる。
しかし、秀秋は、老臣を殺すなど狂乱し、秀秋を見限る家臣が相次ぎ、正成も秀秋のもとを去り美濃谷口村に隠棲。正成はやがて京・大坂に出て仕官の道を探すが、浪人の身を抜け出せぬどうにもならぬ慰めに若い女に手を出し始める。
この頃、父利三の友人でお福も親しく交遊している京の絵師海北友松(かいほうゆうしょう)が、徳川秀忠と正室お江与の方の嫡子竹千代の乳母に、お福を推薦する者がいるとの連絡が届く。お福は直ちに家を出て、京へ上り三条西の屋敷で推薦者の今井宗薫・南禅寺金地院以心崇伝(金地院崇伝とも称す、家康側近、「黒衣の宰相」と呼ばれる政僧)と面会。
* 
6月17日
・家康、尾張熱田で秀吉が明智光秀を討ったことを聞き、軍を返す。
* 
6月17日
・「政道一段厳」となり「洛中洛外安堵」(「兼見卿記」2)。
* 
6月17日
・秀吉、坂本より水路、長浜城に入る。2泊。
* 
6月17日
・前田利家、山崎での光秀討死を通知した柴田勝家の上洛を賞す。能登での一揆不穏なため軍勢を率いて面会できない旨を通知。
*
6月18日
・吉田兼見、堅田で光秀与党猪飼半左衛門捕縛を知る。
*
6月18日
・下間頼廉、蒲生賢秀・氏郷へ、本能寺の変にあたり本願寺は蒲生氏郷の入魂の意向に満足している、また織田信孝が本願寺へ松井友閑・丹羽長秀を派遣してきたことも通知(「興敬寺文書」)。
*
6月18日
・柴田勝家、柴田軍の乱妨を停止する旨の禁制を近江坂田郡加田荘に出す。勝家は近江長浜周辺を押さえる。
*
6月18日
・甲斐代官河尻秀隆(56)、一揆勢に襲われ、武田遺臣三井弥一郎に討たれる。甲斐の国は領主不在となる。(15日の記述あり)
*
6月19
・織田信孝、大徳寺へ、光秀寄進の銀子を上洛にあたり処分する旨を通達(「大徳寺文書」)。
*
6月19日
・大政所、長浜へ帰る。秀吉、広瀬兵庫に、高山・甲津原・杉野500石を母・夫人の護衛の功として宛行う、また、称名寺性慶に、その先導の賞として60石を宛行う。伊吹上野三ノ宮神社に、母・夫人の避難の礼として菊桐の紋章を贈る。
*
6月19日
・神流川(かんながわ)の戦い。3度目の戦い。
北条氏直軍、滝川一益軍に攻込む。滝川勢は惣社・箕輪まで退却。北条氏直は西上野を押え、信濃に入る。20日、滝川一益は小諸へ退却。更に本領伊勢長島に帰城。
*
6月19日
・前田利家、柴田勝家・佐久間盛政へ、本能寺の変に乗じて温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)らが上杉景勝後援により能登に侵入したため援軍要請(「前田家年譜」)。
*
6月19日
・湯原国信(上杉家臣)、直江与六へ、信長滅亡は本望である、上杉景勝が出撃すれば越中は上杉領となる、佐々成政軍撃退の披露を依頼(「伊佐早文書」)。
*
6月19日
・家康、秀吉の使者から叛乱軍平定の報告を受け、岡崎に戻る。21日、浜松に帰城。
* 
6月20日
・羽柴秀吉、美濃に進み、次いで25日、信孝と共に清洲城に入る。
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6月20日
・神戸信孝、近衛前久成敗する旨を洛中に通達(「兼見卿記」2)。
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6月21日
・真田昌幸、湯本三左衛門尉へ上野我妻城守備を命令(「播磨熊谷文書」)。
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6月22
・神戸信孝・「諸勢」、美濃へ向かう(「兼見卿記」2)。
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6月23 日
・織田信孝、美濃立政寺・大宝寺・常在寺・千手堂・常在寺へ全3ヶ条の禁制を下す。
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6月23 日
・羽柴秀吉、美濃立政寺へ禁制下す。堀秀政・丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃善行寺へ禁制を下す。 *
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6月23 日・顕如、義絶状態にあった教如と和解する旨を庭田重保・勧修寺晴豊に通知(「本願寺文書」)。
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6月23日
・温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)、上杉方遊佐軍の援助により能登石動山へ進軍、荒山に要害構築。24日、前田利家、柴田勝家・佐久間盛政へ援軍派遣を要請。(「前田家年譜」)。
利家・佐久間盛政連合軍は、力で押さえ込む。焼け落ちた石動山山門には千を超える敵の首が並んだという。
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6月24日
・丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃関惣中へ禁制を下す(「梅龍寺文書」)。
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6月25 日
・佐々成政、越中蓮華寺へ全3ヶ条の禁制を下す(「蓮華寺文書」)。
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6月26日
・信濃入りした北条氏直、佐久郡の領主を帰属させる。
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6月27日
・【清洲会議
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継を秀吉の推す織田三法師(秀信)と定める。羽柴秀吉と柴田勝家が対立。信長の2男信雄と3男信孝が家督を争い、信孝を推す勝家が、信長の長男信忠の嫡男三法師を推す秀吉に敗れる。
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①信雄:尾張他、②信孝:美濃、③勝家:越前と長浜6万石、④秀吉:播磨・山城・河内・丹波、⑤丹羽長秀:若狭、高島・志賀2郡、⑥堀秀政:佐和山、⑦池田恒興:池田・有岡・大坂・尼崎・兵庫。
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秀吉は中央の山城をおさえる。
これに対して、柴田勝家は、兄弟対立の信孝を立てることで信雄を秀吉側に追いやり、江北長浜をおさえるだけで、戦略構想の差は歴然。
秀吉は7月8日に浅野長政に検地を命じ、8月7日京都奉行に浅野長政・杉原家治を任命。更に、山城に築城して中央掌握態勢固め。
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勝家は養子勝豊らを派遣し長浜辺りを押さえる。越前から南進する時の拠点を近江に求める勝家の戦略。秀吉は勝家の意向を配慮し、長浜城とその所領を勝家に譲る。勝家は勝豊を長浜城に入れ、勝豊は8月24日に長浜を除く坂田・浅井・伊香3郡について徳政令を発し、新領主たることを明らかにする。
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□フロイスの秀吉評:
「その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた
。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選び抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。」(「日本史」3)
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6月27日
・池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家、堀秀政へ従来通り坂田郡台所入2万5千石(織田三法師丸蔵入)運上を命令。
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6月27 日
・柴田勝家・池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀、高山重友へ播磨能勢郡内に3千石、近江佐久間盛政領内に1千石を知行安堵。
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6月27 日
・顕如・教如が和解。教如、下間頼廉へ顕如の意に違反しない旨を誓う(「本願寺文書」)。
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6月28 日
・三法師家督相続賀儀。
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6月28日
・秀吉、清洲より長浜に戻る。
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6月29日
・明智秀満の親三宅出雲、丹波横山で捕縛。7月2日、処刑。
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6月29日
・多聞院英俊、北畠信雄と神戸信孝の「存分不究」のため諸軍勢は未だ「不散」であることを知る(「多聞院日記」3)。
to be continued to 7,1582(天正10年7月へ)
P.S
「倶舎論」によれば、「天」は「六道輪廻」の6番目、その前の5番目が「人間」。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」の後に続くそうである。最後の「天」は27種類(段階?)あるそうで、「下天」はその一番下だそうです。人間界の50年は下天の一昼夜に過ぎないというのが、「倶舎論」に云う「人間五十年、下天一昼夜」というフレーズの意味で、信長が好んだ幸若舞「敦盛」は、これに由来するもののようです。
人生50年、アッチューま、とは少し違うようです。
以上、受け売り知ったかぶりのオソマツ。 

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