2012年5月1日火曜日

永禄13年/元亀元年(1570)4月 信長の越前遠征 浅井長政の敵対 信長勢の総退却(「金ヶ崎の退き口」)  [信長37歳]

鎌倉 建長寺 2012-04-28
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永禄13年/元亀元年(1570)
4月
・武田信玄、今川の旧臣船手衆を登用し伊豆攻めで戦果。岡部忠兵衛は土屋備前守名乗り武田水軍の頭領となる。
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・武田信玄、香坂虎綱(高坂弾正)に、後事を真田信綱に任せて伊豆の武田軍に参陣を命じる。
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・坂本の大商人香取、信長の越前侵攻について朝倉義景に注進(「越州軍記」)。
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4月1日
・信長、将軍の御所完成を祝って能を催す。
この時、上意として官位昇進をすすめられるが、信長は辞退。
この日、信長、松井友閑邸宅で茶器を実見。今井宗久所持の「松島壺」と「菓子絵」を召し上げる。
2日、信長、千宗易(利休)の手前で薄茶を召す(「今井宗久茶湯書抜」上)。
5日、参内、桜馬場で乗馬見物(「継芥記」)。
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4月5日
・正親町天皇、山科言継へ女房奉書(信長へ勅願所西岡寶菩提院の寺領回復命令を通達)を下す(「言継卿記」)。
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4月6日
・松永久秀、阿弥陀寺清玉上人へ東大寺大仏殿再興についての馳走を賞し「天下無双之大伽藍」として後代までの名誉となる事を通知。
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4月10日
・北條三郎(越相同盟の締結条件、北条家から上杉家への養子、「景虎」)、上野沼田に到着。
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4月10日
・武田信玄、足利義昭側近の一色藤長に条目を送り、勝頼任官と偏諱、京都での武田家出頭人の活動支援を請い、将軍家に駿河で1万疋の御料所を与えると約束。

この日付、西上野の箕輪城城代内藤氏への武田氏朱印状。
領内治安、耕地の確保・開発など勧農事項に及び、この地域での在地支配の進展を示す。
岩鼻(高崎市)の砦の破却判断は地域の耕作の有無によるべき、玉村郷の耕作は荒田のないよう調法すべき、惣社郷の内で争論により荒田が出現しているので双方を説得して耕作に励ませること、西上野では下知なくとも民百姓が安穏に暮らせるよう配慮すべき、在陣留守中には箕輪及び近辺の仕置きに油断なきこと。
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4月13日
・北条氏政3万8千、伊豆相模国境深沢城包囲。北条氏繁居城奪還目的。
駿河滞陣信玄出陣で、氏政、小田原帰陣。
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4月14日
・信長、二条城完成祝い猿楽能興行。
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4月14日
・信玄、海津城の春日虎綱に、信濃・上野の兵をもって上杉軍を牽制するよう命ずる
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4月14日
・ポーランド、プロテスタント各派のサンドミエシ協定。
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4月17日
・江州守山城在番木下藤吉郎1,500、越前攻め陣振れに従い坂本着。
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4月17日
・毛利輝元、尼子氏の属城三笠山城(牛尾城)を落とし、城将牛尾弾正忠を殺害。
18日、熊野城将熊野兵庫、降服。
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4月18日
・飛騨国司三木頼綱、参内、先年(永禄6年3月12日)侍従に任じられた礼に馬・太刀を献上(「御湯殿上日記」)。
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4月19日
・武田信玄、家康へ、信長に同心して上洛する労を慰問し洛内外の「静謐」を祝す(「白崎良弥氏所蔵文書」)。
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4月20日
信長、越前遠征
信長3万、京都進発。家康、同行。三好義長は先発、松永久秀はこの日出陣。摂津池田勝正3千余出陣。飛鳥井雅敦・日野輝資ら公家も出陣。
若狭の武藤上野が幕命に背いたのでこれを討つというのが名目。
この日は坂本を経由して和邇(滋賀県志賀町)に到着。
21日、高島(安曇川町)。
22日、若狭熊川(福井県上中町熊川)泊。
23日、三方郡佐柿(美浜町)国吉城の粟屋勝久館に陣取り武藤上野を降ろす。

遠敷郡熊川では、旧武田家臣の内、逸見昌経・山県秀政・白井勝胤はじめ、内藤・熊谷・香川・寺井・松宮・畑田氏ら「国中に名有る侍ども」は一同に集まり信長を出迎える(「若州国吉篭城記」)。
庶流武田信方は熊川で信長を出迎えず、また浅井・朝倉氏討伐の姉川出陣に際して義昭陣へ参陣するようにとの信長要請にも応じず、この頃から朝倉氏と結ぶようになる。
信長は、朝倉攻めの際に信長を裏切った大飯郡の武藤友益に対し、城郭を破却し母親を人質に取り再び自軍につかせる処置をとるように(「信長公記」巻2)、朝倉攻めに失敗して以降もなお旧武田家臣の殆どを掌握。

信長は前日、参内して天皇・皇太子に暇乞いをしている。
幕府の上意、天皇の勅命、両方を帯びての公認のいくさであった。

その上意と勅命の内容は?
『多聞院日記』には「越前へ手遣い」と書かれ、山科言継の日記には「直ちに若州へ罷り越す」となっている。
7月10日、毛利元就に宛てた朱印状では、この遠征について、
「若狭の国端に武藤(友益)と申す者、悪逆を企つるの間、成敗を致すべきの旨、上意として仰せ出ださるるの間、去る四月二十日出馬侯」
(遠征の名目は、若狭の武藤という国人領主を討伐すること)
とする。
しかし、「かの武藤、一向に背かざるのところ、越前より筋労(きんろう、圧力)を加へ候。遺恨繁多に侯の間、直ちに越前敦賀郡に至って発向侯」
としている。
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4月20日
・丹羽長秀、渡辺太郎左衛門尉の愛宕山供料外畑村の下司職に対する不法を禁止する(「愛宕山尾崎坊文書」)。
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4月22日
・先発木下藤吉郎2千余、金ヶ崎手前佐柿の粟屋越中守の館到着。
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4月23日
・「元亀」に改元。
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4月23日
・信長、革島一宣へ、越前諸浦兵船結集の功績により山城西岡革島の所領を還付。
28日、幕府奉行人諏訪俊郷・松田頼隆、これを通達。(「革島文書」)
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4月23日
・武田信玄、大宮浅間神社に「豆相両州、氏康・氏政滅亡」を祈願し、富士郡~伊豆に出兵。吉原~沼津で北条氏と対戦、垪和氏続(はかうじつぐ)の興国寺城(沼津市)が攻防の中心。
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4月24日
・一色藤長、軍勢結集のため丹後に到着。
25日、軍勢招集命令下す。(「武家雲箋」)
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4月25日
・家康、敦賀にて信長軍に合流。
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4月25日
信長3万、敦賀天筒山城(朝倉部将疋田右近、敦賀市金ヶ崎町、標高171m)攻撃
木下勢、天筒山救援の朝倉勢と交戦、落城。秀吉、柴田勝家らと共に1,370を討取る(「家忠日記増補」)。
佐々成政、鉄砲隊として活躍。
森可隆(森可成の長男。長可、蘭丸長定らの兄、19)、初陣、城に一番乗り、深入りをし過ぎて討死。1日で陥落。
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4月25日
・一色藤長、丹後で軍勢招集命令を下す。
29日、丹波より軍勢を出船させ丹羽長秀方へ状況報告を通達。
30日、坂井政尚・蜂屋頼隆へ、自身が丹後に下向し軍勢結集する状況を報告。(「武家雲箋」)。
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4月25日
・天皇、信長の戦勝祈願。
「(禁裏)内侍所にて、御千度させらるる。御心願のことあり」(「匂当内侍日記」)。
28日、勅命により岩清水八幡宮にて五常楽急百編の法楽。

また、信長陣には、飛鳥井雅敦・日野輝資も同行。
天皇の戦勝祈願・公家の同行により、信長の出陣が朝敵退治と位置付けられる。
この時以来、天正20年3月の武田氏まで、天皇の戦勝祈願・陣中見舞勅令など、信長の政敵は全て朝敵の汚名を着せられる
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4月26日
信長、金ヶ崎城攻撃。城主朝倉景恒(義景の従兄弟)、城明渡し越前へ退去
27日、疋壇(ひきた)城も開城。信長軍は2日間で敦賀郡全域を占領。
木ノ芽峠直前で江北の浅井長政(信長の同盟者)の敵対判明。
28日、信長勢総退却(「金ヶ崎の退き口」)。
殿軍として木下秀吉・明智光秀・池田勝正を金ヶ崎城におく。織田軍の殿軍の木下藤吉郎、金ヶ崎城より撤退。

浅井長政は、同盟者の越前を信長が攻めるとの報に、板挟みになるが、「信長ヲ討テ取ルヘシ」(「総見記」)と結論。越前に向い、信長挟撃を狙う。

「金ヶ崎の退き口」
28日夜、信長は、僅かの馬廻だけを従え南へ向かう。部将たちや従軍していた幕府直臣衆も、信長を追いかけるばかり。
この退陣の最大の鍵は朽木元綱の出方にあった。朽木氏は途中の朽木谷(滋賀県高島郡朽木村)の代々の領主で、幕府の奉公衆。但し、一方では浅井氏から知行の宛行を受けている。
実際は、朽木氏と浅井氏との繋がりは薄く、反面、幕府との関係は深く、かつては上洛直後の義昭が朽木谷の本領を安堵したという事実もある(『朽木文書』)。
また、従軍していた松永久秀が元綱と旧知の間柄で、元綱を説得したともいう。
いずれにしても元綱は逃亡中の信長を歓待して、無事に通してくれた。

「言継卿記」の記録。
「一昨日越前国に於いて合戦これありと云々。信長衆千余人討ち死すと云々」(4月27日条)。
「江州へ六角出張と云々。方々放火すと云々。北郡浅井申し合わせ、信長に別心せしむと云々。仍て越前・濃州等へ通路これ無しと云々。但し越州よりは若州西路往還と云々。」(信長軍最悪の事態)、「信長より自筆書状到来すと云々。金之(ケ)崎の城(敦賀市)渡すの間作事すべし。番匠・鍛冶・をか引等七十人計り下すべきの由これありと云々」(同29日条)。
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4月29日
・佐々木(六角)承禎、近江で挙兵して所々を放火。
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4月30日
・亥の下刻(夜11時頃)、信長、なんとか京都にたどり着く。従う者はたった10人ほどという(『継芥記』)。
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4月30日
・フランス、元宰相ミシェル・ロピタル、モンテーニュより巻頭献呈文を収めた「ラ・ポエシー・ラテン詩集」贈られる。
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