2012年9月14日金曜日

1756年(宝暦6) 盛岡藩の惨状、饅頭会 【モーツアルト0歳】

東京 北の丸公園
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1756年(宝暦6)
2月2日
・郡上一揆。
駕籠訴の5人が、幕府評定所へ呼び出されて出頭。
この月、南宮神社で作った庄屋連判状が藩庁に取り上げられる。
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2月8日
・フランス、ポンパドゥール侯爵夫人(34)、王妃付き女官に任命。信仰の道に進む事を表明。
この頃、ヴァンセンヌ窯をポンパドゥール夫人の館の近くのセーブルの街に移す。
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2月9日
・秋田藩、米価高騰に対応して米を強制的に買い上げ、米座の設置も決める。
16日、飢饉による飢民の救済をはかる。
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2月10日
・南米パラグアイ、先住民グアラニー族蜂起。
スペイン・ポルトガル連合軍3千とその火器の圧倒的威力で全滅。
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2月12日
・幕府、庄内藩へ領内凶作の救助金として、1万両を貸し与える
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3月
・天領で高掛物(たかかかりもの)を免除。
高掛物:
村高に対して課せられた付加税で、天領では伝馬宿入用米・6尺給米・御蔵米入用を高掛三役といい、私領(大名・旗本領)では夫米・夫金・糠藁代など。
免除の条件は1村の高が3年間田畑合わせて5分以上損毛の場合。
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3月24日
・郡上一揆。二日町村(白鳥町)傘連判状が作られる。
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4月
・盛岡藩、幕府が飢饉に対し急を救うための資金を貸し出したから、この月、御救米(おすくいまい)を出すことにした。
4月14日には久昌寺、28日には報恩寺などにおいて飢民に施すための粥(1人に1日8勺)を用意した。
しかし、餓死者は6万余人に及び、馬の斃れたもの2万余匹という(『南部史要』)。

こうした状態は、津軽、八戸、山形、仙台などの諸藩でも同じであった。
その頃、心学の創始者石田梅岩は、飢饉のときの食物として砂粥の炊きかたを教えている。それは、唐箕をもって河原に出、そこの砂をすくつてさらさらと打ちふれば、あとに残るのは珪藻土や雲母のような類である。それを3日間、水に浸してこれを粥に炊くという。「これにても腹はくちくなるものなり」(『都鄙問答』)という彼はいう。

3月頃、1駄(135kg)1貫700文であった御蔵米の相場は、すぐに3貰文に、そして連日暴騰を続け、町で売買する米は5貫文にもなった。
藩は、白米の確保にのり出し、酒造を禁止し、米商の倉庫をおさえ、大豆などの食料をも藩の統制下においた。

9月、僅かに穂をつけた稲を飢えた人々が盗むようになる。
10月中旬頃から飢えた人々の群が城下を流れはじめた。
捨て子が多くなり、落伍して路傍に横たわる者も出てくる。中には、秋田・仙台に流れてゆく者があった。盛岡城下でも餓死する者が現われてくる。
11月~12月、子供を道連れに、川に身を投げて死を選ぶ親が絶えない。

盛岡藩の饅頭会(まんじゆうえ)
宝暦6年(1756)春頃、盛岡城下に「まんじゅう」を売りに歩く若い婦女が横行し始めた。
『自然未聞記』には「十六七年の嫁や娘共、銘々まんじゆうを諸士御町共に売あるく、右まんじゅう名目斗(ばかり)にて、いづれも相続の為、売女する」とある。
また、盛岡では、饅頭会ということが盛んにおこなわれていたとも記されている。
藩では、この饅頭会が年が改まるにつれて盛んになるので、役人を出して、人が集まる祭礼や物見遊山などを厳重に取り調べさせていた。
あれほどの大飢饉で、一村全滅したところもあるというのに、もうそれを忘れて、翌年には、人々は狂ったように物見遊山に出かけている。藩当局はすっかりあきれはてていたようだ。
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・関白一条道香、幕府を配慮して廷臣らの武芸教育を中止させる。
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・ロシア、プロイセン分割をオーストリアに提案。
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4月4日
・郡上一揆、郡中117ヶ村の代表が「郡上郡村々傘連判状」を作る。
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5月
大岡出雲守忠光、側用人となる
小姓役、御側申次役、宝暦元年(1751)1万石を与えられて大名の列に加わる。
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5月1日
フランス・オーストリア、ヴェルサイユ中立防衛同盟締結。イギリス・プロシア協定に反撥。
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5月17日
・イギリス、フランスに宣戦布告。
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5月28日
・フレンチ・インディアン戦争。
北米植民地、フランス、インディアンと提携しイギリスと対抗。
東部のインディアンを全部族巻き込んで全面的戦争突入。
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6月
・フランス軍、地中海のイギリス領ミノルカを攻略。救援に失敗したビング提督は死罪(翌年処刑)。
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6月10日
・ピエール=ジョセフ・カンボン(平原派の政治、「財政のロベスピエール」)、モンペリエで裕福な綿織物商人の家に誕生。
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6月19日
・ベンガル太守シラージュ・ウッドーラ、カルカッタを占領
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6月22日
・スウェーデン王妃ルイザ・ウルリカのクーデタ失敗
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6月23日
・米価騰貴のため米問屋の買占め・高値販売禁止。
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6月24日
・フランス、テオドール・ド・ラメット(4男)、パリで誕生。ピカルディー地方の帯剣貴族、父ルイ・シャルル・ド・ラメット侯爵。
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