江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-05-29
*昭和17年(1942)
12月25日
・夜、帰郷した真田作戦課長は、参謀総長艦艇で、総長・次長・第1部長に出張報告、戦略転換の必要を述べ、統帥部首脳全員が同意。瀬島・首藤両参謀は辻作戦班長に報告、続いて作戦課全員に報告。異講なし。
翌26日、真田大佐が海軍統帥部に方針転換を申し入れ。了解。
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12月26日
・ガダルカナル、潜水艦輸送再開。~1月5日、25トン入り米俵1500俵をカミンボに集積。
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12月26日
・高速研究機キ78・1号機、初飛行成功、19年1月11日までに31回の飛行、最高速度は699.9km
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12月26日
・ジャワ日本語学校第1回卒業式。
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12月26日
・ユーゴスラビア、ビハチで人民解放反ファシズム評議会開催。~27日。ビハチ宣言を発表。
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12月27日
・館陶事件。
済南南方山東省館陶駐屯第12軍第59師団歩53旅団独歩42大隊第5中隊の兵6名、転属不服で飲酒、上官暴行、発砲。
軍司令官土橋一次中将・師団長柳川悌中将ら退役、中隊長引責自殺。
首謀者2死刑、無期1、懲役6年1、禁錮8。
新編成部隊への転属要員を命ぜられた兵6名、営内外で飲酒、週番下士官・中隊付准尉に暴行、中隊長に暴言を吐き、中隊幹部を追って衛兵所を襲い銃を乱射、手榴弾を投擲、隊外で乱暴狼藉。
北支方面軍司令部「舘陶事件ノ概要ニ就テ」による事件発生の第1の原因は、「高度分散配置ノ結果指揮掌握及教育訓共ニ不十分トナリ從ツテ起居其ノ他ニ於テ長期ニ亘リ不軍紀ノ儘放任セラレアリシコト」とされる(軍の広域(高度)分散配置による軍紀弛緩)。
独立歩兵第42大隊は大隊本部を臨淸に置き、東臨道北半分10県の警備を担当し、臨淸~各県の平均距離(直線)は約50㎞で最も遠い所は約80㎞、第5中隊が警備を担当する舘陶県は臨淸~約40㎞にある。
昭和18(1943)年2月、北支那方面軍司令部は「舘陶事件ノ要ニ就テ」を出し、要注意兵対策を指示。
同方面軍は将来対策として、部隊臨時編成時における不良兵排除、優良中隊による部隊単位の編成、不良兵の身上把握による指導監督、転入者の取り扱い(遠隔地に置かず、部隊長の所在地に置く)等、具体的な処置要領を示し、この種事案の再発防止の徹底を図る。
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12月27日
・~29日、参謀本部・軍令部合同図上演習、ガダルカナル島撤退検討。
陸軍側は瀬島少佐・首藤少佐、海軍側は山本裕二中佐・源田中佐。
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12月27日
・フィリピン、秘密工作班プラネット・パーテイー、ゲリラと接触、G2(参謀第2部)連合国諜報局比サブセクション
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12月28日
・真田作戦課長、杉山参謀総長より天皇の侍従武官長への言葉を聞き、日記に書き留める。
「陛下は侍従武官長に対して次のやうに言はれたさうである。本日(28日)両総長から本年度の状況について一括して上奏があつたが、両総長とも、ソロモン方面の情勢について自信を持ってゐないやうである。参謀総長は明後三十日ころ退くか否かについて上奏すると申してゐたが、そんな上奏だけでは、満足できない。如何にして敵を屈伏させるかの方途如何が知りたい点である。事態はまことに重大である。ついては、この問題は大本営会議を開くべきであると考へる。このためには年末も年始もない。自分は何時でも出席するつもりである」(「真田日記」)。
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12月28日
・三井船舶、三井グループから独立
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12月28日
・科学技術審議会設置
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12月28日
・帝国水産統制株式会社創立
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12月28日
・ヒトラー、A軍集団をカフカスより退却させる
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12月29日
・臨時特殊財産取扱令公布
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12月29日
・アルジェ、ジロー将軍、ド・ゴールの会見申入れに対して治安悪化を理由に拒否。
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12月30日
・フィリピン、カリバピ(新生フィリピン奉仕団)発足(総裁ベニグノ・S・アキノ)。軍政を浸透させる為の大政翼賛会のフィリピン版。
行政委員会バルガス委員長の発する行政令により発足する、軍政監和知参謀長が委員会に働き掛けて結成を促す。
創立は、国民的英雄ホセ・リサール処刑の日。
既成政党・市民団体を解消しその成員を繰り込む。
加入員は18歳以上の成人で、翌43年7月には35万人となる。
日本軍発行の手引書には、「もしも国家から要請があれば、カリパビに加入する全市民によって迅速かつ躊躇なく奉仕活動がなされなければならない」と書かれている。
加入員は、山に籠るゲリラを帰農させたり、釈放された捕虜を更正させたり、戦災復旧、民間相互援助などの活動に従事。
また行政委員会各部長官は各地へ遊説に駆り出される。
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12月31日
・参謀本部、作戦の重点をニューギニアに転換する作戦方針決定
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12月31日
・御前会議、ガダルカナル島撤退決定。
「ケ号作戦」(捲土重来の「ケ」)、翌43年2月上旬実施。派兵3万中、戦病飢餓で2万4千が死亡。
永野軍令部総長と杉山参謀総長の上奏内容。
「・・・南太平洋方面今後ノ作戦ハ遺憾ナカラ左ノ如ク変換スルヲ至当卜認メマス ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ、概ネ一月下旬乃至二月上旬ニ亘ル期間ニ於キマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス。爾後ニュージョージヤ島及イサベル島以北ノソロモン群島ヲ確保致シマシテ、速ニ各要地ノ防備ヲ強化シ攻勢防守ノ態勢ラ保持シ・・・(ポートモレスビー作戦は、まだ消滅していない) 南太平洋方面作戦カ当初ノ見透ヲ誤リマシテ事茲ニ到リマシタルコトハ洵ニ恐懼ノ至リニ堪へサル所テ御座居マスカ、今後共陸海軍緊密ニ協同致シマシテ万難ヲ排シテ戦局ヲ打開シ誓ツテ聖慮ヲ安シ奉ランコトヲ期シテ居りマス 右ヲ以テ奏上ヲ終リマス」。
作戦見透の誤りを、軍最高首脳が公式に、天皇の前で言ったのは初めて。
審議2時間の後、天皇の決裁は下りる。
・もう一つ重大な国策、「国民政府への政治力を強化し、重慶抗日の名目を覆す」を、決定。
中国政略は、「対支全面的処理の礎地を確立して、対英米戦争遂行に専念しうる事態の達成に努める」という背景によるとされるが、真の原因は、こうした大義の為でなく、支那事変の武力解決が無理との認識が、政治・軍事指導者の間で常識化してきたから。
この年秋、マラヤ、プィリピン、インドネシアの作戦完遂と、ビルマでのイギリス軍撃滅のあと、重慶政府壊滅作戦(五号作戦)が企図される。
南方、満州、朝鮮、内地から兵力を集め、15師団で四川省を攻撃し、蒋介石に打撃を与えるというものだが、ガダルカナルへの戦力投入は、この作戦を不可能にし、それが戦略転換の引き金になる。
御前会議後、東京に集められた支那派遣軍参謀たちは、軍事作戦から一転しての政略に戸惑いを隠さず、露骨に不満な表情を示す。
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