江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-04
*1769年(明和6)
この年
・会津藩、専売品の漆蝋の減産に伴い、3役所を統合して蝋漆木方とする。
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・田沼意次は、平賀源内のことを聞き、オランダ本草翻訳御用という役を与えて、彼を長崎に送る。
源内は、長崎で珍しい書物を入手し、ヨーロッパの事情なども調べて「御国益にも相成候」(服部玄黄あての手紙)ことがたくさんにあったと報告している。
また、長崎滞在中、天草の代官に天草に良質の陶土が出ることを告げて、それをもって大いに国産の陶器を焼くべしという建言書「陶器工夫書」を書く。
長崎滞在中の翌明和7年には、浄瑠璃のための書きおろし『神霊矢口渡』が上演されている。
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・「名代娘六花撰」など娘評判記の刊行が流行する。
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・広島藩が絹会所を設置して養蚕や絹織物を奨励する。
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・狂歌(滑稽や洒落を旨とする遊戯的な和歌)の流行。
武士の間の流行は、この年、田安家家臣の小島謙之が唐衣橘洲(からころもきつしゆう)を名乗り、自宅で狂歌の会を開いたことによるという。
小島のほか、幕臣の大田南畝が四方赤良(よものあから)、幕臣の山崎景貫が朱楽菅江(あけらかんこう)、秋田藩士の平沢常富が手柄岡持(てがらのおかもち)の名で歌を詠んだ。
また、唐衣橘洲を中心とする四谷連、四方赤良の山手連、朱楽菅江の朱楽連など多くの「連」が結成された。
町人の作家も多く、内藤新宿の商人稲毛屋金右衛門は平秩東作(へずつとうさく)、京橋の湯屋大野屋喜三郎は元木網(もとのもくあみ)、日本橋の商家の番頭中井董堂は腹唐秋人(はらからのあきひと)、吉原の妓楼(遊女屋)大文字屋の村田市兵衛は加保茶元成(かぼちやのもとなり)、小伝馬町三丁目の旅籠屋の糠屋七兵衛は宿屋飯盛(石川雅望)、金吹町の大家白子屋孫左衛門は大屋裏住(おおやのうらずみ)、数寄屋橋近くの汁粉屋の北川嘉兵衛は鹿津部真顔(しかつべのまがお)の名で活躍した。
彼らも、元木網の落粟連、腹唐秋人と大屋裏住の本町連、宿屋飯盛の伯楽(ばくろう)連、鹿津部真顔の数寄連など、連を結成して多くの作品を残した。
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・トマス・ジャファソン、ヴァージニア植民地下院議員となる。
ここでジョージ・ワシントンと出会う。ジャファソンは、父と妻の父から大土地を相続・譲渡されている。
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・イギリス、ジェイムズ・ワット、ニューコメンとセイヴリの蒸気機関に圧縮器をつける改良を行う。
以後、彼はその改良を続ける。これらの機関は鉱山の排水や織物工業の「機械類」の動力などに利用される。
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1月
・幕府、銅貯蔵量不足のため、幕府倉庫である大坂御蔵へ、長崎上納銅・吹銅を300万斤に達するまで年々囲い置くことを命じる。
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・この頃(または67年)、モーツアルト、K.61c (70) レチタティーヴォとアリア「ベレニーチェに。昇る太陽」作曲。
ザルツブルク大司教フォン・シュラッテンバッハに敬意を表したリチェンツァ、ミハイル・ハイドン夫人マリア・マグダレーナのため(?)。
さらに、K.61g 2つのメヌエットを作曲(?)。ただし、新全集は第2曲だけを取り上げている。
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1月4日
・モーツアルト(13)、ランバッハ修道院訪問、交響曲2曲(ランバッハ交響曲)献呈(とされていた)。
ランバッハ修道院には、「1769年1月4日にレオポルト・モーツァルトから贈られる」という交響曲と、同日に「ヴォルフガング・モーツァルトから贈られる」という2つの交響曲が残されている。
モーツァルトから贈られたという交響曲K45a(旧ランバッハ)は実はレオポルトの作で、レオポルトの作とされていたもの(新ランバッハ)がモーツァルトの作であることが判明。
但し、もう一つのランバッハ交響曲も存在している。
1766年3月末、モーツアルト一家の西方大旅行の途次、オランダのデンハーグで交響曲ト長調(旧ランバッハ)(K.Anh.221(45a))作曲。
■『ランバッハ交響曲』の問題の整理
(1)1923年、オーストリアの音楽学者ヴィルヘルム・フィッシャーがモーツァルトの初期の交響曲を再発見したとして楽界に発表。
1767年~69年のモーツァルト父子の第3回ウィーン旅行の帰途、リンツ近くのランバッハのベネディクト派修道院に寄進した『交響曲ト長調』(KAnh221=K45a)の筆写譜が研究された結果、モーツァルト作品ということが再確認され、モーツァルトの交響曲が1曲増えたことになった。
(2)次に、1964年、モーツァルト研究の泰斗ヘルマン・アーベルトの娘で音楽学者アンナ・アマーリエ・アーベルトが、この『ランバッハ交響曲』が、モーツァルトのものではなく父親の作品であり、同じく1769年1月4日にランバッハ修道院に寄進されたレオボルトの同じト長調の交響曲で四楽章をもつ作品の方が、むしろモーツァルトのものだという新説を発表した。
このアンナ・アマーリエ・アーベルトの新説は、1960年代後半~1970年代いっぱい一般に受け容れられた。これが、『新ランバッハ交響曲』である。
(3)1980年、ミュンヒェンのバイエルン国立図書館で、『旧ランバッハ交響曲』の筆写譜で、レオポルトやナンネルルも加わっての手書きのパート譜が発見されるた。
この筆写譜には「ヴァイオリン二、オーボエ二、ホルン二、ヴィオラと低弦のためのシンフォニーア、ザルツブルクのヴォルフガング・モーツァルト作。デン・ハーク、一七六六年」と謳われている。
即ち、『旧ランバッハ交響曲』は、フィッシャーの発表通り、モーツァルトの作品であるが、3度目のウィーン旅行の折ではなく、この西方大旅行の終り近く、オランダのデンハークで書かれたものである。
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1月5日
・モーツアルト一家、ウィーン旅行よりザルツブルクに戻る。
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1月9日
・幕府、前年末からの農民の騒動に対し、各領主に所領を越えての取り締まりを命じる。
「明和六(一七六九)年正月九日に幕府が令を出して、上方筋において百姓が強訴するとて党を結んで村を騒がすという聞えがあるが、先ず鎮めるように計らって置いて、もしなお鎮まらぬ時は、近傍の公料私領に牒して、兵を出してこれを捕え、代官または領主に送れ、但し弓銃は用うるなと命じたことがある。かような強訴があったものと見えるが、その地方その他委細の事は分らぬ。」(辻善之助『田沼時代』)
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1月10日
・ミシェル・ネー(後、ナポレオンの元帥)、モゼール県ザールルイ(現在はドイツ領、当時はドイツ語圏フランス領土)で誕生。父は退役兵士あがりの樽職人というつましい平民家庭の次男。
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1月14日
・ザルツブルク、モーツアルト、「ミサ・ブレヴィス」ニ短調(K.65(61a))作曲
(ニ短調は彼の作品の中で特殊)。ザルツブルク大学教会でのミサのため。
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1月25日
・フランス、デュ・バリー伯爵夫人(26)、ルイ15世の寵姫となり、ルーヴシェンヌ館を賜る。
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1月26日
・ザルツブルク、モーツアルト、トリオ付の7つのメヌエット(K.61b)作曲。
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1月末
・(露暦1月末)キリル・ラクスマン、ペテルブルクに着き、ロシア科学アカデミーでの研究を始める。
前年1768年、自由経済協会論集に「流砂の固定法について」を発表。
3月、自由経済協会正会員28名の1人に選出。
この年、協会論集に「シベリア・ステップにおける植樹(種子による)について」「オロネツ県における小麦の栽培について」発表。
またこの年、ロシア科学アカデミー会員シュレーツァー編「エリク・ラクスマンのシベリア書簡集」刊行。
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