2013年6月3日月曜日
万寿5年/長元元年(1028)7月~8月 平忠常の乱(2) 忠常、占拠した国衙を退去。 追討使平直方・中原成通、下向。
*
万寿5年/長元元年(1028)
7月19日
・この日付け『小右記』には、維衡は伊勢国押領使高橋氏(あるいは高階氏か)や掾伊藤氏を郎等に組織していたとある。
押領使は国衙の軍事部門担当者、掾は在庁官人の有力者である。
これらの郎等は、この月以前に、三河国の下女等26人をかどわかし、両名逮捕のための検非違使が伊勢に下向している(『小右記』)。
*
7月23日
・平忠常追討使に任命された平直方・中原成通は、国衙指揮権・兵糧米徴収権など9ヶ条の権限付与を政府に求めた。
それに対し実資は、申請項目を3ヶ条に縮めて再提出するよう命じたが、9ヶ条の草案を作った成通が書き直しを拒んだため、直方が3ヶ条の申請を作って再提出した。
実資はこの申請3ヶ条をもとに7月23日、坂東諸国に追討使に協力して忠常を追討せよと命じる追討官符を下した。
直方らが申請箇条にこだわるのは、兵糧米徴収などにかこつけて一儲けしようという下心があるからで、実資はそれがわかっているから権限を抑制した。
実資の指示を拒んだ成通と従った直方は不和となり、成通は出発後、母の病気を口実に追討使返上を申し出た。
*
7月24日
・この年、左衛門尉藤原範基(のりもと)は、何者かに「範基は郎等を殺害した」という張り紙を張られ、殿上人や蔵人の間で話題になった。
蔵人頭から話を聞いた右大臣藤原実資(さねすけ)は「もってのほかのことだ。範基が武芸を好むことは万人が許さないことである。「内外共(父方も母方も)に武者の種胤(しゆいん、子孫)に非ず」と記している(『小右記』長元元年(1028)7月24日条)。
父母共に武者の血筋を引いていないから許されないという。
また、盗賊として著名な袴垂(はかまだれ)が、道長や実資の家人で、摂関期に源平の武士達と並び勇名を馳せた大和守藤原保昌を狙ったものの、その勇猛さに舌を巻いたという説話が『今昔物語集』巻25に収められている。
そして、その保昌に対して、「家ヲ継ギタル兵(つわもの)ニモ非ズ」「家ノ兵ニモ劣ラズシテ心太ク、手聞キ、強力ニシテ」などと評し、彼に子孫がなかったのは、「家ニ非ヌ敢ニヤト、人云ケルトナン語リ伝へタルトヤ」と締めくくっている。
イエを継いだ兵でもないのに、武芸で身をたてたから、子孫がいないのだと評されている。
実資がいう「武者種胤」、『今昔物語集』のいう「兵の家」とは、天慶勲功者子孫という意味であり、宮廷貴族の間では、父系・母系で天慶勲功者に連なっていない者がみだりに武芸を好むことは許されないことと認識されていた。
天慶勲功者子孫だけが正真正銘の武士たるの資格と栄誉を享受することができ、また、武士身分は政府・宮廷貴族そして地方国衙が、天慶勲功者を武士と認知することによって成立したといえる。
*
7月25日
・長元に改元
*
7月下旬
・平忠常には政府に敵対する意思はなかった。
忠常は政府の追討方針を知るや7月下旬、内大臣藤原教通(のりみち、頼通弟)・中納言源帥房(頼通養子)らに密書を送って追討中止を懇請するとともに、随兵20~30人を率いて占領した上総国衙から退去し、夷灊(いしみ)山(安房国との国境をなす房総丘陵)に籠もって教通からの返事に期待をかけた。
しかし頼通・実資ら政府首脳に妥協する意思は全くなかった。
*
8月5日
・追討使に任ぜられた検非違使平直方・中原成通、坂東に下向。
この日、ようやく追討使直方・成通は随兵200人を引き連れ、「見物上下、馬を馳せ、車を飛ばし会集すること雲の如し」(『小右記』)という熱狂のなかを坂東に向かった。
同時に政府は、坂東諸国の受領に追討使を支援させるべく、上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅(きんまさ)の孫致方(むねかた、野口実氏による)、甲斐守に追討使の最有力候補であった源頼信、安房守に平維衡(これひら)の子正輔(まさすけ)と、そうそうたる武士を任命した。
常陸介に実資家人の藤原兼資(かねすけ)が任じられたのは、実資の情報収集のためではなかっただろうか。
翌長元2年(1029)2月、東海・東山・北陸道諸国に対して、直方に協力して忠常を追討せよとの2度目の追討官符が出された。
しかし、2年を経ても追討は進まず、坂東諸国は疲弊・荒廃していった。
*
*
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿