エル・グレコ『オルガス伯爵の埋葬』
*スペイン美術の根底にあるもの:「真理」=客観性
「セピーリァにあるベラスケスの銅像に「真理を描いた人」という銘がある・・・、ここでいわれている「真理」とは、今日のことばで翻訳をすれば、おそらくリアリズムということになるであろう。・・・ここでリアリズムは客観主義、あるいは客観性と解した方がいいであろうと思われる。
一般にスペイン美術の根底にあるものを問うとすれば、それは、この「真理」、客観性というものが答えとしてかえって来る筈である。一四世紀頃からすでに、たとえば王や高位の聖職者の肖像を描くとしても、ことさらに美粧をさせたり、偉そうに見せるといった傾きはなかった。そこのところが、他のヨーロッパの美術といささか異なっているのである。」
(例えば)、「エル・エスコリアール離宮に、・・・フェリーペ二世の肖像画がある。これは一七世紀の後半にパントーハ・デ・ラ・クルースという画家の描いたものであるが、この王は黄疸を病んでいたということで、・・・それがその通りに、まことに無類のリアリズムで描かれている。よくも遠慮会釈もなく、この黄疸病みの王は黄疸を病んでいました、として描き切ったものだと思われるほどである。・・・」
スペイン美術の根底にあるもの:宗教的要請、「厳粛かつ、人を脅かすようなもの」「説得」
「それに、もう一つの要素が加わる。それは、宗教的要請から来たものである。・・・ベラスケスの師匠のパチェーコは、多くの文章を書きのこした人であったが、そのなかに次のようなことばがあった。
「キリスト教美術作品の主要な目的は、人々を説得して信仰に向わせ、神のもとにもたらすことである。」
・・・一八世紀に入って、王朝がハブスプルグ家からパリのブルボン家にうつってからは、さしもの異端審問所の力も弱まって来るけれども、一七世紀はまだまだ異端審問所の世紀であったのである。従って、いきおい絵画は厳粛かつ、人を脅かすようなものになって行く。パチェーコの言う「人々を説得して」とは、・・・人々を脅かして、と翻訳してもそうひどい間違いではないであろう。」
スペインの不毛な風景
「・・・スペインの「説得」は、怖ろしいほどにリアルであり、ユーモアの余地がなかった。しかも、イタリアの同類の絵に随伴している「自然」さえもが描かれなかった。・・・
もっとも、スペインの不毛な風景が画家を戸外に招くとも思われないところにも、その一因があったであろう。ベラスケスにしても、彼が描いた戸外の自然は、たったの二点しかなく、これさえも画家がローマに滞在中に描いたものであった。『メディチ家の庭園の星と夕』がそれである。」
「文学との、ほとんど全的な乖離」「想像力は、自然、内部へ内部へと孔をうがつようにして向わざるをえず」
「それからもう一つの理由がある。それは、ムリーリォだけを除いてスペイン絵画の、文学との、ほとんど全的な乖離である。・・・想像力は異端審問官の前で翼をおさめていなければならなかった。
そうして想像力が外部に対しては翼をおさめていなければならないとしたら、想像力は、自然、内部へ内部へと孔をうがつようにして向わざるをえず、それが次第に病的なものになって行くことも、人性の自然である。スルバランのある種の冥想図などは、前に飢えの表現、と私は書いたが、かてて加えて想像力の患いを病的なまでににじませているのである。彫刻なども、主として着色の木彫であるが、これもまた拷問展覧会の如きものである。・・・」
では、エル・グレコにおける、あの極端な主観性はどこから来たのか
「ベラスケスのリアリズム、冷涼な、『セピーリァの水売り』の画中のガラスコップ中の一杯の水のような、冷涼な客観性の背後に以上のような諸条件があったとすれば、エル・グレコにおける、あの極端な主観性はどこから来たものであったか。
それは、もし一言で言うとすれば、彼が外国人であったことから、まず勘定をして行かなければならないであろう。ギリシャ人としてクレク島に生れ、イスラムの色濃い、ビザンチン文化のなかに育ち、ベネチアに赴いてティツィアーノとティントレットに学び、ローマを経てカスティーリアの乾燥した高原へ彼はやって釆たわけである。
・・・おそらく《トレドの秘密》は、そこにあったものであろう。彼はスペインへ来てスペイン語を学び、たまたまギリシャから来た商人のギリシャ語をスペイン語に通訳してやるについて、このことば(スペイン語)を自由にあやつるのに一〇年かかった、と語ったと伝えられている。」
「外国人の方が、新鮮な、別の眼で、その国の本質をとらえて描き出すということは、絵画の歴史にあって何も珍しいことではない。・・・
・・・けれども、トレドのエル・グレコの場合は、やはりちょっと別格であろう。彼がトレドという町を発見し、あるいはトレドが彼を発見しなかったならば、エル・グレコがあそこまでのところ、つまりはスペイン神秘主義と称される、一種底知れぬ井戸のような魂の深みからの汲み上げ作業は、不可能だったのではないかと思われる。」
トレドはグレコに属している
「トレドは古い町であった。・・・ローマ人やゴート族の遺跡、モーロ人ののこしたもの、あるいはまたユダヤ人地区であったことがはっきりとうかがわれる星の型などが眼に入って来るのである。トレドは、マドリードなどよりもずっと古く深く、スペインの歴史を物語っている。」
「グレコはここに住んで、仕事のときや、また食事の際に、一団の楽隊に音楽を奏でさせていたと、ベラスケスの師匠のパチェーコが報告しているけれども、その音楽は、おそらくひどくモーロくさいものであったであろう。しかもその音楽は、イスラム文化の濃い影響下にあったクレタ島のそれからあまり遠いものではなかったであろう。トレドで、キリスト教文化とアラブ文化とは、互いに争いつつ、やがて一つのものにとけあって行ったのである。それはギリシャ人であったグレコには、他に見出すことのおそらく不可能な場所であった。トレドはグレコに属している。
問題は、しかし、彼の描法である。グレコは天才をもっていた、しかし彼は理性を失った、あるいはまた、グレコは気が狂った、などとは、彼が生きているあいだから、すでにつたえられていた伝説である。パチェーコ師なども後者の意見にかたむいていたようである。
・・・トレドに落着いて、そこから抜け出して、自分自身、つまりはエル・グレコがトレドのエル・グレコとして動き出したときから異様な変貌が開始される。」
彼はやはりエル・グレコ(ギリシャ人)なのである
「人物という人物が、まるで拷問台にのせられ、ヤットコか何かで頭と手足をはさみ、それぞれ逆方向にひっぼりつけられて関節という関節が抜けてしまったかのようなことになる。人間が燃え上る焔であるかのような観を呈する。重力の法則が逆転して、地に墜つべき運命のものが、天上へと上昇をする。
そういう彼の絵画もまた、異端審問官の眼をまぬがれなかった。天使の羽が大きすぎる、というところに文句がついた。が、グレコはさいわいに切り抜けている。・・・
・・・
しかしながら、たとえ彼がトレドを所有していたとしても、彼はやはりエル・グレコ(ギリシャ人)なのである。・・・彼はトレドで充分に幸福である。彼の息子のホルヘ・マヌエルは『トレド光景図』の右端に地図持ちとして登場しているし、また『オルガス伯爵の埋葬』に騎士付きの小姓として描かれている。・・・この小姓だけが絵全体の構成とはまったく別に、一人だけぽつんと離れ、孤立してこの絵を描きつつある父親を眺めているのである。」
エル・グレコは画家であった
「それは見れば見るほど奇妙な具合のものである。まず、彼の子供への愛情、といった月並みのところでこの間題は片をつけておいていいのであろう。
グレコの胸中にあって、トレドの町を、いわば氷結したような焔に燃え上らせていたものが何であったか。私も、エル・グレコは、やはりエル・グレコ(ギリシャ人)であったのだ、というところでとどめておきたい。・・・
ベラスケスは画家としての死を死んだものではなかった、・・・が、グレコは、しかし、たしかに画家としての生涯を生きて死んだものであった。彼は画家であった。
多くのデッサンをし、大作のためには外へは出さない習作をつみかさね、しかも完成した作品にも何度も手を入れた。顧客の手にわたすについても、もう一度も二度も手を入れる権利を留保したりもしたものであった。絵は売らない、画料の担保として渡すだけ、という異様な契約をしたこともあった。それらの奇行-と当時思われたものも、狂気伝説をつくりあげるために役立ったかもしれなかった。
しかしそこには、すでに絵師ではない、画家が成立しているのを見ることが出来ると思われる」
17世紀は、スペイン絵画にとってまことに偉大な世紀であった
「エル・グレコが一六一四年トレドで死に、翌々年の一六年にセルバンテスが死ぬ。そうして約半世紀後の一六六〇年にベラスケスが死ぬ。・・・
一七世紀は、スペイン絵画にとってまことに偉大な世紀であった。けれども、スペイン国そのものにとっては、政治的、経済的には、破産状態のまま一八世紀にもち越すことになる。戦争もしばしば行われ、そのたびに負けることになる。オランダとポルトガルは独立し、ナポリは反乱を起し、フランスはパルセローナを占領する騒ぎである。アメリカとの貿易は激減し、人口までが半減する。」
スペイン絵画はベラスケスの死をもって終り、あとはイタリア・フランスの画家に占領される
「そうして絵画そのものも、ベラスケスの死をもって終ってしまうのである。一六六五年にフェリーベ四世が死に、カルロス二世があとをついで、この王も、広大な王宮や離宮の壁を美術品で埋めようとするのだが、地元の絵師、画家だけでは間にあわなくなり、スペインは絵画の分野でまで、イタリアとフランスの同業者に占領されてしまう。・・・
とりわけてナポリのルカ・ジョルダーノなどが親方格としてマドリードへ乗り込んで来たことが、地元の同業者の誇りを傷つけたであろう。このジョルダーノは、しかし、才能ある絵掃きであった。その仕事振りが、「早描きジョルダーノ」という仇名があったほどにスピーディーで、おどろくばかり精力的であった・・・。さらに、宮廷での泳ぎ方、会話で人を面白がらせる術など、なんとも世間智にもたけた人であったらしい。
イタリアやフランスからやって来た、こういう連中に荒しまくられたのでは、誇り高いベラスケスの後継者たちはたまったものではなかった。
マーソ、カレーニォ、コエーリオなどの画家たちがいたのであったけれども、不遇のうちに死なざるをえなかった。」
ブルボン家フェリーぺ5世、王立アカデミイ創設
「かてて加えて、一七〇〇年、一八世紀を目前にカルロス二世が死に、ここで王室がパリのブルボン家に変る。フェリーペ五世であり、この人はその生れも、気質的にも、決定的にフランス人であり、美術を愛好したと言っても、それは伝統的な「真理」をもつスペイン美術をさしてのものではなかった。
要するに宮廷を”小ヴェルサイユ”に仕立て上げたかったということである。イタリアやフランスからの絵描きの来訪は、まことに侵攻とでも言いたいほどのことになり、スペインは彼らの手で植民地にされてしまうのである。彼らはそれぞれに大金を抱えて国へ帰る。
・・・
フェリーペ五世は、・・・。そうしてマドリードにヴェルサイユ流の宮殿を建て、エル・エスコリアール離宮の、スペイン風な厳格でぶっきら棒な在り方とのきわだった対比を誇示させた。それからこの王はまた、王立アカデミイを創設し、後にサン・フェルナンド王立芸術アカデミイとなる筈のものをもつくったのである。
芸術家がいなくなったときに、芸術院とかアカデミイなるものが出来るのは、どこの国の歴史でも同じである。」
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