2014年3月18日火曜日

康平8年/治暦元年(1065) 越中守豊原奉季、荘園停止や各地の津刀禰の横暴を訴える。治暦の荘園整理令。諸津の勘過料停止令。   

オオカンザクラ 江戸城(皇居)乾門脇 2014-03-18
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康平8年/治暦元年(1065)
この年
・聖金曜日(復活祭の日曜日の前々日)、セルジューク・トルコ、バンベルグ司教ギュンターが組織した巡礼団1万2千人をイェルサレムにあと2日の場所で虐殺。
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・バレンシア王アブド・アル・マリク、没(位1061~1065)。
アブド・アル・マリク妻の父(岳父)トレード王マームーン、バレンシア王を兼務(トレード王1043/44~1075、バレンシア王1065~1075)。
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2月
・2月以前、カープア候リカルドゥス1世に対する反乱。
リカルドゥス1世、反乱鎮圧に成功、反乱者の領土を没収、マルシア地域までの広大な領土を獲得。
反乱参加者:
ガエータ公(アクィーノ伯)アデヌルフス2世。
トラエット伯ランド(ランドーネ、アデヌルフス2世兄弟)。
ガエータ女公(未亡人)マリア。
ウィレルムス・デ・モスタローロ(リカルドゥス1世娘の夫、リカルドゥス1世娘と別れガエータ公未亡人マリアと結婚しようと反乱参加)。
旧カープア候ランドゥルフス6世。
テアーノのパンドゥルフス。
テアーノのランドゥルフス。
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3月
・春、藤井今長、越前目に任じられるが秋に返上。
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3月24日
・大地震。
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3月29日
・ハインリヒ4世(15)、ヴォルムスで「帯刀の儀」。
成人として統治能力を宣明(実際の親政開始は数年後)。
トーリア大司教エーベルハルトが祝福。
ロートリンゲン大公ゴットフリートが太刀を奉じる。
教会分裂の最終的決着と皇帝戴冠のためイタリア遠征を決議、十分な説明なしに取り消し。
ハンブルグ=ブレーメン大司教アダルベルトとケルン大司教アンノの対立激化。
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5月7日
・大地震。
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7月
・越中守豊原奉季、国司の行政上障害となっている問題について訴える
①荘園増加が地方行政の妨げになっているので荘園停止を、
②年貢に対して各地の津刀禰が勝載料(船荷にかけられる税)として調の一部を取り上げないように規制を。

年貢運送妨害問題:
越中は気候が厳しく、9月~3月は、陸地は雪深く海路は波高く、僅かに暖気の時期を待って調物を運漕する京上官物であるのに、近江の塩津・大浦・木津、若狭の気山津、越前国の敦賀津で、刀禰(役人)らが勝載料(船荷の積載量に応じて課せられる港湾修理費)とか勘過料(通行検問料、関銭)という名目で積荷を滞留させ、調の一部を取り上げる。
また、綱丁(運送責任者)に難題を持ちかける。
問題が起これば、決着するまで荷物を留め置き、官物が減ったり納期に間に合わない原因となっている。
津における勝載料・勘過料徴収を停止してもらいたいと訴え。
この年9月1日、政府は諸津の勘過料を停止(「勘仲記」弘安10年7月13日条)。

平安初期、若狭以外の北陸道諸国の雑物は、船による場合すべて敦賀津に荷揚げされ塩津経由で都へ運ばれた。
平安中期には、①気山津・②木津が重要視される。
①気山津は若狭湾東海岸の久々子湖の南奥の気山(美浜町・三方町)で、南北朝時代以降に姿を消す(気候変化による海退が13世紀以降進行し、久々子湖に砂嘴ができ入船できなくなったため)。若狭では、気山津の衰退に代わって小浜湾を利用することが多くなる。
②木津(古津ともいう)は、平安初期若狭ルートの琵琶湖の津の勝野津の北にある近江今津付近(滋賀県新旭町)。
摂関時代の湖西高島郡一帯の広大な山地には、法成寺・平等院・摂関家領の杣山があり、杣山から伐採された木材の集積・積出し港として発達。

敦賀津に入らない北陸地方の物資は気山津~倉見峠~熊川あたりで若狭街道(九里半街道)に合流し木津へ向かう。
東大寺雑掌秦安成が永承2年(1047)の封料を運ぶ時、若狭守橘某から木津の納所へ運ぶよう指示されており、、木津には若狭方面からの物資を一時預かる倉庫があったことが窺える。
各津の刀禰らは港湾施設修造・乗降船者検問・積荷検査などの公的港湾管理業務に直接携わる現地管理人集団で、船馬の需要増大という社会的事情を背景に職権濫用している事が窺える。
津刀禰はまた海商・海運業者で民船提供者でもあり、平安中期の敦賀・塩津・大津の津刀禰はこのような社会状況の中で成長し、増大する運船需要を利用して港湾業務を独占するようになり、従来の公定ルート上の塩津の刀禰集団に対する競争勢力として登場する。

敦賀~塩津が約20kmに比べ、気山津~木津は約44kmであるのにこのルートが利用されたのは、気山津や木津の刀禰が有利な条件を出して租税輸送の入津を歓迎したためと考えられる。
また、公定ルート上の愛発山塊は荒血山とも書かれ急峻(最高の深坂峠は海抜360m)で、冬期は相当の積雪もあるが、新ルートは最高の水坂峠で海抜277mで、愛発と比べて積雪量も少ない。
更に、新ルートは物資滞留緩和のうえからも利用されたと考えられる。
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8月2日
・「治暦」に改元。
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8月15日
・源頼義、近江錦織に八幡宮を建立。
この年、伊予守源頼義、重任の宣旨を請うが、許されず。
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9月1日
・治暦の荘園整理令が発布される。新立の荘園が停止。
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9月1日
・調物運漕に対し、若狭気山津・越前敦賀津などの刀禰らが勘過料と称し公物を割取るのを取り締まってほしいとの越中国解を受け、それを禁止する旨の太政官符出る。
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11月
・秋、ヨークシャーでノーザンブリア貴族(地方郷士)、領主ノーサンブリア伯トスティヒ(ウェセックス伯ハロルド弟)に反乱。
この月、ハロルド伯、トスティヒ伯を罷免しモルカール卿(マーシャの領主エドウィン伯の弟)をノーザンブリア伯に任命。
トスティヒはフランドルのボールドウィン辺境伯の許に亡命(追放)。
ハロルド伯兄弟不和。
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12月
・サラゴーサ王ムクタディル(イスラム、位1046~1081)、サラゴーサでキリスト教徒(モサラベ)を虐殺。
バルバストロを再攻略、奪還。
カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世、サラゴーサに懲罰遠征。
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12月27日
・カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世、パテルナ(トゥリア河畔、バレンシア近傍)でバレンシア王を攻撃し破っている最中に、病没(カスティーリャ王1035~1065、レオン王1037~1065)。

フェルナンド1世の子供達が分割相続。
①サンチョ2世(位1065~1072)、カスティーリャ+サラゴーサ。
②アルフォンソ6世(レオン王1065~1071?、カスティーリャ王1072~1109)、レオン、アストゥリアス+トレード。
③ガルシーア(位1065~1071)、ガリシア、その南のポルトガル+セビーリャとバダホース。
④姉妹のエルギーラとウラーカ、全修道院。

<兄弟の覇権争い>
サンチョ2世、ロドリーゴ・ディーアス(エル・シッド)率いるカスティーリャ軍を使いレオン、ガリシア征服。
レオン王アルフォンソ6世、トレード王マームーンの許に亡命。
1071年ガリシア王ガルシーア、セビーリャ王の許に亡命。
1072年サンチョ2世暗殺、アルフォンソ6世が全王国を継承。ガルーシアはセビーリャより帰国後アルフォンソ6世に囚われ幽閉のまま1090年 没。
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12月28日
・エドワード懺悔王、ウェストミンスター修道院建立。
エドワード王、建設監督の為、寺院近くに王宮移転、王宮はその後、「議事堂」となる。
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