2015年5月16日土曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(15) 「8 それが終るとき」 (その1) : 「娼婦でありながら、《わたくし》にとっては《消え去った過去の幻影を再現させてくれる》媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。」

北の丸公園 2015-05-15
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8 それが終るとき

「武田麟太郎は『濹東綺譚』を読んで、あれは玉の井ではなくて亀戸だといった。実際の玉の井より古風だとか、鄙(ひな)びているというほどの意味だが・・・『濹東綺譚』にえがかれた私娼窟は多分に美化されているとまではいえぬにもしろ、実態が実態のままつたえられているとは言いがたい。そんな点をもふくめて、『濹東綺譚』における永井荷風は風俗作家ではなくて、詩人だと言わねばならない。」

「たとえば荷風は、繰り返し《溝(どぶ)の汚さと、蚊の鳴声》を挙げている。そして、《溝の蚊の唸る声は今日(こんにち)に在つても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変り》がないともいっているが、いかに下水処理が不備であった戦前とはいえ、《お酉様の時分》すなわち十一月に入ってからも蚊が出るなどというのは、おなじ《隅田川を東に渡つ》た地域にあった洲崎はむろんのこと、恐らく亀戸にもみられぬ玉の井だけが持っていた固有の景物であったろう。また、ヒロインのお雪が出方として身をおいている向島区《寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方》 - 大林清『「濹東綺譚」のモデル雪子の恋』(『玉の井娼婦伝3』)によれば、屋号が《萩乃家》なる娼家は《溝際の家》だから、溝が重視されているのは当然である。」

「が、『断腸亭日乗』昭和十一年五月十六日の条にかかげられている荷風作製の玉の井見取図をみれば明らかなように、《この番地のあたりはこの盛場では西北の隅に寄ったところ》であって、《仮に之を北里(=吉原)に譬へて見たら、京町一丁目も西河岸に近いはづれとでも言ふべき》地点で、東西に通じているその五尺幅の溝は、全域を一部から四部までに区分されていた玉の井の一部と二部の北辺だけをかすめていたに過ぎない。すなわち、その溝を最北端部として南にひろがっていた三部、四部の地区はおろか、一部や二部のなかでも溝の臭気が瀰漫(ビマン)していたのは、きわめて局地的な特殊状況であった。別の言い方をすれば、溝の臭気はお雪の住む居まわりのごく一小区域のきわだった特徴をあらわしても、玉の井という私娼窟全域に通用するものではけっしてなかった。」

そのくせ、「ぬけられます」とか「完全通路」と標示された、両側または片側だけに娼家の建ちならんでいる狭隘きわまる路地から路地をつたい歩くと、行けども行けども異臭の絶えることがなかった。したがって、その異臭は溝の臭気であるはずがなく、私などは目ばかり窓とよばれた小窓の中から「ちょいと、ちょいと」とよびかけるオンナたちの声をききながら、その屎尿と洗滌液が混じ合ってはなつ、鼻よりは眼にしみるような刺痛感のある猥雑な異臭をかぐたびに、自身がいま魔窟へ来ているのだという若干の後ろめたさとある種の昂奮がまざり合った実感をおぼえさせられたものであった。逆にいえば、溝の臭気より汚物の異臭のほうがはるかに強く当時の実感としてのこっている。」

「なんといっても玉の井は、荷風がそれまで書いてきた新橋はもちろん、神楽坂、富士見町、白山、麻布の花柳界はおろか、吉原や洲崎ともまったく質のことなる最低の遊び場であった。彼が曲折のおびただしい隘路の錯綜する玉の井の陋巷を《迷宮》とよんで、ついに魔窟という表現を採択しなかったのも、不潔感や醜悪さによる読者の幻滅をおそれた詩人的配慮であったろう。」

「かさねていえば、『濹東綺譚』をつらぬいているものは散文精神ではなくて、詩的精神である。《むかし北廓を取巻いてゐた鉄漿溝(オハグロドブ)より一層不潔に見える此溝》まではえがいても、お雪を《ミユーズ》にたとえるためには、屎尿や洗滌液の異臭を回避せねばならなかった。迷路の狭隘さきはつたえても、舗装のほどこされていないぬかるんだ路面の描写は意識してかわす必要があった。人間としての荷風は、玉の井という猟奇的で淫靡な地帯に舌なめずりせぬばかりのしんしんたる興味をおぼえながらも、作家としては夢と詩をはぐくむことに専心したのである。」

「『ひかげの花』では荷風文学最大の特徴である風景描写や季節感まできれいさっぱり切り棄てられてしまったが、『濹東綺譚』ではふたたびそれが重用されているばかりか、どれほど短くみても大正十年の『雨瀟瀟』以来十五、六年ぶり、長くみれば『深川の唄』をはじめとする明治四十二年の帰朝直後作以来ほぼ三十年ぶりに、主人公即作者自身としてのおのれを、ほとんど開き直ったといったかたちで前面に押し出している。さらに、一群の花柳小説や女給ないし散娼の生態をえがいた作品 - 『腕くらべ』、『夏すがた』、『おかめ笹』、『かし間の女』や『あぢさゐ』、『つゆのあとさき』、『ひかげの花』などでは意識的に作中から作者を閉め出すような世界ばかり構築していたのであったが、『濹東綺譚』では一転して《わたくし》が主人公となり、その《わたくし》が作者たる永井荷風自身であることを、手をかえ品をかえながらなんとか読者に肯定させようと懸命に努力しているほどなのである。」

「いったい、荷風には、いうところの私小説はひとつもない。あるとすれば、せいぜい『西遊日誌抄』と『雨瀟瀟』、小品文の『狐』、『葡萄棚』、『雪の日』、『梅雨晴』くらいのものであろう。が、表面的には三人称の客観小説をよそおいながらも、帰朝直後の『深川の唄』、『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『新帰朝者日記』、『冷笑』などの諸作は、いずれも文明批評を意図した自己主張の文学であった。そして、彼はそれらの主人公ないし主人物が自身だとみられることを避け、かつ嫌っておきながら、しかも一方では自身であることを知ってもらいたい思いをもひそめている。『冷笑』の吉野紅雨に、《私は已に「深川の唄」と云ふ小篇 - お読みになりましたか - 私はあの小篇の中にも書いて居た。》などといわせているのが典型的な例だろう。したがって、昭和十年代初頭の『濹東綺譚』は、三十年前の明治四十年代に回帰した、復古的な作品だという見方も成立しないではない。」

「事実、荷風は自身のありとあらゆる過去の文学的蓄積を、この一作に復活再用して新しい生命を附与している。・・・『日和下駄』に書いたのは大正三年・・・、以降彼の作品には晴天の日に蝙蝠傘を携行する人物はまったく登場しない。それを、この作品ではお雪との出会いという最も重要な場面に復活させている。そのうえ、『つゆのあとさき』や『ひかげの花』はおろか、『雨瀟瀟』あたりを最後に随想、考証類以外ではすっかり放棄されていた懐古趣味、文人気質、厭人癖、反秩序、地誌的探索、風景描写、季節感その他あらゆる荷風的な要素の集大成がこころみられているのである。」

「その結果、当然のことながら、《わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。/おぼろ気な記憶をたどれば、》というふうに展開する作品の発端から作者はうしろ向きの姿勢をしめしている。・・・山谷堀の古書店に行き、そこで店主から為永春江の「芳譚雑誌」を見せられて、《明治十二年御届としてあるね。この時分の雑誌をよむと、生命が延るやうな気がするね。》といっている。また、お雪の取り扱いも「芳譚雑誌」とまったくおなじで、《わたくし》にとっては過去を思い出させてくれる媒体となっている。

《いつも島田か丸髷にしか結つてゐないお雪の姿と、溝(どぶ)の汚さと、蚊の鳴声(なくこえ)とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三四十年むかしに消え去つた過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢(はかな)くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。》

この第六章にみられる一節と、第九章にみられる《お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである。》という記述から、その間の事情がうかがわれるのである。文中の《お雪》とある部分に私は《「芳譚雑誌」》という文字をこころみに置き換えてみて、そう感じたのであった。お雪は魔窟で春をひさぐプロスティテュートであっても、『夏すがた』の千代香や、『かし間の女』の菊子や、『あぢさゐ』の君香や、『つゆのあとさき』の君江や、『ひかげの花』のお千代のような淫獣ではない。娼婦でありながら、《わたくし》にとっては《消え去った過去の幻影を再現させてくれる》媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。」

「・・・『濹東綺譚』のばあい・・・主人公の名は大江匡(ただす)、住所も・・・《麻布区御箪笥町一丁目六番地。》ということになっている。が、事実に相違しているのはこの二点だけで、他はすべて《わたくし》すなわち永井荷風という態度でつらぬかれている。これでもか、これでもかというほど、それは執拗に立証される。《亡友唖々君》と実在の人名を出し、《若しわたくしなる一人物の何者たるかを知りたいと云ふやうな酔輿な人があつたなら、わたくしが中年のころにつくつた対話「昼すぎ」漫筆「妾宅」小説「見果てぬ夢」の如き悪文を一読せられたなら思ひ半(なかば)に過るものがあらう。》と、おなじく実在の荷風作品を挙げてみせるといった類である。が、実はこれこそが・・・却って『濹東綺譚』が私小説ではない、なによりもの証拠なのだ。

・・・私小説ならば、作者はけっして自身を説明しない。説明ぬきでも読者は自身が何者であるかを知っており、書かれてあることが事実だと思ってくれると、私小説作家は信じて疑わない。そのへんのところを荷風は十二分に承知の上で、ことさら《わたくし》を説明している。説明して事実であるかのように仕組むことによって、虚構にリアリティを附与しているのである。・・・」
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