皇居東御苑 2015-12-27
*昭和18年(1943)
12月9日
・「十二月九日 (木)
誰もかれもがいうことは「アメリカに戦争目的がない」ということだ。日本に戦争目的がないというのはどういうことだろう。陸海軍報道部長も外国から帰った連中も、全部「米国の戦争目的」の欠乏をいっているのは、当局者の指導だろう。
東条首相の演説にもそれがある。」(清沢『暗黒日記』)
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12月10日
・文部省が、学童の縁故疎開促進を発表
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12月10日
・銅像等の非常回収閣議で決定
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12月10日
・東宝映画、東京宝塚劇場を合併し、東宝株式会社となる
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12月10日
・「十二月十日(金)
天気よし。近頃はズッと好天気だ。
経済クラブで「焦る敵米国」という題下で高瀬〔五郎〕中佐の講演があった。出るつもりだったが僕は行かなかった。近頃、米国の攻勢を「焦って短期戦を狙う結果だ」と言っているものが多い。そしてこれは米国の弱点の露出だというのである。これまた自慰である。米国は最初から一九四三年の暮れから攻勢を開始するといっていたではないか。」(清沢『暗黒日記』)
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12月10日
・モロッコ、イスティクラール党結成
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12月12日
・チェコスロバキア亡命政府のベネシュ大統領、訪ソ。ソ連・チェコスロバキア友好相互援助戦後協力条約締結。
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12月12日
・ロンメル、「ヨーロッパ要塞」総司令官に任命される
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12月13日
・佐藤紅霞・川島幸一らの風俗関係書を一斉発禁
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12月14日
・金史良、宣伝小説「海軍行」、「海への歌」「サルパラム」を「毎日申報」に発表。
昭和19以降は作家活動中止、大同工業専門学校ドイツ語教師
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12月14日
・この日付「清沢冽日記」。
「寝ながら中央公論を読み直したが、中央公論もまったく驚くべきものになった。例の京大教授の出ている座談会「赴難の学」で、西洋の学は西戎学、学問奉還論、学問は日本書紀、古事記だけを読めば総ぺてのことが書いてある、国際法は英米の謀略法とか、たいへんなものだ。奇説もここまでくると面白い。僕は名前と肩書きをみくらぺながら、巻をおくにたえなかった」
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12月14日
・朝鮮重要物資営団令公布
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12月15日
・関東州企業許可令、同企業整備令公布
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12月15日
・午後5時30分、J・カニンガム代将指揮第112騎兵連隊、第148野砲大隊、ニューブリテン島のマーカス岬アラウエに上陸。ダンピール海峡を東西から確保する態勢。ニューブリテン島西部守備は松田巌少将指揮第17師団(酒井康中将)第65旅団ら15,018人。
10月、17師団(酒井廉中将、岡山)が中国から到着、方面軍は第17師団の約1/3をブーゲンビル島に、師団主力をニューブリテン島西部に派遣、この方面防備お第65旅団と共に、同方面の要域確保を命じる。
11月1日、連合軍はブーゲンビル島タロキナに上陸、この為、ダンピール海峡防衛に重要なツルプへの派遣部隊の一部がタロキナへ転用。第17師団司令部はニューブリテン島北岸ガブプにあり、西端ツルプから直線距離で約250kmある。マーカス岬はニューブリテン島西部の南岸、ニューギニア寄りにあり、戦闘はここから始まる。
14日早朝から、マーカス岬一帯に激しい空襲。マーカスに在る部隊は約400で4ヶ所に分散、臨時混成部隊で、陣地も出来ていない。
マーカス岬の敵に対し、ラバウルの陸海航空部隊(トラックから約60機増援)も加え反撃するが、航空部隊の消耗は激しく、数日を経ないで、陸軍第4航空軍の爆撃機は2機に減少。
米軍は輸送船5・駆逐艦6・兵力2~3個大隊。守備隊は約1/4の死傷を出し、東北へ30km潰走、そこで、小森大隊の先頭と連絡がつく。
11月中旬~、マーカス方面の通信網は不通で、米軍上陸も方面軍の偵察機が発見し、ラバウル~第17師団~ツルプでダンピール海峡東岸を守備する松元支隊に伝えられる。マーカス岬の主力小森支隊(小森政光少佐、2個中隊弱)は、北岸から南岸マーカスへ脊梁山系を難行軍の後、退却してきたマーカス守備隊と合流し、25日から攻撃開始、陣地の一部を突破。
26日夜襲は失敗。
27日、逆上陸の戸伏大隊と連絡し、28、29日、戸伏大隊と共に攻撃再開するが、敵の熾烈な火力により攻撃頓挫。戸伏長之の回想。「両日の戦闘経過や、敵陣地の強度、地形等を検討したうえで、策のない攻撃を繰返して無為に戦力を消耗するよりも、ねぼり強く抵抗して、敵の内陸への侵入を妨止した方がよいとの結論に達した。・・・小森少佐もこれに同意した」。
方面軍は、小森支隊が戸伏支隊と共にマーカス岬付近の飛行場を奪回し、敵の猛攻に耐えていると大本営に報告、その敢闘が「上聞に達し、御嘉賞の御言葉」が昭和19年1月6日、電報で本人に伝えられる。これが、後に小森を殺す結果になるが、彼は「感激のあまり、眠れなかった」と日記に書く。
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12月15日
・銅像などの非常回収を開始
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12月15日
・「十二月十五日 (水)
朝のラジオを聞いていると、昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。
こんな低級な時代がかって、また世界にあったろうか。
十一日の日独攻守同盟の記念日に、日本だけが騒ぐのはどういうわけだろう。ベルリンでは大島大使が主催で高官を招いたらしいが、リペントロップは出ない。攻守同盟を想起させるためか。
米国は新聞記事の検閲を緩和したそうだ(同盟ヴエノスアイレス)(十一日発)
彼らは戦争をすでに見越しているらしい。
『東洋経済』に「日ソ中立維持すべし」という論文を名古屋とに書く。
腹をこわし、なかなか直らない。こんな頑固な胃腸病は始めてだ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月15日
・ソ連、ティトー指導の人民解放委員会をユーゴスラビア政府として承認。亡命政府と断絶。
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12月16日
・在華邦人生活必需物資臨時配給統制規則、公布。
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12月16日
・「十二月十六日 (木)
昔の倭寇がちょうど昭和十五、六年代の新しい形だ。
国内においては神風連的な右翼思想が流行する。外国に行くのはそういう連中に限られる - たとえば帝大教授田中耕太郎博士はカソリックで、日本精神に徹底しないというので、すでに決定していたのを取消さしめられた。自分で頼んで置いて取消す役所の意気地なさも時代を現わすものだ - 彼らは無知でありながら、恐ろしく自信がある。そこで大東亜諸国に行って、それ錬成だ、それ儀礼だという。こんな国民に彼らが推服する〔うやまって服従する〕ものではない。この事は林甚之丞君もいい、誰もかれもいうところだ。」(清沢『暗黒日記』)"
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12月17日
・第8方面軍(今村均大将)、第18軍通じ第20師団をシオに撤退させる
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12月17日
・閣議、競馬の停止を決定。
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12月17日
・「十二月十七日 (金)
国際関係研究会で三浦新七氏の東西両洋の文化に関する講演あり。篤学なる学者だ。西洋はキリスト教を根幹としているのに、東洋は雑多である。西洋では神と人とを別にしていて、神に到達せんとして努力し進歩する。これに対し東洋では自然の力の中に自己を発見する。西洋では教会が中心で発達してきたが、それが故に教会対国家という問題が起った。日本は宗政一致だ。ヒトラーなどが日本を羨む理由がそこにある。
赤松克麿君〔元日本革新党党務部長〕と久しぶりに会す。産業労働者の思想悪化は驚くべきものがある。労働組合を造って、命令が幹部から達するようにするのがいいと資本家もいっている由。
なんでも中島飛行場あたりで、労働者が寄宿舎を叩きこわした由。自由主義、個人主義の洗礼を受けねば駄目だという。
僕も石橋君も、自由主義に反対したのは君らではないかといった。」(清沢『暗黒日記』)"
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12月17日
・アメリカ、中国人移民禁止法が廃止
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12月17日
・イギリス、イーデンとポーランド大使ラチンスキ会談。
ポーランド地下レジスタンスにソ連パルチザンとの非協力・ドイツ軍との協力を指令しているとのスターリン主張に対する亡命政府の反論と共同行動申入れ文書化で合意。
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12月17日
・第5軍、サン・ピエトロ占領
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12月18日
・「十二月十八日 (土)
古本市場を見に行く。本は大分高くなった。稲垣満次郎〔元スペイン公使〕の『外交と外征』というを買う。明治二十九年の発行だ。その頃、日清戦争の勝利の結果として日英同盟を予言したのは偉い。西洋歴史もなかなか面白く書いてある。
いつ出ても評判になったものはやはりいいところがある。ケンブリッジを出た人である。
朝鮮において「何故に我らに独立を与えぬか」という運動が起っている由。また義勇兵壮行会の席上などで野次が飛んだり混乱があったりする。郷里から三通も四通も手紙が来て義勇兵志願を勧めるのだそうだ。
英国は、いつでも他をして戦わせる。しかし英国が味方した方が敗けたことがあったかしら。」(清沢『暗黒日記』)
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