2016年1月11日月曜日

元永2年(1119) 白河院、藤原摂関家の荘園集積・拡大を制限する 平忠盛(清盛の父)、賀茂臨時祭の新舞人に抜擢され、見事に舞う。 「平忠盛、舞人、道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事也」(藤原宗忠「中右記」)

三十三間堂 2015-12-30
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元永2年(1119)
この年
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・ヘンリ1世(51)長男ウイリアム・エシリング(18)、アンジュー伯フルク5世娘マティルダと結婚。(1113年、ヘンリ1世、ノルマンディ公の年来の敵アンジュー伯と和解、子供同士を婚約)
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・クレルヴォー修道院長聖ベルナール、娘修道院フォントネー修道院建立。
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・ピカルディ、ノジャン修道院長ギベール、「聖者のあかし」(任1104~1124頃)。
懐疑論(聖ヨハネの頭:コンスタンティノープルとサン・ジャン・ダンジュリーに残っている頭のどちらかは偽物)。歴史の批判精神(考古学的資料対して良識ある批判)。
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・ギョーム・ド・サンチエリ(34)、ランス司教区ベネディクト会サンチエリ修道院長就任(1085~1148)。1135年シトー会士となる。
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・この頃、テンプル騎士団結成。正式認可は1128年1月14日。
シャンパーニュ騎士ユーグ・ド・パイヤン(聖ベルナール従兄弟)、仲間の騎士8人(ジュフロワ・ド・サントメールら)程と共にエルサレム巡礼者の保護のパトロール隊組織。
エルサレム王ボードワン2世も援助、王宮内のソロモン神殿跡地を宿舎として提供したことでテンプル(宮殿)騎士団と呼ばれる。13世紀には加入騎士2万人。13世紀末迄に戦死者2万人。1291年アッコン陥落後、キプロス島に引き上げ。

(支援者)
①シャンパーニュ旧領前領主ユーグ・ド・バイヤン:甥チボーに領主を譲り十字軍騎士として生きる(1130没)。
②エルサレム王国3代目ボードワン2世:騎士団へ財産・土地給付。
③エルサレム総大司教2代目アルヌルフ。
④シトー修道会クレルヴォー修道院の聖ベルナルドゥス。
⑤シトー修道会総長スティーヴン・ハーディング。
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・ドイツ教会、グレゴリウス改革が浸透、徐々に皇帝から離れていく。
1月1日、オスナブリュック司教ゴドシャルク、没。ハインリヒ5世、ヒルデスハイム司教コンラートを任命するが、教会参事会会長ティトハルトが後任就任。リエージュ司教オトベルト、没。ハインリヒ5世、ジュリエ司教座助祭アレクサンデルを任命する、教皇が教会法規に従い選出されたフリードリヒを司教に叙階。
6月12日、マグデブルグのアデルゴット、没。規則に従い、 ローガが任命、ローガは ハインリヒ5世の叙任を拒否。  
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・頃、アウグスブルクのカテドラル食堂で聖職者が「劇」を演じる。
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1月22日
・内大臣藤原忠通の当年給として目就任を望む従七位上藤井国次を越前少目に任じる。
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1月29日
・教皇ゲラシウス2世、クリュニーで没(位1118~1119、ガエータ出身)。教皇カリストゥス2世、即位(位1119~1124、ブルゴーニュ出身)。
教皇カリストゥス2世、ヴィエンヌ大司教ギュイ。強硬なグレゴリウス主義者。即位後、シャルトルのイヴォーに賛成(方向転換)。シトー派規則「カルタ・カリタティス(愛の憲章)」承認。フランス西部・南部を巡歴、エタンプでルイ6世と会談。フランス人使節団(クリュニー修道院院長ポンス、マルヌ司教シャンポーのギョーム)を皇帝に派遣。ストラスブールでハインリヒ5世と会談、10月24日ムーゾンで教皇と皇帝の会談が決定。   
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2月
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世武人王、1118年サラゴーサ攻略後、カスティーリャ国境までの町トゥデーラ奪取。以降、タラソーナ、ボルハ、マガリョン、ルエダ・デ・ハロン、エピラを併合。
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3月25日
・白河法皇、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園5千町歩を停止させる。
理由
①斎院御禊(さいいんのごけい、賀茂川の水で身を清める禊の儀式)の紅花料(べにばなりよう)を納める土地が、その中に含まれている
②一国内に5千町歩にもおよぶ荘園を設定することが好ましくない。
この立荘(荘園を立てること)を推進していたのは、忠実の家司・平知信で、上野国司が院に訴えた。
権門としての摂関家の成長、荘園の集積・拡大を忌避する白河法皇の意志
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5月6日
・平正盛、摂関藤原忠実より洛中に横行する強盗追捕を命じられる。
26日、強盗追捕の賞によって正五位下に叙される。
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5月12日
・藤原忠実、山科の所領を白河法皇に献上。
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5月28日
・崇徳天皇となる顕仁(あきひと)親王、誕生。父・鳥羽天皇、母・中宮待賢門院(19、中宮藤原璋子)。実は鳥羽天皇の祖父白河法皇(67)と待賢門院の間にできた子。保元の乱の遠因。6月19日、顕仁、親王宣下。
それでも鳥羽院は美貌の中宮璋子を寵愛。白河院没後、鳥羽院は、待賢門院璋子に仕える女房たちも寵愛。「今鏡」「御子たち第八」では、待賢門院璋子の姉の花園左大臣源有仁の北の方も鳥羽院の寵愛を受けたと思われ、有仁はこれを察知していたという。
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6月
・白河法皇、蔵人所御厨(蔵人所の所領)を興福寺に寄進することを禁止する。摂関家の荘園拡大を阻止するため。
これまでも、永久5年(1117)には、白河院の熊野参詣の途中にある忠実の荘園が御幸の費用を出さないことについて、院から諮問があった。
この時期、摂関家は氏寺興福寺に対する支配権を強めていたが、翌元永元年(1118)には、院近臣である頭弁(とうのべん、蔵人頭と弁官を兼任する職)藤原顕隆(藤原為房の二男)の訴えによって、興福寺の荘園や封戸が問題となり、顕隆を通して興福寺と摂関家の荘園についての尋問があった。また、興福寺領の阿波国竹原牧(たけはらのまき)について、国司が院に訴える事件も起こっている。
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6月14日
・ハインリヒ5世、教会との和睦検討のためマインツにドイツ諸侯を召集。
7月24日、教皇との和解をドイツ諸侯に約束。
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6月17日
・フランドル伯ボードワン7世、没(位1111~1119)。シャルル(善良、デンマークのシャルル)、即位(位1119~1127)。
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6月28日
・サルマダの戦い(「血の戦場(シャン・デュ・サン)」の戦い)。
アレッポのイルガジ軍、サルマダ平野でアンティオキア軍を粉砕。シール・ロジェール戦死。イルガジの武勲はアラブを熱狂させる。
エルサレム王ボードワン2世、アンティオキア候領再編成に専念。孤児達に戦死した父の遺産を安堵。戦争未亡人に新しい配偶者を見つける。イルガジは進軍せず、酒に溺れ3年後に没。後継は甥バラク。
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8月14日
・三宮輔仁親王の子・有仁、源氏を与えられる。従三位中将。
この年12月28日、三宮輔仁親王、没。保安3(1122)12月17日源有仁(20)、内大臣となる。天承元(1131)12月22日、従一位右大臣右大将。保延2(1136)12月9日左大臣左大将。久安3(1147)2月13日没。
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8月20日
・ブレムール(ブレミュール)の戦い。ルイ6世、ヘンリ1世に敗北。翌1120年、休戦。
ルイ6世と前ノルマンディ公ロベール息子クリトー率いる軍、ノルマンディ公領東部ヴェクサン地方へ侵攻、ノヨン占領、更に侵攻。
ヘンリ1世軍は迎撃すべくヴェクサン地方に入り、両者はブレムールで対陣。
ヘンリ1世軍500騎、ルイ6世軍400騎、その他数百名の歩兵・弓兵。ルイ6世軍は全員乗馬し、前衛をロベール息子クリトー、自らは後衛に控える。
ヘンリ1世は全軍を4つに分けて縦深配置、前2隊は乗馬、後2隊は下馬して布陣、後衛2隊の前の列はヘンリ1世息子ウィリアムが指揮、ヘンリ1世は最後尾。
ルイ6世の最初の突撃(クリトーの前衛隊)はヘンリ1世軍弓兵隊に阻まれ騎士80を失い退却。ルイ6世は再度突撃、ヘンリ1世軍の乗馬の最初の2隊を蹴散らし、ヘンリ1世息子ウィリアム率いる徒歩の第3陣に躍り込むが、ウィリアムの逆撃を受けて敗走。
ルイ6世軍は全面崩壊、ルイ6世は辛うじて落延びる。
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9月
・平正盛、白河法皇の熊野詣の伴の一員として精進を行う。正盛は「北面下臈(げろう)・備前守」とある。家は春日富小路にある。
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9月9日
・顕仁親王誕生100日の祝。内女房への引出物に用した綿1千両は越前に課したもの。また女房の打出衣は、若狭1国のみ風流を施したものを課し、他は風流をやめる(「中右記」)。
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9月21日
・白河法皇、熊野参詣にむけ精進を始める。共のなかに若狭守高階宗章あり(「中右記」)。
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10月20日
・ランス公会議。教皇カリストゥス2世、ルイ6世、大司教13人、司教63人が出席。
22日、教皇、皇帝と交渉のためランスからムーゾンに移動。
24日、教皇側代表シャロン司教シャンポーのギョーム、皇帝と交渉。教皇提案に対し、皇帝は10月27日に最終回答すると申し出、教皇拒否、交渉決裂。教皇、ランスを離れる前にハインリヒ5世の破門判決を更新。
交渉決裂後、マインツ攻囲のハインリヒ5世軍とマインツ大司教アーダルベルトに支援を送る反皇帝派の大軍が対峙。但し、ライン地方・ザクセン地方の司教達は皇帝派に不参加。 
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10月21日
・従三位右近衛権中将源有仁、故権大納言藤原公実の娘と婚姻。若狭守高階宗章、白河法皇の使者として笏・剣などを持参(「長秋記」)。
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11月19日
・平忠盛、賀茂臨時祭の新舞人(名門の子弟のみ)に抜擢。反感を買うが見事に舞う。正盛は、「馬権頭(うまごんのかみ)、伯耆守、新舞人」とあり、さらに「平忠盛、舞人、道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事也」と評されている(藤原宗忠「中右記」)。そこに新興の武士の一面がよくうかがえる。
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12月27日
・平正盛、肥前藤津荘の荘司を殺害した平直澄を追討、この日、六条河原で検非違使の引き渡す。
これは、仁和寺の寛助(かんじょ)僧正の所領の肥前国藤津荘の庄司平清澄が僧正の勘当を受けて京に召されたことから、子の直澄が上洛の途中で乱暴を働き、正盛にその追討が命じられたもの(『長秋記(ちょうしゅうき)』)。

凱旋パレードを見物した源師時は、日記に「(正盛の)随兵百人、多く是西海・南海の名士なり」と記す(「長秋記」)。
この段階で、正盛は四国・九州の武士を広く組織していることを示す。これらの財政的・軍事的基盤は、嫡子忠盛へ受け継がれ、孫の清盛の代で大きく花開く。
正盛は、翌年、犯人追捕の賞によって従四位下に叙され、「人耳目を驚かす」と称されている。
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