2016年1月6日水曜日

元亀4/天正元年(1573)4月1日~4日 信長、将軍義昭に圧力をかけるため洛外を放火、その後、上京を放火。 「京中西陣より放火」、「足軽以下」が「洛中にはいりて乱妨、ことごとく放火」し、「二条より上京一間(軒)残らず焼失」(『兼見卿記』) [信長40歳]

京都御苑 2016-01-02
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元亀4/天正元年(1573)4月
この月
・上杉家臣河田長親、飛騨の武将牛丸豊前守が買得した神保覚広知行分を安堵。
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・この頃、山中鹿之助、織田軍山陰方面司令官明智光秀の仲介で信長に謁見。信長は援助を許可し光秀の支配下に入れる。
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4月1日
・信長、吉田神社祠官・神祇大副の吉田兼見を呼出し、父吉田兼右の言葉「南都北嶺が滅びれば王城の災い」は本当かと問い、兼見は典拠がないと答える。信長、併せて将軍の評判を問う。天皇・公家だけでなく万民の評判悪いと答える。
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4月3日
・柴田・明智・細川・荒木・蜂屋・中川・佐久間7将勢、下鴨~嵯峨までの洛外90余村放火。
信長の和平交渉の使者、義昭のもとに派遣。義昭、拒絶。
4日、上京焼失。
信長、本陣を等持寺に置き、村井貞勝に御所警護を命じる。
また、二条城を包囲し義昭に和平を迫るが、応ぜず。
明知光秀は下鴨に布陣し、義昭に敵する。

3日、洛外の堂塔寺庵を除外して放火(「信長公記」6)。賀茂から嵯峨に至る在所を悉く焼き払う(「兼見卿記」1)。洛外を悉く放火(「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」)。
4日、足軽以下を派遣し洛中諸所に放火、二条より上京が焼失。
類火が禁裏近辺に及ぶ(「兼見卿記」1)。
京都上京を放火(「信長公記」6)。
「同地にあった全ての寺院、僧院、神、仏」が財産、家屋もろとも焼失、都周辺の平地2~3里は「(最後の)審判の日の情景さながらであったという」(フロイス)。

洛外放火
4月3日、信長は、「まず洛外の堂塔寺庵をのぞき御放火(寺社を除いた洛外一帯に火をかける)」(『信長公記』巻6)。
「賀茂・西京より嵯峨にいたり打ち廻し、在々所々ことごとく放火(洛北の賀茂から洛西の嵯峨方面へと火を放っていった)」(『兼見脚記』4月3日条)。
火が放たれたのは、「百姓らの家ばかり」(『永禄以来年代記』)で、その「在々所々百二十八ヶ所」(『公卿補任』)という。
このように、4月2日~3日に信長の軍勢は洛外放火を行った。

これには、「このうえにても上意次第たるべきむね、御扱いをかけられそうろう」(『信長公記』巻6)というように、洛中の義昭に対して圧力をかけ、「御扱いをかけ」=和睦を申し込む意図があった。
しかし、義昭が「御許容なきあいだ」(『信長公記』巻6)、翌4日に今度は「上京御放火(上京焼き討ち)」がおこなわれることになった。

4月6日に信長が徳川家康に送った書状(『古文書纂』)でも「種々理(ことわり)」(さまざまな手立て)をほどこしたけれども、「御承諾」がなかったので、「さる二日・三日両日、洛外残すところなく放火せしめ、四日に上京ことごとく焼き払い」と述べている。
ただ、『兼見卿記』4月1日条では、1日の段階ですでに信長は兼見に「今度洛中放火治定(じじよう)なり」と語っているので、上京焼き討ちも「治定」(確定)していたとも考えられる。

上京焼き討ち
上京焼き討ちが始まったのは、『兼見卿記』によれば4月4日丑の刻(深夜2時頃)で、当時の感覚でいえば、3日の「夜半時分」(『東寺執行日記』)となる。
『兼見卿記』に「京中西陣より放火」とあり、町組でいえば川ヨリ西組あたりから火がつけられ、「足軽以下」が「洛中にはいりて乱妨、ことごとく放火」し、「二条より上京一間(軒)残らず焼失」したという。
『永禄以来年代記』でも、「三日夜半より上京西陣の町より自火出る」とあり、上京の西のほうより火がつけられたことがわかる。続けて「夕まで焼けそうろう、上京中残るところなし、御霊の社まで焼けそうろう、南は武衛陣の御城(義昭御所)の隍(ほり)際まで焼けそうろう」とあり、上京は丸一日焼け続け、焼失範囲は、北は相国寺の北側にある「御霊の社」(上御霊社)から、南は義昭御所の堀際にまで及んだ。

『御湯殿上日記』4月4日条では「上京、内野になる」とある。つまり、上京は、かつての平安京の大内裏(平安宮)が、たびかさなる火事によって野原となり、内野と呼ばれるようになったのと同じ状況になった。

上京焼き討ちも、洛外放火と同様、義昭に対する圧力が目的であったので、義昭御所には火がかからないようにされていた。また、『御湯殿上日記』4月4日条に「この御所の御辺りは、堅く申し付け、めでたし」とあり、内裏にも火がかからないよう配慮されていた。

ただ、『兼見卿記』4月4日条では、「禁中御近辺」の「烏丸町にいたり類火」したため、正親町天皇に吉田社へ「臨幸」してもらうことを兼見が進言し、信長から承諾を得たと記されている。

結局、内裏は焼失しなかったが、公家の屋敷も「十余り」、「御比丘尼御所の寺々」も焼失したという(『公卿補任』)。とりわけ、『上杉本洛中洛外図屏風』で上京の寺町といった観が見られる小川沿いに建ち並ぶ、誓願寺・百万遍・革堂・真如堂などは焼け落ちてた(『東寺執行日記』4月3日条)。
また、それらより南側にあった日蓮宗(法華宗)寺院の頂妙寺も焼けたが(『己行記(こぎようき)』4月4日条)、内裏周辺にあった相国寺南塔頭・仏陀寺・浄福寺・一条観音堂などは焼け残った(『永禄以来年代記』4月4日条)。
この焼き討ちによって「焼失したる家の数は六、七千」(『耶蘇会士日本通信』)に及んだという。
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