鎌倉 長谷寺 2016-02-26
*明治38年(1905)
9月7日
・大連湾及び関東州取締規則公布。
*
9月7日
・夕方、東京市内で警察官所2ヶ署焼打ち。事件は収束。
事件は東京だけで終わらず、7日夜は神戸、12日夜は横浜で交番焼き打ちが起こる。
神戸では10数名が検挙され、横浜では93名が兇徒嘨聚罪で起訴されている。
講和反対の大会、演説会は1道3府40県にわたり、決議数は230余件に達した。
負傷者:
官吏側502(警視6、警部26、巡査422、消防・軍人42)、民衆側528(うち死者17)。但し、負傷は1千~2千といわれる。検挙2千(うち1千はすぐ釈放、起訴300余)
日比谷焼き打ち事件だけでも警察に引致された者は1,700余名。うち起訴された者は308。
河野広中などの大会委員も検挙されているが、大半は職人・職工(108)、人足・車夫・馬力(55)。営業主が47名いるが、酒商、古物商、油商、魚商、絵葉書商といった零細な商人たちで、他は店員と学生。しかも、現行犯処分とされた105名のうち90名が予審免訴となっている。
公判で有罪の判決を受けたものは87名にすぎない。多くの者が負傷を根拠に検挙された。
*
9月7日
・講和反対を唱える新聞の発行停止。
この日、「万朝報」「都新聞」「二六新聞」(2日間)。
8日、「日本」「人民新聞」(1日)。
9日、「東京朝日新聞」(~24日迄)。
10日、「大阪朝日新聞」(~14日、18日~10月3日、25日~11月7日、3回、35日間)など次々に発行停止。
東京で発行停止を免れたのは「国民新聞」「東京日日新聞」「中央新聞」「時事新報」「報知新聞」「毎日新聞」。
地方でも「小樽朝報」「山梨民報」「丹州時報」「京都朝報」「伊勢朝報」「大阪日報」などが発行停止。
この日付「東京朝日新聞」の「講和事件に関する投書」で、「憂国生」は、「当局者は速かに其責任を明かにし、以て罪を上下に謝せざるべからず」とし、さもなくば「市街戦の修羅場」は今後も勃発すると述べる。また、「忠霊の墳墓」は、講和条約とそれを締結する内閣への「国民の怒り」を騒擾に見出し、「国民の熱血的愛国心に富めることを感謝す」と結ぶ。
藩閥や圧政への批判は、「国民」の名の下に、膨張主義的な国権の要求を含みこみ、騒擾という形態もとりながら実践される。
*
9月7日
・神戸湊川神社前公園で非講和演説会。後、神社内の伊藤博文像(1年前に建造、高さ2m)を倒し、これを引きながらデモ。福原遊郭近くの派出所前に捨てる。伊藤の対露軟弱外交のため。
講和発表~枢密院での可決迄の1ヶ月で講和反対大会は全国で230件余。
この日の講和反対大会。
東京弁護士有志会、静岡県沼津町民大会、京都府園部町民大会、和歌山県田辺有志大会、三重県浜松非講和大会、山口県下関市民大会、広島市民大会、大分県杵築町民大会など。
*
9月9日
・社説(池辺三山)「説明の必要」(「東京朝日」)。桂追求の5回目。政府は当初から賠償金・領地割譲など諸条件に関して確信なく提出したのか、この質問に関して政府が国民を侮辱することを筆者は許さないと書く。末尾に「大尾」(終りの意味)と書かず、納得できる回答ない場合は以降何回でも書くという態度を示す。
この日5時、発行停止命令届く。
「一社湧くが如し、直に祝停の宴なるものを開く。来会二十余名。盛会を極む」(杉村楚人冠日記)。
焼打ち事件を詳細に報道したり、事件の死傷者弔慰や施療の社告を出して、警視庁から「暴徒に医療を施すとは暴行を扇動する恐れがある」と警告された「東京朝日」は、15日間の発行停止。
「社史」によると、桂首相がオフレコを条件に各社代表に話した講和条件の内示を、三山の指示で9日の新聞に書いたことも発停の理由だったという。
この発停を契機に、「東朝」社説は、講和条件反対・内閣糾弾のホコを収めていく。
一方、「大阪朝日」の筆鋒は緩るまず、9月9日~11月7日で3回35日間の発行停止処分を受ける。
*
9月9日
・午後、湊川埋立遊園地で講和問題市民大会。午後7時~午前2時、交番襲撃など騒動。
*
9月9日
・岡山市非講和同志大会。藩閥政府打倒が始めて決議に現れる。対外硬政略実現のための藩閥政府打倒スローガン。
10日の宮城県民大会・若松市の会津大会では言論集会の自由抑圧・戒厳令・非立憲政策を批判。
11日の非講和全国大会(大阪、3府18県の代表参加)は「外は帝国の光栄を毀損し内は憲政の精神を破壊す」と決議。
9日以降、決議内容が判明する27の県・市民大会中17が政府の言論抑圧を非難。
*
9月9日
・小村寿太郎全権、アメリカ大統領と会見。対清・韓国のポーツマス条約の実施に関して諒解を求める。
*
9月9日
・イタリアのカラブリア地方で地震発生。数千人が死亡したと考えられる。
*
9月10日
・週刊「直言」第32号発行。無期発行停止処分(事実上の終刊号となる)。
社説「政府の猛省を促す」
「・・・今や屈辱的講和の声は・・・政府の恐慌を惹起し、国民と警官の闘争となり、流血となり、暴行となり、軍隊の繰出しとなり、遂に首都に向つて戒厳令を布くの大騒擾となれり。」
「吾人の見る所を以てすれば、彼等の中、誠意熱心なる条約破棄論者なきに非ざると同時に、また必ずしも条約破棄を以て唯一無二の目的となすに非ざるものの極めて多きを知る。・・・聞けよ当局者、日本国民はその男女老若を問はず、一人として深大の怨恨を諸君に抱懐せざるはなかりし也。新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美しつつありし戦勝泰平の時期に於て、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭ひつつありしなり。彼等の諸君に対する怨恨は講和の条件によって醸成せられたるに非ずして、その強ひて押え来れる怨恨の戦争終結を待って爆発したりしのみ。」
「戦争開始の当時、朝野を挙げて勤倹の二文字を戦時国民の精神生命なりとし、これを以て児童走卒を教へ、富豪紳士は金具金品を日本銀行に納め、以て愛国心を競ひしに非ずや。・・・而して伊藤は妓を大阪に購ひて妾とし、井上は妓を携へて叡山に遊び、松方は赤十字事業視察の途次いたるところに淫蕩を恣(ほしいまま)にせり。それ出征者の家族、戦死者の遺族は飢うれども食なく、寒けれども衣なし。而して皆、『国家のため』の故を以て泣くことだに能はざりき。戦争に伴なふ社会的現象たる失業、貧困、犯罪の悲惨の如きは一顧さへも与へられざりし也。政府当局者よ、この泣く能はず言ふ能はざる悲惨の国民が、果して何等の情念を以て伊藤、井上、松方等の倣慢無礼を見つつありしと思ふや。」
「啻(ただ)これのみならず、内務大臣芳川顕正は淫蕩いたらざるなく、総理大臣桂太郎は万金を抛つて新たに妾宅を構へたり。・・・内務大臣の官邸の屡々襲撃せられ放火せられたるもの・・・実に芳川が戦時における国民侮辱の復讐なりと知らずや。・・・特に警察と兵隊とを以て桂の妾宅を警護したるに及んで、吾人は万斛(ばんこく)痛憤の涙を呑で筆を投ぜざる可らず。」
英文欄の記事「大示威運動」
「吾人はこの場合、ロシアの革命運動を想起するを禁じ得ない。勿論その形態と精神においてはロシアの騒乱と同一でないが、しかしその本質は同一であって唯一の相異は日本国民が愛国的熱情に昂奮し、いまだに彼等の真状態を意識しないことである。だが、吾人は日本国民が他日、彼等の意識に目ざめて更に一層猛烈なる示威運動に出ずべきことを、政府のために恐れるものである」と記す。
堺利彦「破鍋綴蓋(われなべとじぶた)の記」;
為子との再婚について率直に語る。独身の男女が一つ屋根の下で暮らしていれば、親しみの情がわくのは当然で、松岡文子も西川光二郎から思いを寄せられていた。文子の自伝『平民社の女 - 西川文子自伝』によれば、1904年の忘年会の場で、西川は文子を愛していることを堺たちに告白した。その翌月の新年会で、文子は堺と秋水の両方から西川と結婚するように勧められたという。
その後、西川の入獄に先だって二人は事実上の結婚生活に入っていた。
だが、「貞女二夫にまみえず」 の風潮が残っている時代であり、文子の前夫の松岡荒村は平民社の人々によく知られていたので、文子への風当たりは強かった。
その上、堺と為子も再婚することになったので、兵民社の風紀は乱れていると中傷する者が出てきた。とくに、キリスト教系の同志の間で批判が高まった。
秋水署名の短評「書空語」
その一項に「平和は唯だ壮麗なる首相の妾宅に存するのみ、人道は唯だ日比谷公園の棒杭の文字に存す……」と皮肉る。
*
9月10日
・警視総監安立綱之、引責辞任。後任は長野県知事関清英。
16日、内相芳川顕正、引責辞任。農商務大臣清浦奎吾兼任。
*
9月10日
・『火鞭』刊行。火鞭会機関誌。これは翌年5月(第9号)で終刊するが、『種蒔く人』より早く出現し、後年のプロレタリア文学の先駆をなすもの。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿