鎌倉 若宮大路 2016-02-18
*元亀4/天正元年(1573)
6月
・家康、二俣城の備えとして社山・合代島に砦を構築。
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6月3日
・アンジュー公アンリのポーランド王当選通知、パリ到着。ラ・ロシェルより撤退口実となる。
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6月9日
・万里小路惟房、没。
8月5日、嫡子輔房、急病没。
フロイスは、惟房は「キリシタンの最(悪)の敵で、はなはだ強情である。…(惟房)は)惨めな死を遂げた。そして、彼の後、まもなく、その長男も亡くなった」と書く。
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6月10日
・大友宗麟、横岳崇福寺を豊後壽林寺に還附。
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6月13日
・将軍義昭、信長打倒の再挙を画策し、毛利輝元に兵糧米を求める。
再び、信長・義昭の和議破綻。
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6月18日
・この日付けの『下京中出入之帳(しもぎょうちゅうでいりのちょう)』によると、この頃、京都には上京・下京ともに五つの町組があったことがわかる。
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6月23日
・仏、カトリーヌ・ド・メディシス、ラ・ロシェルのユグノーと条約締結。
ラ・ロシェルのユグノーに「信教の自由」を認める。
ラ・ロシェル、ニーム、モントーバンでの「礼拝の自由」を与える(カトリーヌが認めなくてもユグノーは獲得していた。惨めな撤退を隠蔽する目的の条約)。
26日、アンジュー公アンリ、ラ・ロシェルより撤退。ラ・ロシェル攻囲中、国王軍戦死2万2千。タヴァンヌ元帥、オマール公クロード(47、ギーズ公フランソワ弟)戦死。
ユグノー代表者、大貴族・諸侯より諸都市・共同体に変更。
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6月25日
・遊佐信教(畠山昭高老臣)、畠山昭高(河内国高屋城主)を弑逆。
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7月
・信長、上京放火の負担をやわらげるため、地子銭・諸役等の免除。
山城梅津長福寺へ守護使不入之地として寺領安堵。大覚寺門跡尊信へ寺領安堵。
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・信長、荒木村重に摂津一職支配を許す(摂津の統治委任)。村重は順調に勢力を拡大。 池田家当主知正は、義昭側についたが許されて、村重配下となるよう命じられる。
村重は、敵対する池田勢残存の掃討にかかり、原田城の勝正を攻め高野山へ追放、1574(天正2)年11月伊丹城(有岡城)を落とし伊丹氏を滅ぼす。
村重は、反信長勢の多い地域と国境を接し(西は播磨、北は丹波、東は山城・河内、南は淡路・和泉)、最前線を担う。
この内、丹波は明智光秀・細川藤孝の後方支援、山城・河内へは、池田家時代からの関係を利用して影響力を拡大。
和泉へは堺を通じて対応。
播磨・淡路へは軍事力を中心とする活動を積極的に行う。播磨は、毛利輝元東進の影響もあり、国人衆勢力は複雑で、政治的対応により別所長治など有力国人を取次ぎ、信長に面会させる。
また、備前の有力大名浦上宗景を支援。
淡路(巨大な経済・軍事勢力で石山本願寺への要所)へは、摂津尼崎・兵庫などから対応、時には水軍を編成して岩屋などを攻撃。
村重の摂津周辺の対応の根源は大坂石山本願寺で、村重は、大坂本願寺の封じ込めを主要任務とする。
よって、1574年(天正2)11月15日摂津伊丹城陥落後、伊丹へ入城(有岡城と改名)、これを本拠とし西国街道・尼崎・兵庫などの要所を管理し大坂石山本願寺に備える。
その中で、村重は、越前・紀伊への従軍も命じられる。
信長派としての活動する内に、村重配下の疲弊が進み、家臣の不満も募る。
1578年(天正6)5月、毛利領内で亡命政権を主導する足利義昭方との接触を開始、10月、信長に反旗を翻す。
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・信忠(17)、元服。
尾張の一部と東美濃支配を委ねられ、この地域の武士からなる「信忠軍団」成立。役割は武田氏への押え(岩村城は奪われ、明智城も窺われている状況)。
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・椎名康胤、神保長職を討伐して越中を平定。次いで、能登、加賀へ進出。
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・北条氏政、下総関宿城(古河公方家重臣簗田氏)の攻略へ。
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7月1日
・下京、4月に支払った礼銀により、7月朔日付で「下京町人中」にあてられた信長の朱印状(『饅頭屋町文書』)を獲得する。
「陣取りならびに新儀諸役非分などあるべからず、違背のやからあらば成敗を加うべし」(信長の軍勢が下京に陣を構えたり、また不法な賦課をかけることはしない。もしそれに背くような者が出たならば、信長が成敗する)という一文が記され、下京は信長の名のもと安全を確保することになった。*
7月1日
・信長、竹生島宝厳寺に坊舎・寺領安堵朱印状与える(「竹生島文書」)。
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7月3日
・義昭再挙兵。
河内の三好康長・遊佐信教、紀伊の根来衆も呼応、3,700で宇治槙嶋城(幕府重臣槙嶋昭光)に移る。二条城には御供衆日野輝資・高倉永相・伊勢貞興殿・三淵藤英ら2千。
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7月5日
・大友義鎮の船等、朝鮮に渡航。
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7月6日
・織田勢先手、将軍義昭の挙兵を聞き、新造の大船で琵琶湖を長浜から坂本まで60kmを1日で渡る。坂本着。
7日、信長、妙覚寺に陣をおく。織田勢7~8万、二条御所を攻撃、12日、三渕藤英降伏(降伏後、信長に従う)。
この大船はこの時一度使用されただけで、信長は「この上は、大船は必要なし」と判断、1576(天正4)年、猪飼野甚介に命じて船体を解体、新たに早舟10艘に作り変えさせる。
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7月6日
・ポーランド議会の要求、フランス国王軍、ラ・ロシェルの包囲を解く。
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7月10日
・顕如、一色藤長に書簡。
「当寺出勢の儀、曽我常陸介(将軍使者)に申渡し候。…その表(槙嶋)早々に賢慮にまかせれるべき事、勿論に候」(「顕如上人文案」)。顕如は義昭の挙兵をたしなめる。武田・浅井・朝倉との連携なしに危惧。
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7月10日
・細川藤孝、山城国桂川以西(西岡)の支配権を与えられる。一職に領知せよとの指令。
この地域に含まれる古くからの荘園領主は不満。従って、細川藤孝はその領域の各寺社家など荘園領主の所領をそのまま認める。
細川藤孝:
奉公衆三淵晴員2男、養子先の細川家は御供衆。仕えた将軍義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害された後、弟一乗院覚慶(のち義昭)を救出し近江・若狭・越前と放浪。信長と対立しこれを除こうとする義昭を説得、疎まれ義昭に勘当される(実際は、これより先に藤孝の忠誠心が薄れる)。元亀2年頃より信長・藤孝の手紙のやり取りは頻繁になり、元亀4年にも京都・畿内の情報を信長に送る。信長の上京時、逢坂で出迎え忠誠を誓う。
上洛当初の信長は、荘園領主(公家・寺社家・武家)ごとに、将軍の保障(公方様の御下知)を出し、これを信長が朱印状を添える手続きを行う。
荘園を旧領主のまま認め、最終的には信長に帰属する知行地として信長の土地大権に取り込み再編成する政策(荘園制から朱印制へ(荘園の知行化))。
細川藤孝へは「一職のこと」の条件提示。
入組、所々散在、本役、加地子、下司、公文分など荘園に対する様々な領主権益(職)を改めて整理・掌握する狙い。
一方、名主百姓には「他納」「二重成」を厳禁し、「指出」提出を命じ負担関係整理掌握を狙う。
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7月11日
・フランス、ブローニュの和議(ブーローニュ王令)。第4次ユグノー戦争終結
信仰の自由はすべてのプロテスタントに認められる。3都市(ラ・ロシェル、ニーム、モントーバン)及び上級裁判権を持つ若干の領主(前述3都市の住民とともに武器をとったもの)の私邸内での礼拝の自由を承認。
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7月12日
・ハーレム、開城。アルバ公スペイン軍の包囲するハーレム市、降伏・開城。スペイン軍、市民を虐殺。
ハーレムの戦いは、スペインのオランダ支配に弔鐘を鳴らす(ホラント州で最も弱い城壁の都市を陥落すのにスペイン精兵3万と1万発の砲弾を費やし7ヶ月の時間と兵1万2千を失う)。
アルバ公、ハーレム戦後、引退、スペインに帰国。アルバ公、アムステルダムで多額の借金をし支払期日の前に秘かにアムステルダムを脱出。一夜にして貧民に転落したオランダ人も出た。
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7月13日
・京都二条城内が洛中洛外土民の荒掠にさらされる。
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7月14日
・信長、毛利輝元宛書状「信玄病死」。
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7月14日
・信長、河内の保田知宗へ、柴田勝家への書状を披見した、去就に迷う河内高屋城主畠山昭高が遊佐信教に弑逆された件は無念である、保田の身上の理は聞き届けた、遊佐信教討伐は肝要である、と通知(「古案」坤)。
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7月中旬
・武田勝頼(28)、家督相続公表。
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