・・・モデルたちにも変化があらわれて来ている。・・・はじめはちらりほらりと、そうして一九世紀はじめの現時点では、ほぼ半分がたは爵位などはもっていない町人階級(ブルジョアジー)となっている。そうしてゴヤ自身も、その肩書をとってしまえば、明らかにマドリードの中層上位のブルジョアジーの一人である。・・・
アラゴンの、吹きさらしの曠野から攻めのぼって来た餓鬼大将は、マドリードの貴族社会に身をねじ込み、宮廷の扉をも、ついにこじあけさせた。
しかし、その宮廷社会にあったものは何であったか。
・・・
・・・彼の友人であり教導者でもあったホベリァーノスやウルキーホなどの友人たちが、・・・王妃とゴドイの意を体した怪物たちに思うがままに裁かれ、地下牢へ投げ込まれる。
最高位の貴族であるアルバ公爵夫人でさえ、毒殺されたという噂が絶えない。・・・
・・・、一八〇五年現在、ゴヤは五九歳である。・・・五十代とは、おしなべて人生が最高の達成、幸福と、最深度の転落、不幸の双方を味わわされる残酷な年齢である。・・・
ゴヤにおいても、それはまことにその通りであった。
五十代への入口にあって、大患に遭い生涯の聾者になってしまった。そうして五十代の門口をくぐってアルバ公爵夫人とのことでの天国と地獄の事があった。サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダのフレスコの大成功と版画集の『気まぐれ』・・・。
一七九九年、五三歳 - 首席宮廷画家。
一八〇二年、アルバ公爵夫人、死。
一八〇三年、ロス・レイエス通りに煉瓦造り三階建の家を八万レアール(現在の国際通貸、アメリカ・ドルで約二万ドル)で買う。
一八〇四年、サン・フェルナンド美術アカデミイ院長の選挙に立候補。
この立候補が、長く息を詰めて出世の階段を駈け上る習性の、最後のあらわれであった。・・・この最後のときの対立候補グレゴリオ・フェーロに二九票対八票でゴヤは敗れるのであるが、一七六四年にはじめて頭角をあらわして来て同じアカデミイの奨学生試験をうけたときにも、彼はこの同じフェーロにしてやられたのであった。この最後の選挙は、しかし、たとえ院長になったとしても、聾者ではこの役職は果せまいという、会員たちの判断が働いたものであったろう。いまさら何もそういうものにまでならなくてもよさそうなものであるが、執念の火はいまだに燃えつづけていた。
画家はいかに聾者であるとはいえ、彼の画布の前に立つ人々を通じて、マドリードのなみのブルジョアジーよりもずっとスペインのおかれた情勢に通じていたであろう。そうして、版画集『気まぐれ』において、彼自身それを如何に強烈果敢に批判をしてみたりしても、その無効性をも深く自覚していたであろう。「家が燃えているのに」、「誰も自分を知らない」・・・。
希望と絶望、幸福と不幸とが交互に襲いかかって来た五十代の出口にあって、彼はようやく妻のホセーファと息子のハピエールの許へ戻って来た。生涯かけての標的であった宮廷へのフリーパスを手に入れてみれば、宮廷は大小の陰謀の巣でしかなかった。
・・・
ゴヤ『ハピエール・ゴヤ像』(部分)1805
一人息子のフランシスコ・ハピエールが二〇歳になった。嫁をもらってやらなければならぬ。
嫁は、宮廷御用商人のマルティン・デ・ゴイコエチェアの娘グメルシンダ嬢ときまった。このゴイコエチェア氏は、偶々ゴヤの郷里サラゴーサの名士で、・・・
典型的なブルジョア同士の結婚である。宮廷画家の息子と、御用商人の娘、である。
式のあげられた一八〇五年から六年にかけて、ゴヤはこの息子と嫁の肖像画や、嫁の父母、妹二人などの細密画、それから珍しく彼自身の妻ホセーフアのデッサンなどを描いている。ホセーファは、栄光の頂点に達した夫の妻としては、いや、おそらくはそれ故にこそ、ほとんど醜いと呼ばねばならぬような、早過ぎる老いと疲労の影が濃く、眺めていて当方の方が苦しくなって来る。その表情には、これまでにすごして来た、人生に対しての怯えさえが感じられる。それはまことに無理からぬ次第であったであろう。ホセーファは生涯、とりわけて兄のパイユーの死後は、はらはらし通しで生きて来たものであったであろう。
画家の手は怖るべきものである。いやでも応でも、真実を、真実だけを描いてしまう。
同じことは、息子ハピエールとその嫁についても言える。・・・
ハピエールはすらりと背が高く、闘牛の牛のような親父とは比べものにならぬ美男子である。美男子 - とはいうものの、柔弱、懦弱、遊惰といったことばがすぐにロの辺に浮び出て来るような、そういう・・・遊冶郎であり、銀流しである。
・・・そうして新婦のグメルシンダは、これはいささか異様なことに、その顔をよくよく眺めていると中央アジアの、ウズベクスタンやカザフスタンあたりでよく見かける顔のように思われて来る。ゴヤ家もゴイコエチェア家も先祖はバスク系の人々であった。
しかし、やっと二十になったかならぬかの坊やをつかまえて銀流しの遊治郎というのは、いささか大人げないというわけであろうが、・・・
先にフェルナン・ヌーニェス伯爵像について触れた際にもそういうことばを使ったものであったが、この伯爵像に比べてみても、ハピエールはもっと柔弱で気骨というものがまったく感じられない。
ゴヤはこの一人息子を溺愛した。・・・ハピエールの前に四人もの子を死なせてい、その後も続々生れたが誰一人として育たなかった。母は疲労で次第に醜くなって行く。ハピエールにしてみれば、弟や妹が次々と生れて死んで行くのを見ていて、自身の生命力をも信じがたい気特がしていたものかもしれない。・・・
この息子 - 最新流行のルダンゴートを着て右手はチョッキに入れ、左手でケーンにのせた二角帽をもっている。瀟洒たる伊達男ぶりである。まことに成り上り者の息子然としている。彼はいっときは絵も描けるかに思われ、父親は版画集『気まぐれ』を王に奉献することと引きかえに、年金一万二〇〇〇レアール(約三〇〇〇ドル)をもらってやり外国への留学も一時考えたらしかったが、何をやらしてみても長続きがしないのである。政府に仕事を見つけてやっても一年でやめてしまう。アルバ公爵夫人が遺贈をしてくれた一日一〇レアールの小遣いもある。年金と合計してみれば、一万五六〇〇レアール(約四〇〇〇ドル弱)がある。
・・・。しばらくはこの新婚夫婦は父母と同居をしていたが、耳の聞えぬ、半狂人のような老いた義父は、若いグメルシンダにはつき合いきれなかったものであろう。すぐに夫婦は別居してしまった。
まことに不肖の息子であった、と言えるであろう。父の死後には、のこされた作品を高く売りつけることしか考えなかった。彼は六九歳で生を終るまでの一生、本当に何もしなかった。・・・
しかしこのハピエール像は、一人の若者のそれとして見るとき、少年期から大人への推移を、まことに適確にとらえたものとして、やはり驚嘆すべき眼のたしかさを示していると言えよう。・・・そのポーズは、ポーズそのものがすでに俗物、俗人として生きるであろう人の、どうにもならず俗っぽいものではあるが、しかし、顔はまだまだ子供のそれであって、弛緩した、というよりはまだ固まっていない顎は、これから世間の風のアッパーカットをくらって行く筈である。眼には、父に代表される世間の何たるかを問いかけようかどうしようかとためらっている風情があって、ともあれ、人間、少年期から大人への不安定な過渡というものは、まことにかかるものであろう、と痛感させられるものである。
”父と子”は、文学の永遠のテーマであったが、かくまでに精力的かつ創造的な父と、かくまでに無為、未成年ですでに年金生活者の若隠居になる息子のテーマもまたぎわめて珍しいケースであった。
さてしかし、このハピエールとグメルシンダの結婚式は、老ゴヤの、のこされた生涯にとっての思わぬ、今日のことばで言えばとんだハプニングを含むものであった。
というのは、参会していたゴイコエチェア家一統のなかにレオカーディア・ソリーリァ・イ・ガラルサという、当時一七歳のきわめて美しい少女が一人いた。この少女は、すぐにもイシードロ・ウェイスというバヴァリア出身の平凡な商人と結婚することになっていたのだが、この少女、後のウェイス夫人がホセーファの死後、離籍もしないままにゴヤ家に入り込んで来て大騒動がはじまるのである。ゴヤ六八歳のときに子供までが生れる。
・・・
ゴヤは自分一族の肖像画としては、早く死んでしまった妹リタの未完成のそれと、弟で聖職者となったカミーロ・ゴヤを描いている。
この弟の肖像は、おそらく彼が兄貴の尽力によってマドリード近郊のチンチョン教区に聖職者の地位をえたときに描かれたものであったろう。一七八三年にゴヤがドン・ルイース・デ・ブルボン殿下一族を描いたとき以来、この前枢機卿にして前トレド大司教の知遇をえていだものであった。もっとも、この殿下はその後間もなく故人になるが、息子のルイース・マリア・デ・ブルボンが成長をして、その地位についたものである。一七歳の枢機卿兼トレドの大司教である。カミーロは、この父か、子の、スペイン最高位の聖職者の口利きによってチンチョンの教区を得たものであった。
これは立派な大人の肖像であって、別に息子のハピエール像との比較をする必要もないわけであるが、でっぷりふとって顎が二重になっているこの弟は、溢れる精力を僧服で包みかくしてい、兄貴はそれとなく冷やかし笑いに笑っている気配が感じられる。
弟カミーロのチンチョン教区は、文字通りチンチョン伯爵夫人の領地であった。テンチョン伯爵夫人はすなわち平和大公マヌエル・ゴドイ夫人であって、この夫人が若き枢機卿ルイース・マリアの妹であった。
かつて、彼らの幼かったとき、兄が六歳、妹が二歳九ヵ月のときにゴヤはその全身像を描いたことがあった。兄のルイース・マリアはそのとき、青いルダンゴートを着てふんぞりかえっていたものであった。
おそらくゴヤは、弟のカミーロを描きながら、彼が口を利いてこの教区を弟に得させてやったことを思い出し、同時に宮廷の貴顕であるとないとを問わず、人間がさまざまに入り組んだ関係のなかに生きているものであることを考えたものであったろう。
しかも、その諸関係のなかで、人は、ここでも貴顕であるとないとを問わず子供をつくり、その子供がこれもさまざまに成長して行く。
マリア・テレーサ内親王は、成人してゴドイ夫人となり、ルイース・マリア親王は、一七歳でスペイン最高の聖職者となる。スペインとスペインが支配するアメリカの精神界の王である。この枢機卿の肖像は、先年サン・パウロ美術館所蔵画展が日本で催されたときに出品されていたから見られた人も多いであろう。
スペインは、一人のバルザックもトルストイももたなかったが、ゴヤの多の肖像画は、それ自体で一つの人間喜劇であり、同時にそれは一社会そのものなのである。
ゴヤは一人の裕福なブルジョアとして、耳は聞えぬながらに、ゆったりと暮している。
もう宮廷の階段をあわてて駈け上ったりする必要もない。いやむしろ、敬して遠ざかっていた方がいいのである。・・・
後年の財産目録で注目されるのは、金、銀、ダイヤモンドもさることながら、様々な椅子類が五四脚もあったことである。主人が聾者であるにもかかわらず、この多数の椅子は、彼の家で夜会(tertulia)が催されていたことを物語っていよう。・・・
スペインはフランスと英国との勢力角逐の場となる。今日で言えば、英仏の代理戦争の場にさせられるのである。・・・
一八〇五年、第三次対フランス大同盟が成立し、イギリス、ロシア、オーストリアがこれに参加し、トラファルガール沖でネルソンのイギリス艦隊はフランス・スペイン艦隊を徹底的に潰滅させた。しかしナポレオン皇帝はアウステルリッツ三帝会戦でロシア、オーストリア両皇帝軍を破る。
一八〇六年に入って、ナポレオンはベルリン勅令によって大陸封鎖命令を出す。
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