2016年2月28日日曜日

元亀4/天正元年(1573)7月16日~7月31日 将軍義昭追放、室町幕府(240年)滅亡 上京の再興に着手 天正に改元 「中世の秋」(大きな転換点) 「天下所司代」に村井貞勝を任命 [信長40歳]

鎌倉、長谷寺 2016-02-26
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元亀4/天正元年(1573)
7月16日
・義昭追放、室町幕府(240年)滅亡
信長7万、槙島着、五ヶ庄の柳山に布陣。
18日午前10時、宇治川を平等院・五ヶ庄方面から渡河、宇治槙嶋城包囲。攻撃、陥落。
義昭、息子義尋(2)を人質として差し出す。
同日、義昭、木下秀吉により河内若江(東大阪市)三好義継のもとへ護送(謹慎装うが諸勢力に御内書出し反撃試みる)。
このとき、義昭は「貧乏公方」と囃し立てられながら追放されたという(『信長公記』巻6)。
信長、槙島に細川昭元を置き、南方表に出勢して諸所を焼払い、21日、京都へ凱旋。
24日、義尋、佐和山へ移す。

南手(平等院北東より宇治川渡河(梶原景季と佐々木高綱が先陣争いをした古跡)、美濃衆):稲葉良通、氏家直通、安藤守就、齋藤新五郎、不破光治・息子彦三直光、丸毛長照・息子兼利、飯沼勘平、市橋伝左衛門、種田助丞。
北手(五ヶ庄から渡河、宿将):佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、明智光秀、荒木村重、細川藤孝と息子忠興、蒲生賢秀と息子氏郷、永原筑前守、進藤山城守、後藤喜三郎、永田刑部少輔、山岡景隆と息子景宗、山岡景猶、多賀新左衛門、山崎源太左衛門、平野長治、小河孫一、弓徳左近兵衛、青地千代寿、京極高次、池田孫次郎ら。

義昭追放後、信長の掃討目標にされる畿内大名:
①山城淀城(石成友通)、
②河内若江城(三好義継)、
③河内高屋城(畠山秋高)、
④大和多聞山城(松永久秀)、
⑤摂津伊丹城(伊丹忠親)。

上京の再興
義昭を京都から追放した直後より、信長は上京の再興にとりかかる。

条々     上京
一、前々の如く還住せしむべきの事。
一、陣執り、免除の事。
一、非分の課役を申し懸くべからざるの事。
一、地子銭を免除の事。 但し追って申し出すべく候条、それ以前に何方へも納所に能わざるの事
一、おのおの宅造おわるの間、人足を免許の事。
右、差し定むところ相違あるべからさるものなり。よって下知、件の如し。
  元亀四年七月 日     弾正忠(朱印)

このとき信長が上京にあてて出した「条々」(『上京文書』)には「陣執免除」(信長の軍勢が陣を構えない)や「非分課役を申し懸くべからず」(不法な賦課をかけない)といった条項が記されている。先に下京が多額の礼銀を支払って獲得したものと同じ内容のことを信長は上京にも認めた。
その他、下京には認めていない「地子銭免除」(宅地税の免除)や「人足免許」(力仕事などの労働賦課の免除)といった特権を意味する条項まで、「条々」に記されている。

このように上京にあてて出された「条々」からは、焼け野原となった上京を再興するため、信長がまずは町人の「還住(げんじゆう)」(本来の居住地に帰り住むこと)を進めようとしていたことがわかる。

一方、町人の還住策以外にも、上京に新たな都市開発に取り組んだ。それは、「新在家絹屋町」と呼ばれるもので、同町にあてて信長が出した「条々」(『上下京町々古書明細記』)によれば、その範囲は、天皇の住まう内裏より「南へ二町、近衛を限る、東は高倉を限る、西は烏丸を限る、二町」、つまり正方形の碁盤の目の四つ分の広さ=四町を占めるものであった。

「条々」には「惣構は下京に准ずべし」、あるいは 「町中の儀は、おのおのとして法度を定め申しつくべき」といった条項も見える。信長は、「新在家宿屋町」に下京をと同じような惣構をつくらせるとともに、町の掟を=「法度」も定めさせようとしていた。
信長は上京焼き討ち以降も、以前と同じく惣町や町などを利用しての洛中支配というスタイルを変えていなかった。"

『信長公記』巻六に「即時に町々家屋もとのごとく出来」とあり、すぐに上京再興が進んだと伝えられている。
焼き討ちの3年後、天正4年(1576)におこなわれた洛中勧進をでは、焼き討ちの前年、元亀3年(1572)の『上下京御膳方御月賄米寄帳』に見られる上京の町々と同程度(数では町が増加)ということが確認できる。

このことは、上京焼き討ちの際に類焼した日蓮宗(法華宗)寺院の頂妙寺の再興をとおしても確認できる。
頂妙寺住持・日珖(にちこう)の日記『己行記』天正3年(1575)条によれば、この年8月末から9月初におこなわれた学問所や大坊まわりの築地塀普請の際には、「学問所東は立売衆」「西は新在家衆」「北は西陣衆、大坊東は船橋衆」というようにに、立売町(あるいは立売組)や新在家絹屋町、あるいは川ヨリ西組(西陣組)や船橋(舟橋)町という、いずれも上京に所属する町や町組に住む檀徒たちの参加が確認できる。
普請に参加できるということは、そこには町や町組がある程度、復興していたと考えられ、したがって、天正4年の洛中勧進より1年前にはかなりの数の町人たちが「還住」していたことが知られる。
上京再興が順調に進んだ理由;惣町・町組・町の結びつき
「地子銭免除」「人足免許」などの特権が、町人たちの「還住」を促した。
しかし、それ以上に重要なのは、焼き討ち以前に上京に成立していた惣町・町組・町といった社会集団、共同体の結びつきが強固であったという事だと推測される。
焼き討ちの際に激しい乱妨狼籍が繰り広げられたが、一定数の町人たちはそれらから逃れ、惣町・町組・町といった結びつきを維持しつつ各地に避難していたと考えられる。
上京宛に出された「条々」が、紙に書かれた文書として伝えられている。文書であるということは、それを受け取ることのできる集団が存在していたということである。
仮にそのような集団が存在しなかった場合は、おそらく「条々」を木札に書き、適当な場所に立てて周知させるやり方になっただろう。
従って、焼き討ち以前に上京で成立していた惣町・町組・町といった社会集団、共同体は、一旦は別の場所に避難していたとしても、再び元のところへ戻れば、それ以前と同じような機能を発揮できるほどに強い結びつきとなっていた。
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7月17日
・朝倉義景2万、敦賀着陣、安養寺に本営。
後、山本山城降伏の報で江北進出、田部山に本陣。
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7月18日
・この頃、木下藤吉郎秀吉、姓を羽柴と変える。
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7月20日
・家康、武田方となった山家三方衆菅沼正貞の長篠城攻撃。
同じく三方衆作手城の奥平貞能・信昌父子は家康に協力。
家康、城中に火を放ち、久間・中山に付城を置き酒井忠次・菅沼定ミツら配備し浜松帰還。
菅沼正貞:
元亀3年12月、東三河侵攻の信玄別働隊秋山信友に敗れ、信玄に帰服。
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7月21日
・信長、改元内奏。
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7月23日
・「公方様御同意」した土豪渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門、稲葉一鉄の勧降により山城愛宕郡一乗寺城(京都市左京区)を退城。
一乗寺城は破却。磯貝は紀伊に蟄居させられ、後に殺害。

この日、渡辺某を一乗寺から退城させた直後、「すなわち東の郷人足を以て悉く破却し了んぬ(洛東の諸郷から人足を徴発して徹底的に破壊)」し、人夫調達は吉田郷にまで手が伸びている。
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7月24日
・この頃、明智光秀、土豪山岡(対馬守)景佐の籠もる城小倉山城(左京区岩倉小倉山)を攻撃(「兼見卿記」同日条)。
小倉山から脱出して静原城(左京区静市静原町城谷山)によるが、同年秋、光秀の調略により殺害(「信長公記」同年条)。
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7月27日
・信長、坂本から安宅船団率い高島郡の浅井拠点掃蕩。木戸・田中(安曇川町)占領、明智光秀を守備につかせる。
信長、高島郡内の浅井久政・長政父子知行所に進み、林与次左衛門方に布陣、知行所内を放火(「信長公記」では26日)。
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7月27日
・北條氏照、関宿城を攻める
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7月28日
・天正改元。
信長の奉請で年号が元亀から天正に改元。改元で旧時代からの訣別と、自分の威光を天下に示そうとした。天正の号は、信長の意向が強く働いていた。

「中世の秋」(大きな転換点)
前々年元亀2年夏、毛利元就(75)、没。
冬、北条氏康(57)、没。
この年夏、武田信玄(53)、没。
続いて、義昭追放(室町幕府終焉)。
このあと(秋)、浅井・朝倉氏滅亡。
しかし、伊勢長島の門徒衆と石山本願寺だけは燃上がる。
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7月28日
・この頃、信長、「天下所司代」に村井貞勝を任命。村井貞勝は在洛して、「天下諸色」を担当するよう命令を受ける(「信長公記」巻6)。

天正元年~4年((1576)のの京都市政に関する織田政権の発給文書をみると、殆どが明智光秀・村井貞勝が関係しており、しかも同時期の文書に「京都御代官両人」の職称が見られるなど、この段階では村井貞勝単独の所司代は成立するに至っていない。村井が所司代として市政に臨むのは、光秀が丹波方面の軍事に専念するようになる天正4年以降と考えられる。

「当代記」「甫庵信長記」には村井貞勝が、信長より条書を受け、上京の地子銭、諸役免除、鰥寡孤独(かんかこどく)の者の救済等について命じられるとある(但し、これは小瀬甫庵の創作)
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